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顔の交換
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スーパーでのバイトが終わり、スマホをいじりながら道を歩いていた。バイトのレジ打ちは精神的に疲れはするものの、2年もしていればその疲れにも慣れてしまう。すると突然スマホの画面が黒くなった。充電が切れたのだ。
「はぁ。」
ため息と共にスマホをポケットに押し込もうとしたとき、ふとその黒い画面に映る自分の顔が見えた。髪を後ろに束ね、前髪を両サイドに流したどこにでもいそうな見た目だ。鼻も口も目も輪郭も。そう思うとこの画面に映る女性が自分でないような気がした。
しかしそれも一瞬のこと。私はスマホをポケットにいれ、また歩く。今度はぼーっと前の方を見ながら。そうしてみると、自分が今ちゃんと世界のなかで生きていることがわかった。夕暮れが終わろうとしている。私は家の近くにひとつだけあるさびれた公園に立ち寄る。これはいつものルーティンになっていた。草は伸び放題で、遊具はすべて錆び、こんなところで遊んでいる子供をまだ一度も見たことがなかった。そこにひとつだけあるベンチに腰掛け、私はタバコに火をつけた。この公園の雰囲気が好きだ。みなに忘れられた場所というテーマがしっくりくるような雰囲気で、そこに座る私もすでにみなから忘れられていて、この公園の敷地内がひとつの忘れられた世界をつくり私を安心させるから。
煙はゆっくりと漂う。風のない公園内で煙はゆらゆらと上の方に上昇していく。しかし時に横に漂い流れていくこともあるのはなぜだろう。私はいつものようにタバコをくゆらし、何もない空間に視線を注いでいた。
「あの。」
耳元で声をかけられたような気がした。しかしここに人が来るはずはない。
「すいません。」
二度目の呼び声で私はふりむいた。日も暮れ、あたりはぼんやりとした視界につつまれていたが、そこに立つ女性はくっきりとその輪郭が目立っていた。美しかった。ルッキズム排斥運動がちらほらと見られるが、人間にはやはり優れた容姿というものがあるのだ。それによって繁殖の成功率は変わってくるのだから。
「はい?」
私は拍子抜けした声で応えた。
「突然すいません。ちょっとここ座ってもいいですか?」
女性の声はいかにも申し訳なさそうに聞こえた。それによってか、どこかその美しさを隠したいといった謙虚さではなく、本当にその美しさが邪魔でしょうがないといった気持ちが想像できた。
「えぇ。」
しばらく女性はもじもじとしていたが、
「一本ください。」
と口にした。私はつぶれたセブンスターの箱から残り少ないタバコを一本抜き出して彼女に渡し、ついでにライターも渡した。彼女は手慣れぬ動きでタバコに火をつけ、煙をむりに吸い込んだ。咳をこらえているのか、息を吸うたびに目を瞑り、眉間に皺を寄せた。
「あの、突然変に聞こえるかもしれないんですが。」
私は彼女の言葉を待つ。
「顔、交換しませんか?」
「はい?」
私は思わず尋ね返した。
「顔です。私のこの顔も交換したんです。でも、なんかしっくりこなくて。」
私はまだ理解がおいついていなかった。一周遅れで彼女は私の後ろを走っているような感覚だ。顔の交換なんてそもそも可能なのだろうか。
「顔の交換は可能です。結局は発現している遺伝子のバランスを変えて、私の今のこの顔のパターンと同じにすればいいんです。それを皮膚ごと移植しちゃうんですね。」
「はぁ。」
なにを言っているのかさっぱりわからなかった。たぶん可能なのだろう。しかし、そんなことしてもいいのだろうか。法的にも倫理的にも。それにお金はものすごくかかるに違いない。
「でもどうやって?」
私がそう尋ねたのは、彼女の美しさが自分のものになるという誘惑からだった。いつしか私の心は顔の交換をする方へと揺らいでいた。平凡で退屈で普通すぎる私の人生がここで変えられるかもしれない。もしかしたら女優なんかできるんじゃないか? なんていう期待をせずにはいられなかった。
「お金は私がすべて出します。それ専門の医者も私が紹介します。」
彼女の顔の緊張はいつしかほぐれてしまっていた。彼女のほうこそ自分の最悪な人生を路線変更できるとでも言うように。
「そのかわり、あなたの顔は私のものになりますがいいですか?」
「それは別にかまいません。」
私は一瞬私と似た母の顔を思い出したが、すでにこの世を去って久しかった。だからまぁ私の顔が変わったところで悲しむ人などいないのだ。
「じゃあこれ、名刺です。電話番号も裏に書いていますので。日程が決まったら連絡しますね。」
「じゃあ私のも。」
そう言って私はカバンの外ポケットにぐちゃぐちゃに丸めて入れられたレシートをとりだし、その裏に電話番号を書いて渡した。
「それじゃあ、連絡しますね。」
彼女はそれだけ言うと、吸っていたタバコを地面に捨てて、足で踏みつけて火を消した。3分の2が残っていた。歩いていく後ろ姿も美しかった。あの姿が私のものになるのだと考えると、生活の負担になっているタバコの一本が無駄になったくらい気にならなかった。立ち上がり、私は家路を辿る。空には綺麗満月が浮かんでいた。
家に帰り着くと私はさっそく鏡を見た。もう8年は彼氏がいない。最後にいたのは大学に在学中のころ。しかしその彼氏は私よりも可愛い後輩を見つけて、用済みの私をなんの躊躇もなく切り捨てたのだ。それから私は精神を崩し、大学へ行かなくなって退学した。一般には病んでるという状態だったのかもしれないが、そんなありきたりな言葉で決めつけられることにも腹が立っていた。
部屋はきれいに片付けられている。というよりも、散らかっていない。だから片付けてはいない。女で一人暮らしだと散らかりようがない。たまに掃除機をかけておけば、あとは弁当のゴミはゴミ箱にいれていればいいだけ。でもこれらとももうすぐお別れなのだ。あの美貌があれば彼氏もできるだろうし、それに別の仕事にもつけるかもしれない。私は思い切ってウィスキーのボトルを開けた。祝杯である。炭酸水で割り、ハイボールにしたその味は今までに味わったことのないほど美味で、すぐに酔った。
しばらく酩酊した頭でテレビを見ながら飲み続けていると電話が鳴った。出るとあの女性だった。たしか、中尾という女。
「ごめんなさい、夜遅くに。」
丁寧な喋り口調が電話の向こうから聞こえてくる。
「いえ、大丈夫です。どうしましたか?」
私は酔いを隠そうと必死だった。こんなことではしゃいでいると思われたくなかったのだ。
「日程決まりました。あさっての朝9時に公園で待ち合わせましょう。」
早すぎる。そんなに早く日程が決まるなんて思ってもいなかったが、別に不都合はない。むしろ早ければ早いほどいい。
「わかりました。」
それから細々とした持ち物や、注意点を彼女は説明していたが、それらを聞き流し、私は電話を切った。
もう一度部屋を見渡してみる。この部屋が変わるわけでもないのに、なぜかこれが最後なのだと思えた。私が私として見る景色でという意味なのだろうか。テレビを消し、布団に入る。酔いも手伝い、その日はすぐに眠りにつけた。
その日はあっという間に訪れた。繰り返しの日々の早さを思い知る。あらかじめ私はその日を一日休みにしていた。朝は7時に目が覚め、身支度をこなしてすぐに家を出た。
公園についたのは8時20分ほどだった。スーツ姿で足速に歩く人や、登校中の高校生らが公園の横を通るたびに、私を見た。こんなに朝早い時間から誰も足を踏み入れない公園のベンチに座っている私を不審な目で見ていた。私はうつむくしかなかった。仮に私の姿が目を引くほどに美しければ、別の目をもって彼らは私を見るのだろう。私はうつむいてその孤独な時間をやりすごす。
どれくらいそうしていたのだろう。もしかすると30分はうつむき続けていたかもしれない。
「すいません、おまたせしました。」
視線を上げると中尾が立っていた。やはり美しい。だが、その日は以前よりも地味な服装をしていた。私がそのことについて尋ねようとした時、
「行きましょう。」
と彼女は嬉々とした声で言った。私は中尾という奔流に流されるままに立ち上がり、彼女の運転してきた車に乗り込んだ。
車内はいい香りがした。甘くて、しかしくどくはない花のような香りだ。ただどこにも芳香剤のようなものは置かれていない。
「いい匂いですね。」
私は中尾に言った。
「えぇ、さっきまで花を置いていたんです。実家が花屋ですから。」
彼女の微笑みはやわらかいピンク色の花みたいだと私は思った。くわしくもないから、その花がなんなのかもわからないが、それでも彼女が完璧であることは揺らぎようがなかった。
「つきましたよ。」
気付かぬうちに車は大きな病院の裏駐車場についていた。思わず私は、
「もっと怪しいところだと思っていました。」
と口にした。すると彼女は笑った。口を大きく開けて、その脆い美しさを派手に崩すことでさらに上位の美しさを表現するかのような笑顔だった。私は彼女の笑顔を初めて見た。出会った時からずっと彼女は無表情だった。だから私は畏れおおい存在として彼女を見ていたのだが、この笑顔で彼女も普通の人間なのだと思えた。決して私と同じという意味ではないが。
「じゃあ行きましょうか。」
彼女は車を降りた。はしゃぎぎみの彼女の足音と私のスニーカーの足音が駐車場に不規則に木霊していた。その足音がいつしかいれかわり、私の足音なのか、それとも彼女の足音なのかがわからなくなる。そのことに気づいたとたん、私の中に小さな不安が芽生えた。ただ、それは芽生えただけ、むしってしまえばどうにかなる。ここまできて引き下がるわけにはいかない。私は変わるんだ。今までのつまらない灰色の人生を捨てて。踏み出す足を強く地面に叩きつける。私の足音だとわかるように。小さな扉が見えてきた。どんどんと近づく。そう、あそこには私の未来が……
手術は一瞬だった。
「さん、にー、いち。」
その声とともに私の意識は麻酔によって途切れ、同時に戻ってきた。頭ががんがんした。
「おわりましたよー。」
と、看護師の声が聞こえた。何が終わったのか。私が初めに思ったことは、斎藤美咲という、ひとりの人間として生きることが終わったということだった。実際そうであるのだから。これから私は別の人間として華々しく生きていくのだ。
私の顔には包帯がぐるぐる巻きにされていて、目元と鼻の穴と口だけが出ており、ミイラのようだった。そのままストレッチャーでベットまで移動し、そこに寝かされた。麻酔が切れ始めているのかひりひりと顔全体が痛んだ。しかしどうってことない。いざとなればナースを呼ぼう。そう心の中で呟き、私は眠った。
「おはようございます。大丈夫ですかー?」
翌日は看護師の声で目が覚めた。私はちゃんと眠れていたようだ。
「はい。」
「今からドクターが来ますから、起きて待っていてください。」
私は体のだるさから、首をちいさく縦に振るだけで返事を済ませた。私はテレビなどでよく見る闇医者を想像していた。歳をとっていて、白髪が混じり、フケを撒き散らしながら歩くような初老の男だ。しかし腕はたしかというあれである。そんなことを考えていると、
「おはようございます。調子はどうですか?」
と、若い爽やかな男がカーテンを開けて尋ねた。もちろん白髪も混じっていないし、フケもまきちらしていない。こんな人が、と思わせるような容姿だった。すると私の考えを察したのか、その医者は笑った。
「そうです。こんな私がなんです。でも、合法的にことを進めているので安心してください。」
