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第一章 最推し幸福化計画始動
1.推しは悪役令嬢だった
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ヴィシェフラド王国、その第一王女リヴシェは、今とても焦っていた。
背中には冷や汗が伝っている。がちがちに締め上げた頑丈なコルセットのおかげで、汗じみが浮き出ることは避けられそうだが。
舗装されていない道だというのに、ほぼ振動がない。
ノルデンフェルト帝国、その皇帝仕様の馬車であるから、座席の下にこれでもかと緩衝材が使われているのは当然のこと。
けれどこの揺れのなさは、そのおかげではない。
「どうした。
腹でも空いたか」
馬車の持ち主である皇帝ラスムスの、薄氷色の瞳が甘やかに滲む。
それも至極、ものすごく近いところで。
「ひ……膝の上から下ろしていただきたく……」
そう。
冷や汗の原因は、リヴシェの現在おかれた場所だ。
氷の皇帝ラスムス1世の、その膝の上にしっかりホールドされている。
「却下だ」
この上もなく優しい蕩けるような微笑を浮かべながら、彼、皇帝ラスムスは即座に首を振った。
前皇后とその息子である兄を排除して帝位についた、冷酷無比、氷の皇帝と呼ばれる男。
それがラスムス1世のはず。
ではこの目の前の男は誰だ。
水あめと蜂蜜をコンデンスミルクで煮詰めたような表情をした、黒髪の美青年は。
「リーヴ、俺をほめてくれ。
この程度で我慢してやってるのだからな」
耳元で囁く声は、掠れて甘く心臓に悪い。
車輪の弾みに合わせて右に左に動くはずの身体は、甘いムスクの香る胸にしっかり抱きしめられて、微動だにしない。
愛し気に髪を撫でられて。
「どうした。
本当に腹が空いているのか」
空腹など感じる余裕がどこにある。
少しもおさまらない背中の汗の冷たさに震えながら、リヴシェはものすごく焦っている。
これは何かの間違いだ。絶対におかしい。
彼、ラスムスはリヴシェにこんなことを言わない。
相手が違う。
彼が愛を囁くのはただ一人、リヴシェの異母妹いもうと二コラ・ジェリオにだけのはずだ。
ラスムス・ノルデンフェルトは、前世の愛読書「失われた王国」の男主人公。
その性癖、表情、言葉遣いなら、そらんじて言えるほどよーく知っている。
7歳の時、リヴシェは自分の前世を思い出した。
大雨が天からざぁっと降り注ぐような勢いで、一気に他人の記憶で脳内が満たされた。
日本という国で中堅どころのサラリーマンの娘として生まれ、それなりにまぁそこそこ幸せな生活を送っていたようだが、23歳で就職したばかりの頃、あっけなくぽっくりと逝ったらしい。
シフト制勤務で体内時計が狂いっぱなしだったこと、職場の人間関係が最悪だったこと、完璧主義過ぎた性格、心当たりはいろいろあるが、今となっては「ああそうだったな」くらい。
それよりも驚いたのは、現在の自分がリヴシェ・ヴィシェフラドであったことだった。
リヴシェ・ヴィシェフラドは、女神ヴィシェフラドの血を継ぐ王国の第一王女。
前世むさぼるように読んだ「失われた王国」のキャラの一人、ヒロインの異母姉だ。
リヴシェの父王は優しいだけが取り柄のような男で、リヴシェの母が亡くなると早々に愛妾であった女を王妃に据える。
彼女との間に生まれた娘がヒロインで、リヴシェは異母妹を執拗に苛め抜く。
王道の悪役令嬢そのもののリヴシェは、お約束どおりヒロインを愛した男主人公ラスムスによって処刑される。
冗談ではない。
7歳のリヴシェは、ぐっと拳を握りしめる。
ヒロインである異母妹二コラ・ジェリオは、小説を読んだ時から好きではなかった。
幼げで清らかで明るくて天真爛漫、金髪に緑の瞳の美少女設定だったが、作者はどうかしているのではと思ったものだ。
