一条春都の料理帖

藤里 侑

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日常

第753話 刺身

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 滞在期間は決して長くはないはずなのだが、なんだかとてもゆっくり過ごしている気がする。
「おお、涼しい」
 家の裏手にある川の近くは、爽やかな空気で満ちている。小さい頃は、兄さんたちと一緒に釣りをしたっけ。
 ぼんやりとあるようなないような記憶をたどりながら、押し入れで見つけた釣り道具を持ってきて、糸を垂らす。
「まあ、期待はしてないけど……」
 そもそも、ここで何が釣れてたっけ。何も釣れてなかったっけ。あれっ、もしかして、釣りのまねごとをさせてくれただけか?
 確かに俺は何でもやりたがったから、その可能性も否めない。
「もしそうだったら俺、すげぇ間抜けなことしてないか……?」
「何を一人でしゃべっているんだ?」
「おわっ」
 びっくりした、おじいちゃんだ。
 すっごい厳格な人で、真面目で、滅多に笑わない。厳しい人だって聞いた。実際、今回帰って来てから、話をした覚えがない。ずっと部屋にこもっていたはずだけど。
 総一郎という名前も、厳格そうだ、と勝手に思っている。一条総一郎。うーん、めっちゃ難しい論文とか書いてそう。
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
 そう言いながら、じいちゃんは隣にやって来た。背も高く、精悍な顔立ちで、体格もしっかりしているから、確かに威圧感はある。
「いや、何か、釣れるかなあって……」
「ふむ……」
 おじいちゃんは川をのぞき込む。なんかアドバイスとかしてくれんのかな。
 しかし、おじいちゃんはそれ以上何も言わなかった。ただただ川のせせらぎと、セミの鳴き声が聞こえるばかりだ。だんだん、セミの鳴き声と川の音が混ざり合って、どっちがどっちか分からなくなる。
「……おじいちゃんは釣り、好き?」
 つい聞いてみれば、おじいちゃんは難しそうな顔をしたまま言った。
「やったことがない」
「……そっかあ」
「これは楽しいのか?」
「んー……分かんないけど」
 手持無沙汰なので、竿をゆらゆらと揺らしてみる。川面はチラチラと揺れて輝き、川底の石が宝石のように輝いた。
「ぼーっとしてるのは、気持ちがいい」
「そうか」
 そして、再び沈黙。
 なんだこれ、なんだこの時間。さっきまでも静かだったけど、今の静寂はなんか、耐えがたいというか何か喋らなきゃという気がかき立てられるというか。
「……確かに、悪くないかもしれないな」
 そう、おじいちゃんはぽつりとつぶやく。
「こういうところで本読むと、気持ちよさそうだよね」
「春都は本を読むのか?」
「え、うん。学校でも図書委員だし」
 おじいちゃんが興味を示した。少し驚いたような、ちょっと楽しそうな、そんな感じだ。なんか特別なこと言ったか、俺。
「そうか……」
 おじいちゃんは少し考えこむと、言った。
「ちょっと、ついて来ないか?」
「え?」
 じいちゃんに連れてこられたのは、書斎だった。天井から床まで、全部本。
「え⁉ 何ここ」
「私の書斎だ」
「すげぇー……古い本もある、すっげぇー……」
 古い本の、独特の香り。書店とも、図書館とも似つかない、紙とインクの温かな香り。大事に大切に保管されてきた、そんな空間だ。
「好きなだけ読んでいいぞ」
「え、いいの? ほんとに?」
 じゃあ、さっそく一冊手に取ってみる。あ、これ、教科書で見たことある。全部読んでみたかったけど、図書館になかったやつだ。ええ、なにこれ、ずっと読める。
 なんて幸せな空間なんだ。

 本を読み始めたらあっという間で、気が付いたら晩ご飯の時間になっていた。
「なんだか今日は、おじいちゃんがご機嫌でね」
 そう言いながら、おばあちゃんは晩ご飯の用意をする。テーブルの上には、舟盛りに匹敵しそうなお刺身の皿が置いてあった。
「買ってきたの」
「すげえ」
 おじいちゃんは静かに座っていて、手元には本があった。
「ありがとう、おじいちゃん」
 そう言えば、おじいちゃんは少し視線を上げて口角を少し上げた。あ、これ、笑ったのか、と時間差で理解する。
「本は、面白かったか?」
「うん、楽しかった」
「なら、いい」
 確かに、おじいちゃんはご機嫌らしい。
 さてさて、それじゃあ晩ごはんを。
「いただきます」
 えー、何から食べよう。迷う~。
 まずはタイから食うか。すげえ、つやつやしてるっていうか、高そう。醤油をつけて、食べてみる。淡白な味わい、しっとりとした舌触り、ほのかに甘く、醤油の香りによって、鯛の風味が増す。
 漬けもうまいが、刺し身もうまいものである。
 次はマグロを。ひんやりしていて気持ちがいいな。んー、うま味が濃い。ご飯に合う。あ、わさび、つーんってした。
 これは……何だ。あじではないな、鯛でもない。
 少し歯ごたえがあって、淡白だけど、魚らしい風味もする。どっちかっていうとアジっぽいのかなあ。
「これなんだ……?」
「それは、イサキだよ」
 と、父さんが教えてくれる。
「へー、おいしい」
「そうだろう」
 さて、次は……イカ。
 んー、こりっこり。歯ごたえがしっかりしている。噛んでいると程よく柔らかくなって、甘味が滲み出してくる。
 サーモンもいい。レモンを少しつけてさっぱりと、脂の甘味もいい。
 あれこれ食べていると、ものすごく豪華な海鮮丼を食べている気がしてきた。なかなか食べられないよなあ、こんなに。
 この数日、いい思いが凝縮していた気がする。いいなあ、楽しいなあ。
 そうだ、寝る前に一冊本を借りていこう。布団に入って読むんだ。
 腹もいっぱい、うまい飯食ったし。きっと、いい夢が見られるぞ。

「ごちそうさまでした」
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