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第五章 領主の妻のお仕事です
34.自分で選びます
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「おかしなことを言う。あなたじゃないなら、誰が出ていくというのですか?」
お義母様はバカバカしいと、首をお振りになる。
「貴族でなくなるあなたが、このまま当主ではいられない。それなら誰かにその座を譲るしかないでしょうに」
「ええ、貴族でなくなればそのとおりです。なくなれば……ですがね」
半分ほど残った白ワインのグラスを、ユーインは取り上げる。
指先で小さく柄を揺らすと、金色がかった液体が明るい照明にきらきらと輝いた。
「俺はマクレーン辺境伯ですよ。これまでもこれからも。既に陛下から『それで苦しからず』とお言葉を賜っています」
「ありえません!」
「あなたがどうお思いになるかはご自由です。だが事実ですよ。ああ、そうだ。尊い方々のお使いになる念話とやらで、王太子妃殿下にお尋ねになってはいかがですか」
唇の右側だけを上げてユーインは笑う。
(知ってたんだわ)
アンバーは理解した。
お義母様から当主を替えると言われた夜を思い出す。
ユーインはあの夜か、もしかするともっと前に、クラウス殺害の真相をつかんでいた。
平然といつもどおりの生活を送りながら、ひそかに戦の準備をしていたのだ。
さすが武門で名高いマクレーン辺境伯の当主。
一切の殺気を消して、静かに牙を研いでいた。
「あり……えないわ。養子縁組は既に解消されているはずよ。なのにどうして」
「平民女の産んだ庶子、しかも魔力なしの子。世界中どこででも蔑まれる存在だとは限りませんよ。美しい容器には興味がない。容器の中に入っているものにこそ価値があると、そういう価値観の世界もこの世にはある」
気負うでもなく、淡々と続けるユーインの静かな表情が、かえって怖ろしい。
怒りとか哀しみとか、お義母様に対する期待を一切排したことがアンバーにも伝わってくる。
(切ったのだわ。お義母様への情を)
「先代はあまり強いとは言えない方でしたね。それはあなたが一番よくご存知のことと思うが。だからマクレーン領では北との戦が絶えなかった。だが今はどうですか?」
領主としてのユーインはとても優秀だ。
以前フリードも言っていた。ユーインの代になって、この地の商工業が盛んになったと。
それは北からの侵略が静かになったことを意味している。
北のノース王国は勝てない戦をするよりは、交易による利をとった方が賢いとそう判断したのだ。
その勝てない戦の中心にいるのは、マクレーン辺境伯ユーインに他ならない。
「国境を挟んだ向こう、ノース王国のハモンド辺境伯とは知己でしてね。喜んで俺の後見を引き受けてくれましたよ」
アンバーは息を飲んだ。
いつ敵になるともわからない隣国の、武門の名家を後見人にするとは。
プレイリー王国の出方ひとつで、いつでも敵方につくぞと、そう脅したも同然だ。
北の国境を守る辺境伯の力は、実はそれほど重大で強い。
平和ボケしている王都の貴族たちは、忘れてしまっているようだけれど。
「ユーイン、正気ですか? 国を裏切るつもりですか!」
お義母様もさすがに顔色を失くしておいでだ。
声も身体も小刻みに震えている。
わずかの間、お義母様のそのご様子をじっと見つめてから、ユーインはふっと苦い笑いを漏らした。
「国を裏切る……か。あなたをとは、おっしゃらないのですね? おわかりのようだ。俺はあなたと同じ選択をしただけですよ」
お義母様を「あなた」と呼ぶユーインは、もう以前の母に忠実な息子の顔をしていない。
他人を見るような目で、かつて母と呼んだ人をじっと見据えている。
「本意ではなかったにせよ一時は息子と呼んだ俺より、あなたは夫とその間にできた我が子を選んだ。仕方ないことだと、思います。かつての俺ならすべて俺が悪いと、あなたの望むとおり当主の座を退いたでしょう。なんの未練もなくそうして、平民になってそれなりに生きた。そう思いますよ」
「では退きなさい。ここはあなたがいて良い場所ではない」
お義母様がユーインに向ける目も、まるで敵をみるようなそれだ。
敵、かつてお義母様の婚約者を寝盗った平民女を、ユーインに重ねておいでなのかもしれない。
「言ったでしょう? ここを去るのは俺じゃない。あなたです」
薄い青の瞳には、かつてお義母様に向けた敬愛とか慕わしさとか、そんな優しい情は全くない。
ただ事実をつきつける冷徹な目が、今は他人となった女性に向けられている。
なんの感情ものせられていない薄い青の瞳は、ひどく冷たく見えた。
「前マクレーン辺境伯夫人としての体面を保てるだけのものは、毎月お送りしましょう。お望みであれば王都に邸宅を用意します。むろんご実家へお戻りになるのも止めはしません。ご自由になさると良い。ただマクレーンの屋敷、ここはもちろん王都の別邸にはお近づきになりませんように」
「な……んですって?」
「あなたがお選びになったことです。俺よりもあなたの夫と実の息子をとった。だから俺はあなたより妻をとった。妻を手放すことはできませんからね」
ユーインが平民になったとしても、アンバーはかまわないと思っている。
アンバーには仕事があるし、ユーインだって騎士として、また為政者としても優秀な男だ。
爵位などなくとも不自由はしない。むしろ魔力なしと蔑まれることなく生きていけるのだ。願ったりかなったりではないか。
そんなアンバーの気持ちが、ユーインに伝わっていないはずはない。
「アンバー、あなたは良いの? 怖ろしい犯罪者の血をひく男の子を本当に産むつもり? あなたの子にあの女の血が入るのよ? わかっているの?」
お義母様がおっしゃることは、プレイリー王国では珍しくない考え方だ。
もしここにハロウズの母がいたら、「すぐに離縁しなさい」と強硬に言い張るだろう。楽に想像できる。
この国での常識。
それは前世の母や父から繰り返しすりこまれた「世間様」という言葉を思い出させて、吐き気がする。
男は女に優先されて当たり前。
嫁ぐ先はできるだけお金持ちで、血に濁りがないところが良い。身内に傷がない方が良い。
いったい自分たちをどれだけ優れたものと思っているのだろうか。
前世両親に抑えつけられていたアンバーでさえ思った。
だからお義母様のお考えを受け容れることはできない。
アンバーは正体のわからない「世間様」に従わない。
前世今生通して、初めて好きになったユーインだ。その彼が望んでくれるのなら、それがどんな風に生まれた子であってもかまわないと思う。誠心誠意大切にする。
「ユーインの実母がどんな方でも、ユーインはユーイン。彼女とは別人格です」
「あなたは産んでいないから、そんな夢みたいなことが言えるのね。子は親に似るものよ。もし子にでなければ孫やその先の子にいつか出る。それでいいわけないでしょう?」
ふう……とアンバーは内心でため息をついた。
お義母様の前でため息をつくのは無礼だから、ぎりぎりの線でそれだけは抑えたのだけれど。
お義母様のおっしゃることは、理解できる。ただ同意できないというだけだ。
そしてこのままいくら言葉を尽くしても、お義母様にご理解いただけないこともわかっている。
「国王陛下がお認めになったのですから、マクレーン辺境伯はユーインです。わたくしは妻として、夫を支えてまいりますわ」
つまりお義母様にはつかないと、明言した。
がくりと膝から崩れ落ちるお義母様に、危ないと思わず声が出そうになったけど、必死にかみ殺した。
手をお貸しすることはできない。してはいけない。
中途半端な情は、話を面倒にするだけだ。
「お身の周りのお世話をする侍女と使用人は、お好きなだけお連れください。お好みの邸宅があれば、いつでも購入いたします。どうぞご遠慮なくお申し付けください」
変わらず無表情のまま、ユーインが言葉をかける。
「あなたには感謝しています。こうなった今でも」
薄い青の瞳に、痛み、哀しみ、愛しさ、複雑な感情が初めて浮かぶ。