彼の笑顔は私を安心させるに十分だった。思わず笑みを浮かべてその好意に甘えた。たぶん、というか確実にミイラの私の表情はあちらに伝わってはいないのだろうが。彼女の、中尾の手術はどうなっているのだろうか。そのことを医者に尋ねると、
「彼女は来週です。昨日あなたの顔のデータをいろいろ取りましたから、来週あたりには処理が終わっているでしょう。」
私の顔はデータで処理されるものなのか。顔なんてそんなもんなのか、と私は少し拍子抜けした。
「明日には退院できると思います。炎症もひどくないですし、今週中は抗生剤を飲んでもらいますが、それで施術はすべて完了ですから。」
医者の男は小さく一礼をして出ていった。そういえばあの人、私の名前を一度も呼ばなかった。そう気づいたのは、彼が去って数分ほど経った頃のことだった。ここに座っているのが実は中尾であるということもあるのだろうか。あの医者は私を中尾の容姿をした中尾でない人間と見ていたのか。いや、それはまだ本物の中尾がこの世界に存在しているからだろう。中尾が私に変わってしまえば私が本物になる。しかし、それは本物の私でなくなるということをも意味しているのでは? カーテンの白さが私の網膜全体に広がっていく。揺れる波。その向こう側を行き来する影。私はその光景となり、私は私でなくなる。視覚だけで存在するなにかになったような気分だった。
「熱ありますね。」
気づくと看護師の女性が私の額に手をあてていた。私は朦朧としていたのか。
「たぶん炎症が原因だとは思いますが、一応解熱剤もってきますね。」
そう言って看護師はどこかへ行ってしまった。まだ夜の7時くらいだった。看護師の女性は私をなんだと思っているのか。ただ事故にあった患者か、それとも私をもたない、実態はあるのにない、変わった生物として見ているのか。たぶん前者だろう。熱が上がっている。頭の内側から偽物の私が強くノックしているかのよう。私の意識までも占領しようと。そう考えているうちに私はまた眠り込んでしまっていた。
家までは中尾が送ってくれた。
「楽しみですか?」
車中、中尾は不思議そうな顔で私の様子をうかがった。ミイラの私は小さくうなずく。人は自分の未来に対してほんとうに期待するとき、その裏側に同じ量の不安をためこむ。私の場合、この包帯をはずしたとき、この顔面がやけど跡のようにただれてはいないか、医者はあぁ言ったがたまたま私の施術を失敗していやしないか、と考えていた。だから自分が期待にのみこまれることに耐えていた。
「そうですか。なんだか不安が勝っているみたいね。私もそうでしたよ。」
そう言って彼女は笑う。ふと彼女が今の顔になる前の顔が気になった。私のように特徴のないどこにでもありそうな顔だったのか、もしくは目も当てられないくらいに崩れていたのか。そのことについて私は迷った末に彼女に尋ねた。
「私? 私は事故で顔が顔じゃなくなったのよ。それで運転席に座っていた友達の顔はほぼ無傷だったの。でも胸から下が潰れて死んでいたわ。その時にたまたまふたりともこの病院に運ばれて、生きている私を手術したのね。で、なんやかんやあって友達の顔をいただくことにしたの。」
私などとは大違いの動機だ。私は自分の動機を恥ずかしく思った。
「そうだったんですか。」
「それで、なんでその顔を変えたいんですか?」
今にして思うとあの時の私の無礼は極まっていた。なにもかも、その顔に彼女の過去がつまっているというのに、その顔についてあれこれと尋ねていたのだから、プライバシーもなにもあったものじゃない。しかし、彼女は嫌な顔ひとつせず答える。
「私の場合、花よりも目立ってしまうのよ。花屋をしたいのに来る客はみんな私目当てで。繁盛するって親は喜んでいたんだけどね、私は商売道具になんてされたくないわ。」
彼女は笑った。それだけ? 私は疑問に思った。私はもっと切実な理由があると思っていた。ちょうど私が自分の人生を変えたいというように、彼女にも顔にまつわる深刻な問題があるのだと。私は黙って彼女の話の続きを待った。が、その続きが話されることはなく気づけば私の住むアパートはすぐ目の前に迫っていた。きっとなにかしらの理由があるはずなのに。
「じゃあ、なにかあればまた連絡して。」
彼女はそう言って私を置いて車で行ってしまった。道ゆく人がミイラのような私に視線を注ぐ。大怪我をしたような格好に好奇の視線を注ぐのは彼らの日常がそれだけ退屈だからなのだろう。私は急いで部屋に戻った。部屋は出てきた時となにも変わってはいなかった。あの日、これが最後だと思っていた部屋は、最後などではなかったようだ。鏡の前に立ち、頭にだけ包帯を巻いた私の姿を見る。この真っ白な包帯の下には花よりも美しい顔が、私ではない顔が、あるはず。一抹の不安がよぎったがそんなことを今更気にしてもすでに遅すぎる。私は頭の後ろにテープでくっつけられた包帯の端に指をかけた。
あの時の私にとっては彼がすべてだった。
大学に入り、私は家を出た。もともと母子家庭であったため、母はひとりで家に残ることが少し寂しいと漏らしていた。
「でも、私だって独り立ちしなきゃいけないんだから、お母さんも頑張ってよ。」
そう言うと母は笑って、
「そうね。」
とうなずいた。だから私に責任はないはずだ。
それから私は彼氏と住み始め、家に帰ることも、ましてや母に気を遣うこともなく、母など存在すらしていないかのように学生生活を楽しんでいた。入学から数ヶ月経ち、父の命日に家に帰ると、私は見たくないものを見てしまった。それは変わり果てた母の姿だった。頬はやつれ、老けが一気に進んでいるようだった。
「なんかあったの?」
私は玄関で母に対峙した途端にそう尋ねていた。母は私の問いに答えることもできず、ただゆらゆらとその場に立っていた。アルコールの匂いが私の肺を満たし気分が悪くなる。
「酒飲んでるの? なんで? まだ朝だよ。」
私は少しだけ声を荒げた。なぜか許せなかった。母が世間で言うアル中になっていることは一目で知れた。そんな異常者になんてなってはいけない、と。すると母の視点が急に私に絞られた。
