その傘をはずして

みたらし

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第一章

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 レジ業務を終えた頃には、予定していた時間を一時間ほど過ぎていた。

 片づけを終えて出張所に帰ると、職員達は営業終了後の後作業をしていた。しかしそこに、井坂の姿はなかった。
「井坂君なら、もう帰ったよ」

 井坂は就業のブザーが鳴ったと同時に、そそくさと帰っていったそうだ。所長と叔父は複雑な顔をしていたが、僕は井坂と顔を合わせずに済んで内心安堵していた。今日一日を通して、彼とは一言も口を聞いていない。

 その夜、叔父から電話があった。内容は井坂のことだった。

 井坂は今日一日を通して、勤務態度がすこぶる悪く、小さいミスを連発したらしい。幸い業務に支障が出るほどの惨事にはならなかったが、明日は販売業務も行うので、お客さんとトラブルにならないか心配そうに話していた。一抹の不安はあったが、叔父に動揺と不安を感じ取られないよう適当にごまかして受話器を置いた。

 翌日、いきなり僕の不安は的中した。集合時間になっても、井坂が現れないのだ。
仕方なく叔父と所長に事情を話すと、二人ともあきれ返っており、僕が内勤業務を始めて一時間が経過したころ、気怠そうに鞄を担ぎながら井坂は現れた。

 所長は怒鳴りこそしなかったが、声には怒気が含まれており、顔は一切笑っていなかった。井坂は特に悪びれた様子もなく、平謝りをしてスーパーの業務に入った。

 伝票整理や郵便物の仕分け、窓口での応対業務をしているうちにあっという間に昼になった。内勤はスーパーの時のように動き回らなくてもいい分、計算や管理表の記入など頭と神経を使う場面が多いと感じた。

 昼休み、休憩室に井坂は現れなかった。所長に呼んできてほしいと頼まれたので僕は仕方なく井坂を探しに行った。

 井坂は倉庫で段ボールの解体作業を行っていた。それは作業というよりも破壊に近い動作で、彼の周りには所々が破れた段ボールが散在していた。

「井坂君。お昼だってよ」

 内なる怒りをぶつけるように、井坂は段ボールを蹴った。僕の声かけには答えない。

「ねえ、井坂君。ごは、」

「うるせえな。遅刻したから昼休み返上するって言っとけよ!」

 井坂が吠えるように言った。彼は何日も餌を与えていない虎のような獰猛な瞳で僕を睨みつけていた。大声に当てられ、胸がせり上がるような嫌な気分になった。

 休憩室に戻ろうとした時、背後で厭味ったらしい舌打ちと、くそ、という嫌悪感丸出しの台詞が聞こえてきた。所長と叔父に事情を話すと、二人とも明らかに井坂に手を焼いているようで、僕は昨日同様、昼休みなのにとても肩身の狭い思いをした。

 そんな横柄な態度だったので、井坂は午後の業務でも些細なミスを連発した。搬出作業や商品の入れ替えも、片山さんが何度注意しても満足にできず、レジ打ちの業務を行う際には、金額のボタンを打ち間違えたりお釣りを台にばらまくなど、レジに長蛇の列ができたようだった。

 挙句、井坂は就業時間ぎりぎりになってとんでもないことをやらかした。

 それは僕が窓口で札勘機を使用しお金を勘定していた時のことだった。後ろがにわかに騒がしくなり、こっそり様子を伺うと、何人かの男性職員が慌てた様子でスーパーへの連絡通路へ走っていた。気にはなったが、僕は初めて触る数百万円のお金に緊張していてそれどころではなかった。

 窓口の客を捌ききりようやく業務が落ち着き始めた頃、様子を見に行った女性職員がスーパーであったことを話しており、僕は職員たちの会話に聞き耳をそばだてた。

 事件の全貌はこうだ。井坂がレジをクビになり、商品の品出しをしている時、あろうことか彼は買い物をしていた老婆を突き飛ばしてしまった。老婆は床に倒れ、辛そうに足をさすってうずくまっていた。

 辺りには、老婆が購入しようとしていた買い物かごの中身が散乱し、割れた卵やつぶれたトマトが床一面に広がり悲惨な状態となったそうだ。

 それを見ていた男性客が井坂を注意したのだが、井坂は終始言い訳ばかりをして、老婆に対して簡易的な謝罪しかせず、駆け付けた所長の怒りがついに爆発した。その老婆は夕方の買い物客も顔なじみが多く、店内では老婆を擁護するような舌戦が繰り広げられ一時騒然としたのだという。

 就業時間が終わり、職員の人たちと室内の掃除をした後、僕は休憩室で手持無沙汰のまま待機していた。
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