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第四章 ヴァスキアの再興

44.なべて世は穏やかで

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 大陸の三国がそれぞれの国王を替えてから、一年が過ぎた。
 今年は適度な雨と太陽に恵まれて、穀倉地帯の収穫量も平年以上と見込まれている。昨年のようなひどい凶作の心配はない。
 マラークからヴァスキアへの食糧供給契約は、例年通りの規模で結ばれた。価格も量も適当なものだ。

「この冬は安心して過ごせそうね」

 王妃の執務室には、マラークから仕入れたお茶が香っている。
 マラーク産の茶葉の中では比較的安価なものを、オルガはいつも美味しく淹れてくれるのだ。現マラーク王妃ウルリカお奨めの茶葉もあるのだが、ラウラはそれを使うことを滅多に許さない。賓客の接待に使う他、貴族子女の教育に使うのだと二月ふたつきに一度開くお茶会用にととってあるからだ。
 ヴァスキア貴族のほとんどは、マラークによって虐げられた時代に零落して、それこそ日々生きるのが精一杯の暮らしを送っていた。お茶やコーヒー、ワインの類、嗜好品と言われるものなど口にしたこともない。
 けれどヴァスキアの再興がなった現在、貴族子女は次代の国の顔になる人材だ。一般的な基礎教養を身につけておかねば国の恥になる。
 茶葉やコーヒー、酒に始まる贅沢品の知識も、その教養の一環だ。なくても生きられるけれど、あった方がより豊かに生きられるものは、国の経済を大きく動かすのだ。「贅沢は敵だ」とか「質素こそ美徳」とか言うにしても、では贅沢とは何かをしらなければただのお題目に過ぎない。
 ヴァスキアの顔となる身なら、知った上で時々に応じて使い分けてもらわねば。

「オルガの講座、ずいぶん人気があるそうね」

 普段使いの飾りのないカップを口に運びながら、ラウラは手元の資料に視線を落とす。
 貴族子女と豊かな平民子女用に開かれた、教養学校の今期のカリキュラムがその先にある。
 ノルリアンからマラーク王宮へ共に入ったオルガの教養は、ただ王妃付き侍女としておいておくにはもったいない。週に二度、教師として礼儀作法と一般教養の時間を担当してもらっていた。

「わたくしなどが、おこがましいことです」
 
 ばば様エドラから授けられた知識と技を、次の世代に伝えているだけと、オルガは恐縮している。
 似たような反応はテオバルトもだ。彼にも紳士の作法と教養を週に二度担当してもらっていた。

「剣術ならまだしも、私に教養などと。お人が悪すぎます」

 人前で喋るのは苦手だとかぶつぶつ不平を慣らしていたが、ラウラは取り合わなかった。
 なにしろ人がいないのだ。
 10年余り、人を育てていない。そのツケが今回ってきている。
 なくしてしまうのは簡単で崩れるのはあっという間だが、取り戻すとなると骨がおれる。まるまる新規で作り直すのだから、手間も時間も金もかかる。潤沢な金もなければ教えを授ける人もなし。王妃であるラウラでさえ、週に一度経済学の担当をしているのだ。今ある人材は、あますことなく使わなくては。
 
「俺も手伝いますよ」

 オルガにテオバルトまで動員されているというのに声もかけてもらえないと、エカルトはふてくされている。
 けれど現在のエカルトは、どちらかというと学ぶ側の要素の方が多い。順当に王太子として過ごしていれば自然に身に着いたことを、今学び直している最中だ。もちろんばば様エドラが帝王学を授けはしたが、誰にも内緒でとなるとできることは限られていて、とても十分とは言い難い。不足分を急いで満たす必要があるのだ。
 それに頭の痛いことはまだあった。ハーケの後任、宰相に誰を置くかはかなりの難題だった。
 非常時には国王に代わって国政を動かす役職だ。当然国王と同等の知識や才覚が必要だった。そんな人材がごろごろ転がっているわけもない。育てるしかないのだ。
 ラウラはエカルトに進言して、騎士団の中から知に優れた人物を3名ほどノルリアンに送ることにした。