「あんたになにがわかるのさ? ひとりで楽しんでるんだろう? 親の金で。私がどれだけ苦労して、寂しい思いをしているか。お父さんも帰ってこない。なにが独り立ちだよ。」
母は靴箱の上に置かれていた、枯れた花の飾られた花瓶をもって私に投げつけた。宙を舞ったそれは、私に当たらず私の背後の引き戸にあたって割れた。中からは茶色く変色した水が流れ出て、アルコールの匂いと混ざり、さらに私の吐き気を増長させた。
「わかったよ。出ていくから。お金もいらないから。」
私は感情的になっていた。家をでて、車に乗る頃にはすでに後悔していたが若いプライドが謝ることを許さなかった。健くんがいれば大丈夫。なんだってやっていける。私は自分にそう言い聞かせていた。
「どうした?」
当時付き合っていた彼氏の健は大学から帰ってきて、ベッドの上で体育座りをして落ち込む私の姿を見るなり尋ねた。私は自分がなぜ落ち込んでいるのかもわからず、ただただ後悔を何か別の感情でぬりつぶすことに必死だった。
「お母さんと喧嘩してきたの。でも、健といれば大丈夫だよね?」
私は笑いながら健に同意を求めていた。大丈夫だと言って欲しかった。自分以外の誰かの口から、自分のしたことが間違っていないということを証明して欲しかったのだ。健は一瞬困ったように眉間に皺を寄せた。私の心臓が強く脈打つ音が、体の内側から鼓膜を揺らす。大丈夫って言ってよ。おねがい。私は心の中で懇願していたのだが、表情には微妙な笑みだけが張り付いていた。
「あぁ。いいんじゃない。」
健は目も合わせずに言った。それはなんの答えにもなっていなかった。
「え、どういうこと?」
私は尋ねた。ふつふつと自分がいらだっていくことを感じた。
「ねぇ、どういうことなのよ?」
声は徐々に硬く、鋭くなっていく。健はその声が聞こえないかのようにカバンを勉強机に置き、着替え始めた。私は立ち上がり、健のそばに立つ。それから健の洋服をつかんで引っ張る。その洋服は健のお気に入りだった。どこから買ってきたものなのかはわからなかったが、ここ最近よく着ていた。彼は洋服を掴む私の手を振り払い、
「おまえなんも知らないのかよ。」
と、目も合わせずにつぶやく。
「俺、他に彼女がいるんだよ。お前が気づくようにいろんなことしてたよ。この洋服だってそいつからもらったんだ。周りの人だって、お前以外みんな知ってるよ。なんで気づかないんだよ。」
理解が追いついていなかった。目の前に破局が佇む。破局とはこんな姿なのか。こんなにもあっけなくて、普通の姿なのか。思えば彼はよくエミちゃんという子の名前を出していた。あの子のことなのだろう。あの子は可愛い。小さくて、小動物みたいで、顔もとびっきり可愛いのだ。
「じゃあ俺もぉ行くよ。戻ってこないから。」
私は膝から床に倒れ込む。そんな私に関心も示さず彼は行ってしまった。悲しいから、倒れたのではない。文字通り私の現実が音をたてて崩壊してしまったのだ。なにも考える気が起きなかった。それが第一の崩壊だった。
どれくらいそうしていたのだろう。部屋の中はまっくらで、窓から入る街灯の白い光で部屋の中はうっすらと照り輝いていた。そこにひとり倒れ込む私は、モノに近かった。もうこのまま世界が終わってもよかった。そのときふと私の脳裏に母の姿が浮かんだ。私は間違ったことをしてしまったと、そのときは素直に思えた。一気に申し訳なさが濁流となって私の心に流れ込む。その濁流が涙となって流れ出る。横に倒れ込む私の顔を、涙は横断していく。目から目へ、そして頬を伝って床に。父を失った母の気持ちが少しだけ分かったような気がした。
発信音がなんども鳴る。すでに時刻は夜の1時をまわろうとしていた。静けさがはりつめた部屋の中で私はなんども母に電話をかけたが、むなしく発信音が繰り返されるばかりだった。
私は鏡の前で、自分の過去を見ていた。やはりそれが最後なのだと思いながら。包帯をすべて外してしまえば私は別人になる。私が仮に可愛い子であれば健もいなくならなかったかもしれない。エミちゃんを中尾と比べれば、圧倒的に中尾の方が美しかった。その中尾の顔に、いやすでに誰のものとも知れぬその美しい顔に私がなれば、これからはあんなことも起きない。それに母のことも。
あの日、母は電話に出なかった。その翌日も、その翌々日も。結局私が母の死を知るのは、親戚からの電話でだった。
「お母さん首くくって死んでたよ。」
田舎に住むその親戚は、言葉を婉曲化するということを知らないようだった。事実をありのままに伝えた。その残酷さがよくあることとして田舎では認識されているのだろうか。それだけ聞いて私は電話を切った。慰めの言葉などいらなかった。悲しくない。悲しみなんてもう十分。私はその事実を聞かなかったことにした。もう縁を切っているのだからと。それが第2の崩壊だった。
母を殺したのは私なのかもしれないということを結局8年ほど引きずってここまできた。鈍痛のように、痛みの箇所をピンポイントにわかるということもなく、こころのどこかで、頭のどこかでその鈍痛はずっと私につきまとっていた。なにかで隠し、遠ざけ、なにもなかったかのように過ごしてきた。ただ、それはたしかにあった。
これですべてを切り捨てられる。過去の裏切られるほどつまらない私の容姿とも、鈍痛を抱えた私とも、私は縁を切れる。その意味で私は不安とともに、同じくらいの期待を感じていた。音もなくはがれていく包帯が私の肩に触れる。少しずつ私の黒い髪が見え、肌が見え、目が見えてくる。はずし終われば、包帯は爬虫類の脱皮後の皮のように床に力なく落ちていた。そしてそれは文字通り過去の私だった。目の前には、私でない誰かが立っていた。花よりも美しく、しかし中尾とは違う表情を浮かべた人間が。
しかし、美しいその女性は泣いていた。剥がされたその包帯をどうしようもなく恋しそうに見つめながら。裏切られることもなく、鈍痛を担うこともない未来を背負ったひとりの女性が、そこにいた。
「はぁ。」
ため息と共にスマホをポケットに押し込もうとしたとき、ふとその黒い画面に映る自分の顔が見えた。髪を後ろに束ね、前髪を両サイドに流したどこにでもいそうな見た目だ。鼻も口も目も輪郭も。そう思うとこの画面に映る女性が自分でないような気がした。
しかしそれも一瞬のこと。私はスマホをポケットにいれ、また歩く。今度はぼーっと前の方を見ながら。そうしてみると、自分が今ちゃんと世界のなかで生きていることがわかった。夕暮れが終わろうとしている。私は家の近くにひとつだけあるさびれた公園に立ち寄る。これはいつものルーティンになっていた。草は伸び放題で、遊具はすべて錆び、こんなところで遊んでいる子供をまだ一度も見たことがなかった。そこにひとつだけあるベンチに腰掛け、私はタバコに火をつけた。この公園の雰囲気が好きだ。みなに忘れられた場所というテーマがしっくりくるような雰囲気で、そこに座る私もすでにみなから忘れられていて、この公園の敷地内がひとつの忘れられた世界をつくり私を安心させるから。
煙はゆっくりと漂う。風のない公園内で煙はゆらゆらと上の方に上昇していく。しかし時に横に漂い流れていくこともあるのはなぜだろう。私はいつものようにタバコをくゆらし、何もない空間に視線を注いでいた。
「あの。」
耳元で声をかけられたような気がした。しかしここに人が来るはずはない。
「すいません。」
二度目の呼び声で私はふりむいた。日も暮れ、あたりはぼんやりとした視界につつまれていたが、そこに立つ女性はくっきりとその輪郭が目立っていた。美しかった。ルッキズム排斥運動がちらほらと見られるが、人間にはやはり優れた容姿というものがあるのだ。それによって繁殖の成功率は変わってくるのだから。
「はい?」
私は拍子抜けした声で応えた。
「突然すいません。ちょっとここ座ってもいいですか?」
女性の声はいかにも申し訳なさそうに聞こえた。それによってか、どこかその美しさを隠したいといった謙虚さではなく、本当にその美しさが邪魔でしょうがないといった気持ちが想像できた。
「えぇ。」
しばらく女性はもじもじとしていたが、
「一本ください。」
と口にした。私はつぶれたセブンスターの箱から残り少ないタバコを一本抜き出して彼女に渡し、ついでにライターも渡した。彼女は手慣れぬ動きでタバコに火をつけ、煙をむりに吸い込んだ。咳をこらえているのか、息を吸うたびに目を瞑り、眉間に皺を寄せた。
「あの、突然変に聞こえるかもしれないんですが。」
私は彼女の言葉を待つ。
「顔、交換しませんか?」
「はい?」
私は思わず尋ね返した。
「顔です。私のこの顔も交換したんです。でも、なんかしっくりこなくて。」
私はまだ理解がおいついていなかった。一周遅れで彼女は私の後ろを走っているような感覚だ。顔の交換なんてそもそも可能なのだろうか。
「顔の交換は可能です。結局は発現している遺伝子のバランスを変えて、私の今のこの顔のパターンと同じにすればいいんです。それを皮膚ごと移植しちゃうんですね。」
「はぁ。」
なにを言っているのかさっぱりわからなかった。たぶん可能なのだろう。しかし、そんなことしてもいいのだろうか。法的にも倫理的にも。それにお金はものすごくかかるに違いない。
「でもどうやって?」
私がそう尋ねたのは、彼女の美しさが自分のものになるという誘惑からだった。いつしか私の心は顔の交換をする方へと揺らいでいた。平凡で退屈で普通すぎる私の人生がここで変えられるかもしれない。もしかしたら女優なんかできるんじゃないか? なんていう期待をせずにはいられなかった。
「お金は私がすべて出します。それ専門の医者も私が紹介します。」
彼女の顔の緊張はいつしかほぐれてしまっていた。彼女のほうこそ自分の最悪な人生を路線変更できるとでも言うように。
「そのかわり、あなたの顔は私のものになりますがいいですか?」
「それは別にかまいません。」
私は一瞬私と似た母の顔を思い出したが、すでにこの世を去って久しかった。だからまぁ私の顔が変わったところで悲しむ人などいないのだ。
「じゃあこれ、名刺です。電話番号も裏に書いていますので。日程が決まったら連絡しますね。」
「じゃあ私のも。」
そう言って私はカバンの外ポケットにぐちゃぐちゃに丸めて入れられたレシートをとりだし、その裏に電話番号を書いて渡した。
「それじゃあ、連絡しますね。」
彼女はそれだけ言うと、吸っていたタバコを地面に捨てて、足で踏みつけて火を消した。3分の2が残っていた。歩いていく後ろ姿も美しかった。あの姿が私のものになるのだと考えると、生活の負担になっているタバコの一本が無駄になったくらい気にならなかった。立ち上がり、私は家路を辿る。空には綺麗満月が浮かんでいた。
家に帰り着くと私はさっそく鏡を見た。もう8年は彼氏がいない。最後にいたのは大学に在学中のころ。しかしその彼氏は私よりも可愛い後輩を見つけて、用済みの私をなんの躊躇もなく切り捨てたのだ。それから私は精神を崩し、大学へ行かなくなって退学した。一般には病んでるという状態だったのかもしれないが、そんなありきたりな言葉で決めつけられることにも腹が立っていた。
部屋はきれいに片付けられている。というよりも、散らかっていない。だから片付けてはいない。女で一人暮らしだと散らかりようがない。たまに掃除機をかけておけば、あとは弁当のゴミはゴミ箱にいれていればいいだけ。でもこれらとももうすぐお別れなのだ。あの美貌があれば彼氏もできるだろうし、それに別の仕事にもつけるかもしれない。私は思い切ってウィスキーのボトルを開けた。祝杯である。炭酸水で割り、ハイボールにしたその味は今までに味わったことのないほど美味で、すぐに酔った。