「ごきげんよう、母上。どうかお元気で」
くるりと背を向けて、ユーインは食堂から姿を消した。
お義母様はバカバカしいと、首をお振りになる。
「貴族でなくなるあなたが、このまま当主ではいられない。それなら誰かにその座を譲るしかないでしょうに」
「ええ、貴族でなくなればそのとおりです。なくなれば……ですがね」
半分ほど残った白ワインのグラスを、ユーインは取り上げる。
指先で小さく柄を揺らすと、金色がかった液体が明るい照明にきらきらと輝いた。
「俺はマクレーン辺境伯ですよ。これまでもこれからも。既に陛下から『それで苦しからず』とお言葉を賜っています」
「ありえません!」
「あなたがどうお思いになるかはご自由です。だが事実ですよ。ああ、そうだ。尊い方々のお使いになる念話とやらで、王太子妃殿下にお尋ねになってはいかがですか」
唇の右側だけを上げてユーインは笑う。
(知ってたんだわ)
アンバーは理解した。
お義母様から当主を替えると言われた夜を思い出す。
ユーインはあの夜か、もしかするともっと前に、クラウス殺害の真相をつかんでいた。
平然といつもどおりの生活を送りながら、ひそかに戦の準備をしていたのだ。
さすが武門で名高いマクレーン辺境伯の当主。
一切の殺気を消して、静かに牙を研いでいた。
「あり……えないわ。養子縁組は既に解消されているはずよ。なのにどうして」
「平民女の産んだ庶子、しかも魔力なしの子。世界中どこででも蔑まれる存在だとは限りませんよ。美しい容器には興味がない。容器の中に入っているものにこそ価値があると、そういう価値観の世界もこの世にはある」
気負うでもなく、淡々と続けるユーインの静かな表情が、かえって怖ろしい。
怒りとか哀しみとか、お義母様に対する期待を一切排したことがアンバーにも伝わってくる。
(切ったのだわ。お義母様への情を)
「先代はあまり強いとは言えない方でしたね。それはあなたが一番よくご存知のことと思うが。だからマクレーン領では北との戦が絶えなかった。だが今はどうですか?」
領主としてのユーインはとても優秀だ。
以前フリードも言っていた。ユーインの代になって、この地の商工業が盛んになったと。
それは北からの侵略が静かになったことを意味している。
北のノース王国は勝てない戦をするよりは、交易による利をとった方が賢いとそう判断したのだ。
その勝てない戦の中心にいるのは、マクレーン辺境伯ユーインに他ならない。
「国境を挟んだ向こう、ノース王国のハモンド辺境伯とは知己でしてね。喜んで俺の後見を引き受けてくれましたよ」
アンバーは息を飲んだ。
いつ敵になるともわからない隣国の、武門の名家を後見人にするとは。
プレイリー王国の出方ひとつで、いつでも敵方につくぞと、そう脅したも同然だ。
北の国境を守る辺境伯の力は、実はそれほど重大で強い。
平和ボケしている王都の貴族たちは、忘れてしまっているようだけれど。
「ユーイン、正気ですか? 国を裏切るつもりですか!」
お義母様もさすがに顔色を失くしておいでだ。
声も身体も小刻みに震えている。
わずかの間、お義母様のそのご様子をじっと見つめてから、ユーインはふっと苦い笑いを漏らした。
「国を裏切る……か。あなたをとは、おっしゃらないのですね? おわかりのようだ。俺はあなたと同じ選択をしただけですよ」
お義母様を「あなた」と呼ぶユーインは、もう以前の母に忠実な息子の顔をしていない。
他人を見るような目で、かつて母と呼んだ人をじっと見据えている。
「本意ではなかったにせよ一時は息子と呼んだ俺より、あなたは夫とその間にできた我が子を選んだ。仕方ないことだと、思います。かつての俺ならすべて俺が悪いと、あなたの望むとおり当主の座を退いたでしょう。なんの未練もなくそうして、平民になってそれなりに生きた。そう思いますよ」
「では退きなさい。ここはあなたがいて良い場所ではない」
お義母様がユーインに向ける目も、まるで敵をみるようなそれだ。