同性であれば、そんな清らかさは胡散臭いと感じるはずで、前世のリヴシェもヒロインの健気さや天真爛漫さの描写にはかなり鼻白んだ。だから直情型のヒロインの姉リヴシェがかわいらしく愛おしくて、これはぜひ彼女を幸せにしてやらなくてはと、勢いあまってファンサイトまで立ち上げた。少なくはない同志も見つかって、SNSのタイムラインはいつも賑やかだったものだ。
そんな自分が悪役令嬢、いや悪役王女と言うのが正しいのか。
ともかく敵役だ。そのリヴシェに転生したなんて。
けれど待てよと思う。
考えてみれば、これこそ究極の推し活だ。
リヴシェを思う存分幸せにしてあげられるじゃないか。
にひゃりと気味の悪いオタク的微笑を浮かべて、大きな鏡を見ればそこには小説どおり整った美貌の少女がいる。
艶のある長い黒髪に濃い紫の瞳、雪のように白い肌に小さな赤い唇。
ああ、これぞ愛しいリヴシェの姿だと鏡を撫でた。
リヴシェを幸せにすると決めたなら、具体策を練らねばならない。
まず当面考えるべきは、じきに来る母の死亡をできる限り回避すること。
母さえ元気なら、継母が王妃になることもなく異母妹が王宮に入ってくることもない。ヒロインが愛妾の娘のままであれば、リヴシェのいる王宮からは遠く離れた屋敷で暮らすから、関わる機会などほとんどない。
母王妃の死亡は、確かリヴシェ8歳の誕生日直前、王都に流行した病が原因だったはずだ。
(逃がせば良いのよね。
その時期に王都にいなければ、病気にはならないんだから)
幸い母はリヴシェをかわいがってくれている。もともと身体が丈夫ではないために、リヴシェ一人を産むのがやっとだったこともあるのだろうが、あふれんばかりの愛情を彼女に注いでくれる。公務の時間をやりくりしては、リヴシェの淑女教育に自らつきそう熱心さだし、彼女の身に着ける服飾品はどれも手ずから選んだものだ。
リヴシェが王都から離れて静養したいと強請れば、間違いなく付き添うと言ってくれるはず。
いきなり静養したいと言い出すのも不自然だから、そろそろ病弱なフリでもするか。
いかにも健康そのものの、ぷっくりふわふわの頬を指で押さえて、今日から食事を減らそうと決意する。
次に考えるべきは、できるだけ味方を増やすこと。
直情型のリヴシェはしょっちゅう癇癪を起して、傍仕えの侍女や数少ない遊び仲間を困らせている。
そのせいで異母妹二コラ・ジェリオの評価が相対的に上がるのだから、ここはなんとしてでも矯正すべき点だろう。
まずは傍仕えの侍女やメイドに優しく接すること。
それから遊び仲間、とりわけ母方の従兄ラーシュは、ぜひとも押さえておかなくては。
金髪碧眼の美少年ラーシュは、ラチェス公爵家の次男でありリヴシェの現在の婚約者だ。穏やかで優しい気性の彼は、直情型のリヴシェの相手に疲れ果て、天真爛漫で清らかな二コラに心を寄せて行く。小説ラスト近くで、ラスムスに反旗を翻すラーシュの胸の想いが切なくて、ラーシュ推しの数も侮れなかったと記憶している。
愛ゆえに剣をとったラーシュ、確かに乙女心はくすぐる。それはわかる。
けれどどうしてその愛の向かう先が、あのうさん臭い天真爛漫ヒロインなのだ。
くどいようだが、明るく元気で汚れなく清らかで天真爛漫な、そんな女はいない。この小説に出てくる男どもは、揃いも揃ってどうしてそんな初歩的なことがわからないのだろう。作者は女性を神聖視する、よく言えばロマンティスト、正味のところは拗らせ気味の処女厨なのか。
まあ良い。
作者の個人的趣味はおいておくとして、あのラーシュが二コラに走らなければリヴシェは婚約者を失わずに済む。
そうすれば、リヴシェが嫉妬にかられて二コラを苛め抜く理由がなくなる。二コラへの苛烈な虐めは、自尊心を傷つけられたことがきっかけだったから。ラーシュがリヴシェを愛していれば、いずれヴィシェフラドの女王と王配として彼ら二人はハッピーエンドだ。その後二コラがラスムスとひっつこうが別れようが、知ったことではない。お好きにどうぞだ。
冷血皇帝より穏やかで優しいラーシュの方が、共に暮らすなら心地よいだろうし。なにより金髪碧眼の王子様のような外見は、前世のリヴシェの好みど真ん中だった。
今後の行動指針として、ラーシュに嫌われないように注意しなければ。