しばらく酩酊した頭でテレビを見ながら飲み続けていると電話が鳴った。出るとあの女性だった。たしか、中尾という女。
「ごめんなさい、夜遅くに。」
丁寧な喋り口調が電話の向こうから聞こえてくる。
「いえ、大丈夫です。どうしましたか?」
私は酔いを隠そうと必死だった。こんなことではしゃいでいると思われたくなかったのだ。
「日程決まりました。あさっての朝9時に公園で待ち合わせましょう。」
早すぎる。そんなに早く日程が決まるなんて思ってもいなかったが、別に不都合はない。むしろ早ければ早いほどいい。
「わかりました。」
それから細々とした持ち物や、注意点を彼女は説明していたが、それらを聞き流し、私は電話を切った。
もう一度部屋を見渡してみる。この部屋が変わるわけでもないのに、なぜかこれが最後なのだと思えた。私が私として見る景色でという意味なのだろうか。テレビを消し、布団に入る。酔いも手伝い、その日はすぐに眠りにつけた。
その日はあっという間に訪れた。繰り返しの日々の早さを思い知る。あらかじめ私はその日を一日休みにしていた。朝は7時に目が覚め、身支度をこなしてすぐに家を出た。
公園についたのは8時20分ほどだった。スーツ姿で足速に歩く人や、登校中の高校生らが公園の横を通るたびに、私を見た。こんなに朝早い時間から誰も足を踏み入れない公園のベンチに座っている私を不審な目で見ていた。私はうつむくしかなかった。仮に私の姿が目を引くほどに美しければ、別の目をもって彼らは私を見るのだろう。私はうつむいてその孤独な時間をやりすごす。
どれくらいそうしていたのだろう。もしかすると30分はうつむき続けていたかもしれない。
「すいません、おまたせしました。」
視線を上げると中尾が立っていた。やはり美しい。だが、その日は以前よりも地味な服装をしていた。私がそのことについて尋ねようとした時、
「行きましょう。」
と彼女は嬉々とした声で言った。私は中尾という奔流に流されるままに立ち上がり、彼女の運転してきた車に乗り込んだ。
車内はいい香りがした。甘くて、しかしくどくはない花のような香りだ。ただどこにも芳香剤のようなものは置かれていない。
「いい匂いですね。」
私は中尾に言った。
「えぇ、さっきまで花を置いていたんです。実家が花屋ですから。」
彼女の微笑みはやわらかいピンク色の花みたいだと私は思った。くわしくもないから、その花がなんなのかもわからないが、それでも彼女が完璧であることは揺らぎようがなかった。
「つきましたよ。」
気付かぬうちに車は大きな病院の裏駐車場についていた。思わず私は、
「もっと怪しいところだと思っていました。」
と口にした。すると彼女は笑った。口を大きく開けて、その脆い美しさを派手に崩すことでさらに上位の美しさを表現するかのような笑顔だった。私は彼女の笑顔を初めて見た。出会った時からずっと彼女は無表情だった。だから私は畏れおおい存在として彼女を見ていたのだが、この笑顔で彼女も普通の人間なのだと思えた。決して私と同じという意味ではないが。
「じゃあ行きましょうか。」
彼女は車を降りた。はしゃぎぎみの彼女の足音と私のスニーカーの足音が駐車場に不規則に木霊していた。その足音がいつしかいれかわり、私の足音なのか、それとも彼女の足音なのかがわからなくなる。そのことに気づいたとたん、私の中に小さな不安が芽生えた。ただ、それは芽生えただけ、むしってしまえばどうにかなる。ここまできて引き下がるわけにはいかない。私は変わるんだ。今までのつまらない灰色の人生を捨てて。踏み出す足を強く地面に叩きつける。私の足音だとわかるように。小さな扉が見えてきた。どんどんと近づく。そう、あそこには私の未来が……
手術は一瞬だった。
「さん、にー、いち。」
その声とともに私の意識は麻酔によって途切れ、同時に戻ってきた。頭ががんがんした。
「おわりましたよー。」
と、看護師の声が聞こえた。何が終わったのか。私が初めに思ったことは、斎藤美咲という、ひとりの人間として生きることが終わったということだった。実際そうであるのだから。これから私は別の人間として華々しく生きていくのだ。
私の顔には包帯がぐるぐる巻きにされていて、目元と鼻の穴と口だけが出ており、ミイラのようだった。そのままストレッチャーでベットまで移動し、そこに寝かされた。麻酔が切れ始めているのかひりひりと顔全体が痛んだ。しかしどうってことない。いざとなればナースを呼ぼう。そう心の中で呟き、私は眠った。
「おはようございます。大丈夫ですかー?」
翌日は看護師の声で目が覚めた。私はちゃんと眠れていたようだ。
「はい。」
「今からドクターが来ますから、起きて待っていてください。」
私は体のだるさから、首をちいさく縦に振るだけで返事を済ませた。私はテレビなどでよく見る闇医者を想像していた。歳をとっていて、白髪が混じり、フケを撒き散らしながら歩くような初老の男だ。しかし腕はたしかというあれである。そんなことを考えていると、
「おはようございます。調子はどうですか?」
と、若い爽やかな男がカーテンを開けて尋ねた。もちろん白髪も混じっていないし、フケもまきちらしていない。こんな人が、と思わせるような容姿だった。すると私の考えを察したのか、その医者は笑った。
「そうです。こんな私がなんです。でも、合法的にことを進めているので安心してください。」
彼の笑顔は私を安心させるに十分だった。思わず笑みを浮かべてその好意に甘えた。たぶん、というか確実にミイラの私の表情はあちらに伝わってはいないのだろうが。彼女の、中尾の手術はどうなっているのだろうか。そのことを医者に尋ねると、
「彼女は来週です。昨日あなたの顔のデータをいろいろ取りましたから、来週あたりには処理が終わっているでしょう。」
