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風が止んで、目を開けた時、ぼくは落胆しかけた。立っている場所は何も変わっていない。今までいた雑木林の小さな空き地だったからだ。
がっかりくる寸前のところではっと正面を向いた。
やっと気づいた。空き地が空き地でなくなっている。
今までなかったはずの荘厳な祠が目の前に佇んでいたのだ。
ぼくは今、初めてこの空き地の本当の姿を見た気がした。
シュワシュワとぼくの心の中で好奇心と戸惑いの泡がにぎやかに踊る。
もしかしたら、さっきの変なのは神様なんだろうか。神様だとすると今まで人間が抱いてきたイメージとはずいぶんかけ離れた、ちっちゃくてへんてこりんな姿をした神様だな、と思った。
「まあ、日本の神様は八百万って言うし。うん、あんな姿の神様がいても不思議じゃない……よね」
恐いもの見たさで祠の中をそろそろりと覗いてみると、奥から金色の輝きを放つ『何か』が奥を淡く照らし出していた。
横幅は畳を縦に二畳敷いた程度だったけれど、信じられないくらい奥行きがある。窓が全然ないので外からの明かりが届かずに真っ暗なはずだけど、部屋の奥に光の元となる巨大な何かがいた。
さっきの琥珀スライムにしては大きすぎる気がする。
サイダーを勇気のお守りにして、光を放つ対象物に近づいていく。
祠の内部は古びた感じがまったくなく、床板もくさっていたりはしない。歩いても埃さえ立たない。懐かしい海の匂いが漂っている。
鼓動が胸の内側からどくどくと容赦なく叩いてくる。好奇心の泡をいくつも発生させる。
「うわっ……」
ぼくは足を止めた。
すごいものを見てしまった。さっきの琥珀のスライムなんてヒヨコみたいなものに感じられてしまうほど。
祠の大きさを無視した全長が三百メートル近くもある金色の仏像。
……なんかじゃない、琥珀色の粘体に全身が埋もれた女の子だった。
幼さを十分に残しているけれど、なんとなく上品な顔立ちをしていて、腰まで届く長い黒髪。ちょっと古風な印象を受けるのは、きちんと切り揃えられている髪型のせいだろうか。
その女の子は粘体に埋もれて動く気配が全くない。瞳は閉じられたまま。
一方で、女の子を包む琥珀粘体は、うねうねと絶えず動いている。
更に驚くべきことには、女の子が着ているのはぼくが通っている茅野川中学の制服だった。深緑のブレザーに胸の赤いリボン、チェックのスカート。
ぼくはピンときた。この子はそう、失踪した転校生の女の子なのではないか、と。
帰宅途中、目の前の不思議な物体・琥珀粘体に襲われて取り込まれてしまった。
そうだ、きっとそうだ。絶対そうだ。
この子のことを心配している人たちが沢山いるんだ。家族とか、学校の先生とか。転校前にいた友達とか。
こんなところでおかしな生き物に包み込まれて身動きが取れない状態にあるなんて誰も考えのつかないことだろう。
けれど、ぼくは見つけてしまった。ぼくが見つけてしまった。こんなぼくが。
戸惑いの泡が踊ったけど、放っておくことなどできなかった。
心配してくれている人たちが沢山いるなんて、すごく羨ましいけれど……見つけてしまった以上、ぼくがなんとかしなくちゃいけない。
でも、どうやったら助けられるんだろう。
ぼくは手で口を覆って考えた。
触れたらどうなるんだろう。
……うかつに素手で触れたら、こっちまで取り込まれてしまうんだろうな、きっと。ミイラ取りがミイラ。それじゃ意味がない。
もう少し考えた方がいい。ここは慎重に考えよう。
「う~ん……」
心が動揺していて、良い考えがちっとも思い浮かばない。
「あなたは……?」
声が聞こえて思わず顔を上げた。琥珀粘体からだ。それも女の子の声。
「ここに入ってこられる人がいるなんて、驚き。ねえ、その制服、もしかして茅野川中学の人?」
閉じ込められている女の子が喋っているんだ。祠内に反響している。
「あ……う、うん、あの、ぼく、茅野川中学の三年生」
返事を返してみたものの、緊張して声が震えてしまう。決して琥珀粘体が恐いわけじゃない。普段あまり喋り慣れていないせいだ。
「やっぱり。わたしね、今年の四月にこの茅野川市に越してきたばかりなの」
「君は……えっと、喋れるの?」
すでに女の子の声を聞いているというのに、我ながら変な質問をしていると思った。
「うん、喋ること、できるの」と答えてくれた。
「変な生き物の中に埋もれて、まるで意識ないみたいに見えるけど……」