大丈夫。
リヴシェ、あなたを幸せにしてあげるから。
鏡に映った美少女は、花のように可憐に微笑んでいた。
背中には冷や汗が伝っている。がちがちに締め上げた頑丈なコルセットのおかげで、汗じみが浮き出ることは避けられそうだが。
舗装されていない道だというのに、ほぼ振動がない。
ノルデンフェルト帝国、その皇帝仕様の馬車であるから、座席の下にこれでもかと緩衝材が使われているのは当然のこと。
けれどこの揺れのなさは、そのおかげではない。
「どうした。
腹でも空いたか」
馬車の持ち主である皇帝ラスムスの、薄氷色の瞳が甘やかに滲む。
それも至極、ものすごく近いところで。
「ひ……膝の上から下ろしていただきたく……」
そう。
冷や汗の原因は、リヴシェの現在おかれた場所だ。
氷の皇帝ラスムス1世の、その膝の上にしっかりホールドされている。
「却下だ」
この上もなく優しい蕩けるような微笑を浮かべながら、彼、皇帝ラスムスは即座に首を振った。
前皇后とその息子である兄を排除して帝位についた、冷酷無比、氷の皇帝と呼ばれる男。
それがラスムス1世のはず。
ではこの目の前の男は誰だ。
水あめと蜂蜜をコンデンスミルクで煮詰めたような表情をした、黒髪の美青年は。
「リーヴ、俺をほめてくれ。
この程度で我慢してやってるのだからな」
耳元で囁く声は、掠れて甘く心臓に悪い。
車輪の弾みに合わせて右に左に動くはずの身体は、甘いムスクの香る胸にしっかり抱きしめられて、微動だにしない。
愛し気に髪を撫でられて。
「どうした。
本当に腹が空いているのか」
空腹など感じる余裕がどこにある。
少しもおさまらない背中の汗の冷たさに震えながら、リヴシェはものすごく焦っている。
これは何かの間違いだ。絶対におかしい。
彼、ラスムスはリヴシェにこんなことを言わない。
相手が違う。
彼が愛を囁くのはただ一人、リヴシェの異母妹いもうと二コラ・ジェリオにだけのはずだ。
ラスムス・ノルデンフェルトは、前世の愛読書「失われた王国」の男主人公。
その性癖、表情、言葉遣いなら、そらんじて言えるほどよーく知っている。
7歳の時、リヴシェは自分の前世を思い出した。
大雨が天からざぁっと降り注ぐような勢いで、一気に他人の記憶で脳内が満たされた。
日本という国で中堅どころのサラリーマンの娘として生まれ、それなりにまぁそこそこ幸せな生活を送っていたようだが、23歳で就職したばかりの頃、あっけなくぽっくりと逝ったらしい。
シフト制勤務で体内時計が狂いっぱなしだったこと、職場の人間関係が最悪だったこと、完璧主義過ぎた性格、心当たりはいろいろあるが、今となっては「ああそうだったな」くらい。
それよりも驚いたのは、現在の自分がリヴシェ・ヴィシェフラドであったことだった。
リヴシェ・ヴィシェフラドは、女神ヴィシェフラドの血を継ぐ王国の第一王女。
前世むさぼるように読んだ「失われた王国」のキャラの一人、ヒロインの異母姉だ。
リヴシェの父王は優しいだけが取り柄のような男で、リヴシェの母が亡くなると早々に愛妾であった女を王妃に据える。
彼女との間に生まれた娘がヒロインで、リヴシェは異母妹を執拗に苛め抜く。
王道の悪役令嬢そのもののリヴシェは、お約束どおりヒロインを愛した男主人公ラスムスによって処刑される。
冗談ではない。
7歳のリヴシェは、ぐっと拳を握りしめる。
ヒロインである異母妹二コラ・ジェリオは、小説を読んだ時から好きではなかった。
幼げで清らかで明るくて天真爛漫、金髪に緑の瞳の美少女設定だったが、作者はどうかしているのではと思ったものだ。
同性であれば、そんな清らかさは胡散臭いと感じるはずで、前世のリヴシェもヒロインの健気さや天真爛漫さの描写にはかなり鼻白んだ。だから直情型のヒロインの姉リヴシェがかわいらしく愛おしくて、これはぜひ彼女を幸せにしてやらなくてはと、勢いあまってファンサイトまで立ち上げた。少なくはない同志も見つかって、SNSのタイムラインはいつも賑やかだったものだ。
そんな自分が悪役令嬢、いや悪役王女と言うのが正しいのか。
