11 / 96
第一章 それは終わりから始まった
11. パウラ、意識を飛ばされる
しおりを挟むヴァースキー城の敷地は、街1つ分より大きいかもしれない。
やたらに大きな建物に、だだっ広い庭園、対岸が霞む湖に、狩猟にでも使うのかという森となだらかな丘。
リューカスに描いてもらった地図なしでは、簡単に迷子になるのは間違いない。
そのどこにも手入れが行き届いて、清潔で整然としている。
自然に見えるように整えられた森の小路を、パウラは小さな歩幅で駆けている。
基礎体力作り用にと、師匠のナナミから贈られた「すにーかー」という運動靴に、「どーぎ」とかいう例の厚ぼったい木綿のローブ姿で。
祭典後、来賓客たちからのあれやこれやのお誘いを丁重に辞退して、ようやく自由の身になったのは、既に陽も傾きかけた頃だった。
朝こなすはずだったメニューを、なんとかこなしてしまわないと。
ナナミの圧のある黒い瞳を思いながら、まずは走り込みにかかる。
「ハラバイは諦めるとして、ウケミはやっとかないと。
ウチコミも」
城から森まで約2キロ。
いつも走る距離と同じだけれど、この姿で堂々と出て行くのはさすがに目立つ。
フロシキと、ナナミがそう呼ぶ90センチ四方の布に「どーぎ」を包んで、散歩に出かける風にさりげなく部屋を出た。
メイドのメイジーを森の入口で帰すと、手早く着替えてようやく稽古を始めたところである。
日暮れまでには戻らないと、騒ぎになってメイジーが困るだろう。
フルセットは無理でも、半分くらいはしておきたい。
ウチコミに必要な、手頃な太さの木を探す。
まだそれほど大きくはないブナを見つけると、ぎりりと木綿の帯を結びつける。
左手を引き付けて、
「いち!」
素早く身体を返して、右で背負う。
「に!」
いつもは100回だから、せめて50回。
陽がすっかり沈んでしまう前に。
昼間の祭事でのシモンについて、考える必要は理解していたが考えたくなかった。
6+数千年の経験値をもってしても、あの表情の真意がわからなかったからだ。
「君は僕の花嫁なんだから」
こちらは理解できなくもない。
祭事において、シモンは黄金竜オーディの、パウラはその妻オーディアナの役を担った。
役割にかけたイタズラな言葉だと。
多分そうだろう。
だがしかしだ。
あの表情で、あの声で、その言葉は反則だと思う。
「愛しい」を糖衣でくるんで、ミルクチョコレートでコーティングしたようなひたすらに甘く優しい微笑。
それにホイップクリームをのせたココアみたいな、これでもかとだだ甘い声をのせて。
ぼーっとしないでいられるものか。
前世の記憶があったからこそ、うっかり騙されそうになった自分を立て直すことができた。
もしまっさらの6歳のパウラであったなら。
考えるだけでぞっとする。
「シモンですのよ、あのシモン。
しっかりしなさい、パウラ・ヘルムダール!」
喝をいれて、左手を絞った。
素早く身体を返した、その瞬間。
「随分と、楽しそうなことをしてるね」
くっくっと愉快そうに笑う声に、どきりとした。
少しばかり離れた木の枝に、片膝を立てて見下ろす青銀の髪の少年がいる。
楽しそうに笑いをためた、淡い緑の瞳。
(ああ、やっぱり)
なんとなく、あの意味深な態度と言葉だけで終わるとは思っていなかった。
二の矢がきっと、飛んで来るに違いないとは。
それにしてもだ。
一人で考える暇もくれない。
怒涛のラッシュで押し寄せるのは、許してほしい。
「ごきげんよう、シモン様」
とりあえず腰を落として頭を下げた。
黙って見ていた無作法には、あえて触れない。
余計なことを言えば、意地悪口を誘うだけ。
その意地悪に最適解を返す自信は、まるでない。
しゅたりと、いかにも軽く降り立つ気配がする。
数メートル上の枝から降りて、揺らぎもしない。
さすがにシモンは、ただの聖使ではない。
前世のとおりであれば、彼は次代の水竜であったはず。
人の世に関わることのない4竜は、永遠に生きると思われがちだが生き物としての寿命は彼らにもある。
一万年の寿命がつきると、次の竜が立つ。
ほとんどの場合、その時の聖使が次となった。
そして少し先に来る「その時」の聖使は、シモンであったはず。
「かなり警戒されてるみたいだね。
まあ、無理もないか」
聞きとれないほど小さな声でつぶやいて、頭を下げたパウラの顔をのぞき込む。
「……ん!」
音にならない声を上げて、パウラは息を飲む。
ヴァースキー家の、しかも直系の、水竜の血を色濃く継いだ男の顔を、間近で見るものではない。
女より長いまつ毛に、細く通った鼻筋、薄く形の良い唇。
父テオドールを見慣れたパウラでさえ、心臓に悪い。
「ち、近いです。
シモン様」
赤くなる頬を隠すように顔を逸して、後に下がった。
ますます混乱する。
いったいどうした、シモン。
前世、意地悪こそ数え切れないほど言われたが、パウラに興味のある素振りなど、一度も見せなかったのに。
あ、もしかしたら幼女趣味か。
6歳のパウラだから、興味があるとか。
だとしたら、やっぱりアブナイ。
ただの根性悪の黒いヤツの方が、まだマシだ。
怪訝な、イヤなものを見るような視線を向ける。
「君は……。
ひどいね、僕をヘンタイ扱いするの?」
噴き出しながら笑い転げて、シモンはもう一度距離を詰める。
パウラの前で跪いて、右手をとった。
「君は、まあ、今は幼い…。
ということにしといてあげるよ」
淡い緑の瞳が、にやりと薄く笑った。
「だけどね。
次に会う時、僕は本気でいくよ?
忘れないでね、パウラ」
あー、わからない。
今シモンはどういうつもりで。
なんのもくてきで。
ほんきって、なに?
まさか前世の記憶があることをしっている?
超高速でぐるぐる回る思考に目が回り、回り、焼け切れて。
ブラックアウト。
パウラの意識はそこで途絶えた。
☆☆☆☆☆☆☆☆
いつもお読みくださって、ありがとうございます。
これで初回シモンとの出会い編終了です。
次回からセスランとの出会い編です。
1
お気に入りに追加
184
あなたにおすすめの小説