敵、かつてお義母様の婚約者を寝盗った平民女を、ユーインに重ねておいでなのかもしれない。
「言ったでしょう? ここを去るのは俺じゃない。あなたです」
薄い青の瞳には、かつてお義母様に向けた敬愛とか慕わしさとか、そんな優しい情は全くない。
ただ事実をつきつける冷徹な目が、今は他人となった女性に向けられている。
なんの感情ものせられていない薄い青の瞳は、ひどく冷たく見えた。
「前マクレーン辺境伯夫人としての体面を保てるだけのものは、毎月お送りしましょう。お望みであれば王都に邸宅を用意します。むろんご実家へお戻りになるのも止めはしません。ご自由になさると良い。ただマクレーンの屋敷、ここはもちろん王都の別邸にはお近づきになりませんように」
「な……んですって?」
「あなたがお選びになったことです。俺よりもあなたの夫と実の息子をとった。だから俺はあなたより妻をとった。妻を手放すことはできませんからね」
ユーインが平民になったとしても、アンバーはかまわないと思っている。
アンバーには仕事があるし、ユーインだって騎士として、また為政者としても優秀な男だ。
爵位などなくとも不自由はしない。むしろ魔力なしと蔑まれることなく生きていけるのだ。願ったりかなったりではないか。
そんなアンバーの気持ちが、ユーインに伝わっていないはずはない。
「アンバー、あなたは良いの? 怖ろしい犯罪者の血をひく男の子を本当に産むつもり? あなたの子にあの女の血が入るのよ? わかっているの?」
お義母様がおっしゃることは、プレイリー王国では珍しくない考え方だ。
もしここにハロウズの母がいたら、「すぐに離縁しなさい」と強硬に言い張るだろう。楽に想像できる。
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男は女に優先されて当たり前。
嫁ぐ先はできるだけお金持ちで、血に濁りがないところが良い。身内に傷がない方が良い。
いったい自分たちをどれだけ優れたものと思っているのだろうか。
前世両親に抑えつけられていたアンバーでさえ思った。
だからお義母様のお考えを受け容れることはできない。
アンバーは正体のわからない「世間様」に従わない。
前世今生通して、初めて好きになったユーインだ。その彼が望んでくれるのなら、それがどんな風に生まれた子であってもかまわないと思う。誠心誠意大切にする。
「ユーインの実母がどんな方でも、ユーインはユーイン。彼女とは別人格です」
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ふう……とアンバーは内心でため息をついた。
お義母様の前でため息をつくのは無礼だから、ぎりぎりの線でそれだけは抑えたのだけれど。
お義母様のおっしゃることは、理解できる。ただ同意できないというだけだ。
そしてこのままいくら言葉を尽くしても、お義母様にご理解いただけないこともわかっている。
「国王陛下がお認めになったのですから、マクレーン辺境伯はユーインです。わたくしは妻として、夫を支えてまいりますわ」
つまりお義母様にはつかないと、明言した。
がくりと膝から崩れ落ちるお義母様に、危ないと思わず声が出そうになったけど、必死にかみ殺した。
手をお貸しすることはできない。してはいけない。
中途半端な情は、話を面倒にするだけだ。
「お身の周りのお世話をする侍女と使用人は、お好きなだけお連れください。お好みの邸宅があれば、いつでも購入いたします。どうぞご遠慮なくお申し付けください」
変わらず無表情のまま、ユーインが言葉をかける。
「あなたには感謝しています。こうなった今でも」
薄い青の瞳に、痛み、哀しみ、愛しさ、複雑な感情が初めて浮かぶ。
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くるりと背を向けて、ユーインは食堂から姿を消した。
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