私の顔はデータで処理されるものなのか。顔なんてそんなもんなのか、と私は少し拍子抜けした。
「明日には退院できると思います。炎症もひどくないですし、今週中は抗生剤を飲んでもらいますが、それで施術はすべて完了ですから。」
医者の男は小さく一礼をして出ていった。そういえばあの人、私の名前を一度も呼ばなかった。そう気づいたのは、彼が去って数分ほど経った頃のことだった。ここに座っているのが実は中尾であるということもあるのだろうか。あの医者は私を中尾の容姿をした中尾でない人間と見ていたのか。いや、それはまだ本物の中尾がこの世界に存在しているからだろう。中尾が私に変わってしまえば私が本物になる。しかし、それは本物の私でなくなるということをも意味しているのでは? カーテンの白さが私の網膜全体に広がっていく。揺れる波。その向こう側を行き来する影。私はその光景となり、私は私でなくなる。視覚だけで存在するなにかになったような気分だった。
「熱ありますね。」
気づくと看護師の女性が私の額に手をあてていた。私は朦朧としていたのか。
「たぶん炎症が原因だとは思いますが、一応解熱剤もってきますね。」
そう言って看護師はどこかへ行ってしまった。まだ夜の7時くらいだった。看護師の女性は私をなんだと思っているのか。ただ事故にあった患者か、それとも私をもたない、実態はあるのにない、変わった生物として見ているのか。たぶん前者だろう。熱が上がっている。頭の内側から偽物の私が強くノックしているかのよう。私の意識までも占領しようと。そう考えているうちに私はまた眠り込んでしまっていた。
家までは中尾が送ってくれた。
「楽しみですか?」
車中、中尾は不思議そうな顔で私の様子をうかがった。ミイラの私は小さくうなずく。人は自分の未来に対してほんとうに期待するとき、その裏側に同じ量の不安をためこむ。私の場合、この包帯をはずしたとき、この顔面がやけど跡のようにただれてはいないか、医者はあぁ言ったがたまたま私の施術を失敗していやしないか、と考えていた。だから自分が期待にのみこまれることに耐えていた。
「そうですか。なんだか不安が勝っているみたいね。私もそうでしたよ。」
そう言って彼女は笑う。ふと彼女が今の顔になる前の顔が気になった。私のように特徴のないどこにでもありそうな顔だったのか、もしくは目も当てられないくらいに崩れていたのか。そのことについて私は迷った末に彼女に尋ねた。
「私? 私は事故で顔が顔じゃなくなったのよ。それで運転席に座っていた友達の顔はほぼ無傷だったの。でも胸から下が潰れて死んでいたわ。その時にたまたまふたりともこの病院に運ばれて、生きている私を手術したのね。で、なんやかんやあって友達の顔をいただくことにしたの。」
私などとは大違いの動機だ。私は自分の動機を恥ずかしく思った。
「そうだったんですか。」
「それで、なんでその顔を変えたいんですか?」
今にして思うとあの時の私の無礼は極まっていた。なにもかも、その顔に彼女の過去がつまっているというのに、その顔についてあれこれと尋ねていたのだから、プライバシーもなにもあったものじゃない。しかし、彼女は嫌な顔ひとつせず答える。
「私の場合、花よりも目立ってしまうのよ。花屋をしたいのに来る客はみんな私目当てで。繁盛するって親は喜んでいたんだけどね、私は商売道具になんてされたくないわ。」
彼女は笑った。それだけ? 私は疑問に思った。私はもっと切実な理由があると思っていた。ちょうど私が自分の人生を変えたいというように、彼女にも顔にまつわる深刻な問題があるのだと。私は黙って彼女の話の続きを待った。が、その続きが話されることはなく気づけば私の住むアパートはすぐ目の前に迫っていた。きっとなにかしらの理由があるはずなのに。
「じゃあ、なにかあればまた連絡して。」
彼女はそう言って私を置いて車で行ってしまった。道ゆく人がミイラのような私に視線を注ぐ。大怪我をしたような格好に好奇の視線を注ぐのは彼らの日常がそれだけ退屈だからなのだろう。私は急いで部屋に戻った。部屋は出てきた時となにも変わってはいなかった。あの日、これが最後だと思っていた部屋は、最後などではなかったようだ。鏡の前に立ち、頭にだけ包帯を巻いた私の姿を見る。この真っ白な包帯の下には花よりも美しい顔が、私ではない顔が、あるはず。一抹の不安がよぎったがそんなことを今更気にしてもすでに遅すぎる。私は頭の後ろにテープでくっつけられた包帯の端に指をかけた。
あの時の私にとっては彼がすべてだった。
大学に入り、私は家を出た。もともと母子家庭であったため、母はひとりで家に残ることが少し寂しいと漏らしていた。
「でも、私だって独り立ちしなきゃいけないんだから、お母さんも頑張ってよ。」
そう言うと母は笑って、
「そうね。」
とうなずいた。だから私に責任はないはずだ。
それから私は彼氏と住み始め、家に帰ることも、ましてや母に気を遣うこともなく、母など存在すらしていないかのように学生生活を楽しんでいた。入学から数ヶ月経ち、父の命日に家に帰ると、私は見たくないものを見てしまった。それは変わり果てた母の姿だった。頬はやつれ、老けが一気に進んでいるようだった。
「なんかあったの?」
私は玄関で母に対峙した途端にそう尋ねていた。母は私の問いに答えることもできず、ただゆらゆらとその場に立っていた。アルコールの匂いが私の肺を満たし気分が悪くなる。
「酒飲んでるの? なんで? まだ朝だよ。」
私は少しだけ声を荒げた。なぜか許せなかった。母が世間で言うアル中になっていることは一目で知れた。そんな異常者になんてなってはいけない、と。すると母の視点が急に私に絞られた。
「あんたになにがわかるのさ? ひとりで楽しんでるんだろう? 親の金で。私がどれだけ苦労して、寂しい思いをしているか。お父さんも帰ってこない。なにが独り立ちだよ。」
母は靴箱の上に置かれていた、枯れた花の飾られた花瓶をもって私に投げつけた。宙を舞ったそれは、私に当たらず私の背後の引き戸にあたって割れた。中からは茶色く変色した水が流れ出て、アルコールの匂いと混ざり、さらに私の吐き気を増長させた。
「わかったよ。出ていくから。お金もいらないから。」
私は感情的になっていた。家をでて、車に乗る頃にはすでに後悔していたが若いプライドが謝ることを許さなかった。健くんがいれば大丈夫。なんだってやっていける。私は自分にそう言い聞かせていた。
「どうした?」
当時付き合っていた彼氏の健は大学から帰ってきて、ベッドの上で体育座りをして落ち込む私の姿を見るなり尋ねた。私は自分がなぜ落ち込んでいるのかもわからず、ただただ後悔を何か別の感情でぬりつぶすことに必死だった。
「お母さんと喧嘩してきたの。でも、健といれば大丈夫だよね?」
私は笑いながら健に同意を求めていた。大丈夫だと言って欲しかった。自分以外の誰かの口から、自分のしたことが間違っていないということを証明して欲しかったのだ。健は一瞬困ったように眉間に皺を寄せた。私の心臓が強く脈打つ音が、体の内側から鼓膜を揺らす。大丈夫って言ってよ。おねがい。私は心の中で懇願していたのだが、表情には微妙な笑みだけが張り付いていた。
「あぁ。いいんじゃない。」
健は目も合わせずに言った。それはなんの答えにもなっていなかった。
「え、どういうこと?」
私は尋ねた。ふつふつと自分がいらだっていくことを感じた。
「ねぇ、どういうことなのよ?」
声は徐々に硬く、鋭くなっていく。健はその声が聞こえないかのようにカバンを勉強机に置き、着替え始めた。私は立ち上がり、健のそばに立つ。それから健の洋服をつかんで引っ張る。その洋服は健のお気に入りだった。どこから買ってきたものなのかはわからなかったが、ここ最近よく着ていた。彼は洋服を掴む私の手を振り払い、
「おまえなんも知らないのかよ。」
と、目も合わせずにつぶやく。
「俺、他に彼女がいるんだよ。お前が気づくようにいろんなことしてたよ。この洋服だってそいつからもらったんだ。周りの人だって、お前以外みんな知ってるよ。なんで気づかないんだよ。」
理解が追いついていなかった。目の前に破局が佇む。破局とはこんな姿なのか。こんなにもあっけなくて、普通の姿なのか。思えば彼はよくエミちゃんという子の名前を出していた。あの子のことなのだろう。あの子は可愛い。小さくて、小動物みたいで、顔もとびっきり可愛いのだ。
「じゃあ俺もぉ行くよ。戻ってこないから。」
私は膝から床に倒れ込む。そんな私に関心も示さず彼は行ってしまった。悲しいから、倒れたのではない。文字通り私の現実が音をたてて崩壊してしまったのだ。なにも考える気が起きなかった。それが第一の崩壊だった。
どれくらいそうしていたのだろう。部屋の中はまっくらで、窓から入る街灯の白い光で部屋の中はうっすらと照り輝いていた。そこにひとり倒れ込む私は、モノに近かった。もうこのまま世界が終わってもよかった。そのときふと私の脳裏に母の姿が浮かんだ。私は間違ったことをしてしまったと、そのときは素直に思えた。一気に申し訳なさが濁流となって私の心に流れ込む。その濁流が涙となって流れ出る。横に倒れ込む私の顔を、涙は横断していく。目から目へ、そして頬を伝って床に。父を失った母の気持ちが少しだけ分かったような気がした。
発信音がなんども鳴る。すでに時刻は夜の1時をまわろうとしていた。静けさがはりつめた部屋の中で私はなんども母に電話をかけたが、むなしく発信音が繰り返されるばかりだった。
私は鏡の前で、自分の過去を見ていた。やはりそれが最後なのだと思いながら。包帯をすべて外してしまえば私は別人になる。私が仮に可愛い子であれば健もいなくならなかったかもしれない。エミちゃんを中尾と比べれば、圧倒的に中尾の方が美しかった。その中尾の顔に、いやすでに誰のものとも知れぬその美しい顔に私がなれば、これからはあんなことも起きない。それに母のことも。
あの日、母は電話に出なかった。その翌日も、その翌々日も。結局私が母の死を知るのは、親戚からの電話でだった。
「お母さん首くくって死んでたよ。」
田舎に住むその親戚は、言葉を婉曲化するということを知らないようだった。事実をありのままに伝えた。その残酷さがよくあることとして田舎では認識されているのだろうか。それだけ聞いて私は電話を切った。慰めの言葉などいらなかった。悲しくない。悲しみなんてもう十分。私はその事実を聞かなかったことにした。もう縁を切っているのだからと。それが第2の崩壊だった。
母を殺したのは私なのかもしれないということを結局8年ほど引きずってここまできた。鈍痛のように、痛みの箇所をピンポイントにわかるということもなく、こころのどこかで、頭のどこかでその鈍痛はずっと私につきまとっていた。なにかで隠し、遠ざけ、なにもなかったかのように過ごしてきた。ただ、それはたしかにあった。
これですべてを切り捨てられる。過去の裏切られるほどつまらない私の容姿とも、鈍痛を抱えた私とも、私は縁を切れる。その意味で私は不安とともに、同じくらいの期待を感じていた。音もなくはがれていく包帯が私の肩に触れる。少しずつ私の黒い髪が見え、肌が見え、目が見えてくる。はずし終われば、包帯は爬虫類の脱皮後の皮のように床に力なく落ちていた。そしてそれは文字通り過去の私だった。目の前には、私でない誰かが立っていた。花よりも美しく、しかし中尾とは違う表情を浮かべた人間が。
しかし、美しいその女性は泣いていた。剥がされたその包帯をどうしようもなく恋しそうに見つめながら。裏切られることもなく、鈍痛を担うこともない未来を背負ったひとりの女性が、そこにいた。
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