「ハーケにつかせてもらえるように、ばば様にお願いしておくから」

 ハーケにすがるしかない。現在の彼はノルリアンで宰相位についている。その側にいれば、短期間で多くを学べるはずだ。彼らが育つまでは、今のままラウラが宰相の代わりを務めるしかなかった。


 あれこれと考え事をしているうちに、ずいぶん時間が過ぎていたようだ。
 オルガの姿が消えていた。
 いつも近くに控えているオルガの不在の意味に気づいて、ラウラは小さく笑った。

(もうそんな時間なのね)

 窓に目をやれば、差し込む陽の色はほの暗い赤色に変わっている。
 石造りのバルコニーが長い影を落としたその先に、見慣れた革のブーツが現れた。

「終わりましたか?」

 聞きなれた声が響く。
 低くて耳に心地いい、少しだけ甘えたような声。
 顔を上げてその声の主に、ラウラは微笑んで見せる。

「ええ、もう終わりよ」

 終わってなくともそう答えなくてはならない。正直にまだ終わらないと答えたら、終わるまで待つと長椅子に座りこまれるのがわかっていたからだ。
 エカルトはいつでもラウラの側にくっついていたがった。
 執務をとる時でさえそうで、帝王学の補講を受けている時間だけしぶしぶ離れている。だから国王執務室には机がふたつあって、その1つは王妃ラウラの使うものだ。

「よかった!」

 ぱぁっと嬉しそうに笑って、エカルトはラウラに駆け寄ってくる。背中から椅子ごと抱きしめて、首元に鼻先をすりつける。

「夕食を一緒に。早く済ませてしまいましょう」

 語尾に甘さが滲むのもいつものことだ。
 あの夜以来、エカルトはおそろしく急いで食事を済ませてしまう。そしてじぃっとラウラを見つめるのだ。
「早く、早く」と心の声がダダ洩れの黄金色の瞳。とても食べるどころではない。いつも途中でカトラリーを置くことになる。
 今夜もきっとそうだ。

「ねえ、エカルト。たまにはゆっくり食事を楽しみましょう? 食糧も今のところ十分足りているし、料理長も張り切って用意してくれているのよ?」
「ええ。だから俺は残していませんよ。出されたものはみんな片付けています。むしろラウラです。もっと食べないと身体にさわります」

 大真面目に返してくるが、これはわかってやっているに違いない。つまり譲る気はないということだ。
 内心でため息をついて、ラウラはエカルトの頭に手をのばす。
 くしゃくしゃと撫でまわしてからぽんぽんと軽く叩くと、エカルトの鼻先がさらに強く擦りつけられる。

「早く済ませましょう?」

 こうなるともう、ラウラが食堂に行くまで離してはくれない。
 でも嫌ではない。
 ラウラの努力を喜んでくれているているのは他でもない。ラウラを唯一の最愛と呼び、ラウラもまたこの世で最も愛する男なのだから。

「そうね。早く済ませましょう」

 同意した瞬間、ふわりと身体が浮いた。
 ラウラを横抱きにしたエカルトが、とてもいい笑顔でラウラを見下ろしている。
 
「夕食にはまだ少し早いようです」

 ああ、やはりこうなったか。
 今夜の夕食は抜くことになるだろうと覚悟する。

(まあいいわ)

 右手を伸ばしてエカルトの頬に触れる。
 すると黄金色の瞳がすうっと細められ、黒い微笑の色がさらに濃くなった。

「続きは俺にさせてくれますよね?」

 その前にと、小さくこぼしてから唇が重ねられる。
 唇が離れたのは赤い陽が既に姿を消した後。
 夕闇がしっとりと、辺りをおおった頃だった。



 Fin
 
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