ともかく敵役だ。そのリヴシェに転生したなんて。
けれど待てよと思う。
考えてみれば、これこそ究極の推し活だ。
リヴシェを思う存分幸せにしてあげられるじゃないか。
にひゃりと気味の悪いオタク的微笑を浮かべて、大きな鏡を見ればそこには小説どおり整った美貌の少女がいる。
艶のある長い黒髪に濃い紫の瞳、雪のように白い肌に小さな赤い唇。
ああ、これぞ愛しいリヴシェの姿だと鏡を撫でた。
リヴシェを幸せにすると決めたなら、具体策を練らねばならない。
まず当面考えるべきは、じきに来る母の死亡をできる限り回避すること。
母さえ元気なら、継母が王妃になることもなく異母妹が王宮に入ってくることもない。ヒロインが愛妾の娘のままであれば、リヴシェのいる王宮からは遠く離れた屋敷で暮らすから、関わる機会などほとんどない。
母王妃の死亡は、確かリヴシェ8歳の誕生日直前、王都に流行した病が原因だったはずだ。
(逃がせば良いのよね。
その時期に王都にいなければ、病気にはならないんだから)
幸い母はリヴシェをかわいがってくれている。もともと身体が丈夫ではないために、リヴシェ一人を産むのがやっとだったこともあるのだろうが、あふれんばかりの愛情を彼女に注いでくれる。公務の時間をやりくりしては、リヴシェの淑女教育に自らつきそう熱心さだし、彼女の身に着ける服飾品はどれも手ずから選んだものだ。
リヴシェが王都から離れて静養したいと強請れば、間違いなく付き添うと言ってくれるはず。
いきなり静養したいと言い出すのも不自然だから、そろそろ病弱なフリでもするか。
いかにも健康そのものの、ぷっくりふわふわの頬を指で押さえて、今日から食事を減らそうと決意する。
次に考えるべきは、できるだけ味方を増やすこと。
直情型のリヴシェはしょっちゅう癇癪を起して、傍仕えの侍女や数少ない遊び仲間を困らせている。
そのせいで異母妹二コラ・ジェリオの評価が相対的に上がるのだから、ここはなんとしてでも矯正すべき点だろう。
まずは傍仕えの侍女やメイドに優しく接すること。
それから遊び仲間、とりわけ母方の従兄ラーシュは、ぜひとも押さえておかなくては。
金髪碧眼の美少年ラーシュは、ラチェス公爵家の次男でありリヴシェの現在の婚約者だ。穏やかで優しい気性の彼は、直情型のリヴシェの相手に疲れ果て、天真爛漫で清らかな二コラに心を寄せて行く。小説ラスト近くで、ラスムスに反旗を翻すラーシュの胸の想いが切なくて、ラーシュ推しの数も侮れなかったと記憶している。
愛ゆえに剣をとったラーシュ、確かに乙女心はくすぐる。それはわかる。
けれどどうしてその愛の向かう先が、あのうさん臭い天真爛漫ヒロインなのだ。
くどいようだが、明るく元気で汚れなく清らかで天真爛漫な、そんな女はいない。この小説に出てくる男どもは、揃いも揃ってどうしてそんな初歩的なことがわからないのだろう。作者は女性を神聖視する、よく言えばロマンティスト、正味のところは拗らせ気味の処女厨なのか。
まあ良い。
作者の個人的趣味はおいておくとして、あのラーシュが二コラに走らなければリヴシェは婚約者を失わずに済む。
そうすれば、リヴシェが嫉妬にかられて二コラを苛め抜く理由がなくなる。二コラへの苛烈な虐めは、自尊心を傷つけられたことがきっかけだったから。ラーシュがリヴシェを愛していれば、いずれヴィシェフラドの女王と王配として彼ら二人はハッピーエンドだ。その後二コラがラスムスとひっつこうが別れようが、知ったことではない。お好きにどうぞだ。
冷血皇帝より穏やかで優しいラーシュの方が、共に暮らすなら心地よいだろうし。なにより金髪碧眼の王子様のような外見は、前世のリヴシェの好みど真ん中だった。
今後の行動指針として、ラーシュに嫌われないように注意しなければ。
大丈夫。
リヴシェ、あなたを幸せにしてあげるから。
鏡に映った美少女は、花のように可憐に微笑んでいた。
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