「口は動かせないけど、ちゃんと会話してるでしょ」
「うん、できてるね」
彼女の声はその金色の仏像のような風格に見劣りしないくらい落ち着いていて、危機感というものが微塵も感じられなかった。
「一体、いつからそんなふうになってるの」
「いつから……う~ん、とね、もう二週間くらい前から、かな?」
やっぱりそうだ。いなくなってからの日数からしても彼女は、行方不明になっていると言われている女の子なんだ。
「今、行方不明になってるんだよ。学校で噂になってる。えっと、『幻の転校生』とか」
「仕方ないわ。だって、ここから出れないんだもの」
あっさりと言う。
「あ、あのね、早く何とかしなくちゃ」
と、言って両手をあたふたさせても、どうすればいいのか分からない。
こうなったら思い切って触ってみようか。もしかしたら彼女の体を引っ張り出せることができるかもしれない。
試してみよう、と勇んでようやく一歩前に足を踏み出すと、
「待って、わたしを引っ張って出そうとするんでしょう。でも、やめて。このままにしておいて」
「な、何言ってるの、そのままだとどうなっちゃうか分からないよ」
「いいの。わたしはこのままでいたいから」
表情は変わらないので分からないけれど、声は淋しげだった。
ぼくはこの淋しさを知っている。毎日必ず湧いて出てくる、心の深い深い部分から絶えず浮いてくる淋しさの泡と同じ。淋しさの泡はサイダーの心を淋しさの味で染めてしまって、胸をきゅっと締めつける。
「わたしはどこに行ったって、結局は飾りでしかないもの。中身は空っぽな存在だもの」
「中身は空っぽ……」
胸に突き刺さる言葉だった。誰もいない薄暗がりの部屋で、独りひっそりと過ごす自分の姿を想像してしまった。
彼女にとってもその言葉はとても重い意味を持つのだと思う。
「えっと……んっと……何があったか知らないけど、そのままだとやっぱりまずいよ。これからどんどん騒ぎが大きくなっちゃうよ。誘拐されて殺されたかもしれないって噂されてるんだから」
「それでも、わたし、このままでいたいの」
「ほら、空気だって吸えない」……はずだ。
「平気。呼吸ができなくても、こうしてわたしは生きてるもの」
「う……ん」
生きているのかどうかは分からないけど。端から見ていると樹脂の中に閉じ込められた標本のようだから。
「この子は無害で、一緒にお話してて、楽しいもの」
「この子?」
「わたしをおおってる『あめもん』ちゃん」
「あ、あめもん……っていうの、それ」琥珀のスライムだ。
「うん。この子もね、わたしと同じなの。どんどん中身がなくなっていっちゃうんだって。せっかく遠い空からお父さんを捜しに来たのに。消えたくないから、中身をどうにかしなくちゃいけない。そんな時に、わたしを見つけたんだって」
「遠い空……えっと、まさか宇宙からやってきたとか?」
「うん、遠い宇宙からやってきたって言っているわ、この子」
「宇宙から飛来した生物……なのか」彼女の言葉を素直に捉えた。
ぼくはまた自分の部屋を思い返してしまった。日々の思いを、自分の部屋の小さな天井の宇宙に、泡にして飛ばしている。
あの小さな宇宙からこういう生き物が落ちてきたら、ぼくの淋しさを薄めてくれるだろうか。
「あめもんちゃんもね、わたし以外にここに入ってこれた人がいたことに驚いてるわ。それもまさかわたしが行くはずだった学校の人だったなんて……」
「そうだよ、きっとこれも何かの縁ってやつだよ。何かの縁って……何か分からないけど。あんまり学校に通っても面白くないけど……ほら、お父さんとかお母さんだって心配してるわけだし」
「いいの、このままにしておいて。わたしはお父さんとお母さんの飾りじゃないもの」
結局ぼくは彼女の頑なな意思に負けて、それ以上掛ける言葉をなくしてしまった。第一、空っぽの生活を送っているぼくなんかが、彼女を説得できるはずもなく。
ただただ、まばゆいばかりの金色の輝きに圧倒されるばかりで。
『あめもん』の中に閉じ込められたままの転校生。
彼女は、小野寺日向。
もしかしたらこの時、ぼくの心の中でちっちゃな金色の泡がぽっと浮かび上がったのかもしれない。
光り輝く希少な泡。この時のぼくは、きっとこの泡も掴むことができずに、ただはかなく消えていくのを見送っていたに違いない。
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