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第三章 シモンの章(シモンEDルート)
32.シモン、初めて気づく
しおりを挟む当代聖女オーディアナ。
ただの人であった時の名前は、公式にはなくなるはずの女性。
4聖使の上位に位置する最高神官、黄金竜にもっとも近い人。
ただそれだけの認識だった。
そのはずだった。
それがあれ以来、少し違う。
お茶に招かれて、
「他に誰を喜ばせるんですの?」
当然のように応えられたあの日から、シモンには彼女が特別に見える。
人の顔と名前は、必要に迫られて覚えてきた。
名前を呼んでから何か言えば、相手はシモンが自分を認識してくれていると思い、特別に接してもらったと錯覚した。
そうすればほとんどのことが、円滑にすすむ。
笑顔の一つでもつけておけば、さらに容易く片付いた。
それがどんな難題であってもだ。
必要がなくなれば、きれいさっぱりその記憶は捨てる。
人の顔さえ、覚えてはいない。
人の顔も声も性質も向けられる感情もすべて、シモンにとってはどうでも良いもので、皆同じに見える。
さすがに黄金竜の泉地へ来てからは、彼に負の感情をあからさまにむけてくる者はいなかった。
けれどたとえ好意的な感情を向けられたとしても、その奥底に聖使であるシモンに取り入って少しでも良い立場を得ようとする、そんな計算が見え隠れする者や、どうやら美しいらしいシモンの容姿に惹かれて、色めいた誘いをかけて来る者ばかりで、まともに取り合う気にもならない。
ところが。
彼女、聖女オーディアナ、いやパウラ・ヘルムダールは、それらと違った。
ここ黄金竜の泉地で最高位の女性である。
シモンに取り入る必要など、まるでない。
では色めいた欲求かと言えば、そうではない。
彼女は黄金竜の側室、竜妃でもあった。
候補時代にもやたらに生真面目な性分であった彼女は、聖女オーディアナになってさらに禁欲的になった。
流れるように自然に、淡々と、おのが務めを果たしている。
竜妃と呼ばれながら、夫に会ったこともない名のみの妻。
己の運命と、あきらめて生きているようだ。
その彼女がシモンに向ける好意に、裏はない。
純粋に、言葉どおり、彼を喜ばせたいと思ってくれた。
「僕にだけじゃないけどね」
口に出して、シモンは驚いた。
なんだ。
この不愉快な、胸の中を引っ掻き回されるような落ち着かない感覚は。
胸に手をあてて、大きく息をする。
ざわざわと、まるでムカデが這いまわるような感覚は、少しも消えてはくれない。
パウラがお茶に招くのは、シモンだけではないから。
セスランもオリヴェルもアルヴィドも、彼女はお茶に招いていた。
もっともエリーヌ・ペローの夫となったセスランにだけは、妻へ遠慮したからか、その招待はかなり稀なことではあったが。
名前をあげた男たちの顔を思い出して、シモンははっきり自覚する。
いやなのだ。
パウラに「喜ばせてあげたい」と言ってもらえる、あのふんわりと穏やかで優しい時間を、他の男が知っているのがいやだ。
それに気づいた時、シモンはまず驚いた。
自分の中にも、こんな感情の波があるのだと初めて知ったから。
慣れない感情は、同時に彼を不安にさせる。
頼りなく弱々しい、何もできない子供に戻ったような落ち着かない気分に。
「パウラがいけないんだ」
それがこじつけの勝手な言い訳だとわかっていても、シモンにはその言い訳が必要だった。
自分一人に優しくしてほしい。
そう素直に言えれば、どんなに良いだろう。
できるはずもない。
だから言い訳はどうしても必要で。
その情けない言い訳にすがって、その後シモンはパウラに会いに行くようになる。
それなりの口実を用意して周到に、そして頻繁に。
それからまた、長い月日が過ぎた頃。
水竜の代替わりがあった。
シモンは次代の水竜として、黄金竜や火竜、風流、地竜の住まう黄金竜の郷へ上がることになる。
行きたくないと、初めて思った。
ここを離れたくない。
ここにはパウラがいるから。
ここを出てしまえば、二度とは会えないはずだ。
既に水竜の力を宿したシモンには、パウラの寿命のつきる時がわかる。
そう遠くないうちに、聖女オーディアナは替わる、その時が。
最後だからと彼女はお茶に招いてくれて、寂しそうに微笑んだ。
「どうぞお元気で」
水竜となるシモンに、なんと意味のない定型の別れの言葉だろう。
それでもシモンの胸は、ちくりと痛んだ。
「ご一緒いただいた時間には、ずいぶん慰められましたわ。
心からお礼を申し上げます」
慰められたのは、シモンの方だ。
知らなかった初めてを、たくさん教えてもらった。
そのままを口にできれば、どんなに良いことだろう。
けれどできない。
自分の弱みを見せる上手な方法を、彼は知らなかったから。
「君も元気で」
口にしたのは、それだけ。
後でどんなに悔やむだろうと思う。
それでもシモンには、それしか言えなかった。
そしてついに、パウラが聖女オーディアナを下りる日がやってくる。
黄金竜の郷の水鏡で一部始終をのぞいていたシモンは、彼女の最後の望みを知る。
「もう一度、やり直したい」
ああ、それならば……。
次こそ自分がもらおう。
パウラへ向ける感情の正体を、この時のシモンは知っていた。
そして思う。
けして黄金竜の花嫁、聖女オーディアナになどさせるものか。
他の聖使にもそれ以外の男にも、誰にも彼女の姿を見せることなく、まして触れさせることなどけしてなく、水竜の花嫁としてこの腕に囲い込む。
シモンだけに微笑んで優しい言葉をかけるように、水竜の宮に閉じ込めてしまおう。
「次は必ず伝えるから。
待っててね、パウラ。
君は僕のものだよ」
パウラと同じ瞬間、シモンは意識を飛ばした。
過去の、パウラ6才のころのシモンの身体へ。
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