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

誰からも愛されない悪役令嬢に転生したので、自由気ままに生きていきたいと思います。
木山楽斗
恋愛
乙女ゲームの悪役令嬢であるエルファリナに転生した私は、彼女のその境遇に対して深い悲しみを覚えていた。
彼女は、家族からも婚約者からも愛されていない。それどころか、その存在を疎まれているのだ。
こんな環境なら歪んでも仕方ない。そう思う程に、彼女の境遇は悲惨だったのである。
だが、彼女のように歪んでしまえば、ゲームと同じように罪を暴かれて牢屋に行くだけだ。
そのため、私は心を強く持つしかなかった。悲惨な結末を迎えないためにも、どんなに不当な扱いをされても、耐え抜くしかなかったのである。
そんな私に、解放される日がやって来た。
それは、ゲームの始まりである魔法学園入学の日だ。
全寮制の学園には、歪な家族は存在しない。
私は、自由を得たのである。
その自由を謳歌しながら、私は思っていた。
悲惨な境遇から必ず抜け出し、自由気ままに生きるのだと。

記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~
Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。
走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

【完結】引きこもり令嬢は迷い込んできた猫達を愛でることにしました
かな
恋愛
乙女ゲームのモブですらない公爵令嬢に転生してしまった主人公は訳あって絶賛引きこもり中!
そんな主人公の生活はとある2匹の猫を保護したことによって一変してしまい……?
可愛い猫達を可愛がっていたら、とんでもないことに巻き込まれてしまった主人公の無自覚無双の幕開けです!
そしていつのまにか溺愛ルートにまで突入していて……!?
イケメンからの溺愛なんて、元引きこもりの私には刺激が強すぎます!!
毎日17時と19時に更新します。
全12話完結+番外編
「小説家になろう」でも掲載しています。

あなたには、この程度のこと、だったのかもしれませんが。
ふまさ
恋愛
楽しみにしていた、パーティー。けれどその場は、信じられないほどに凍り付いていた。
でも。
愉快そうに声を上げて笑う者が、一人、いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる