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日常
第六百四十八話 クリームシチュー
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長期休み明けの空気は新しくすがすがしい一方で、気だるく面倒なものでもある。
「はー、新学期かあ……」
朝食を終えて、ソファにだらける。始業式の日は朝課外がないから少しはのんびりできるのだが、学校に行かなければならないことに変わりはない。
父さんと母さんも今日から仕事だ。
「春都が食べたいもの、作っとくよ」
そう言いながら、母さんが荷物の準備をしている。
「家出るまで時間あるから」
「食べたいものかあ……」
朝飯食ったばっかりだから思いつかない……ということもない。ふと浮かんだのは、柔らかな香りとまろやかな味わい。
「……クリームシチュー」
「いいよー。それじゃあルーを買ってこよう。あとはじゃがいもとにんじんと……」
指折り、買ってくるものを考える母さんと、手帳を見ている父さん。今日、帰ってくる頃には二人とももういないんだなあ、と思っていたら、足元にうめずがやって来てこっちを見上げた。
いつものようにふわふわと撫でると、気持ちよさそうに目を細める。それが微笑んでいるように見えて、思わず俺も笑ってしまった。
通学路には、どこからか飛ばされてきた桜の花びらがちらほらと見える。
新学期が始まったのは高校だけだろうか。中学生や小学生の姿は見えない。他に誰も歩く人の姿の無い道を行けば、間もなくして、バス通学や電車通学の生徒の波に合流する。
「おはよー、春都」
「おう、咲良。おはよう」
咲良は相変わらず眠そうで、大あくびをする。髪は少しぼさぼさだ。
「やー、春は眠いねえ。春眠暁を覚えず」
「お前は年中眠いだろ」
「春は特別」
人の流れに逆らうことなく昇降口に向かう。その途中で、自転車を押しながら走ってきた百瀬に会う。
「あっ、二人ともおはよー! いい天気だねー!」
「おはよう、百瀬。元気そうだな」
「まあねー。春は一年の中で一番元気だよー」
自転車に乗ってもあんま寒くないし、と言うと、百瀬は慣れた様子で手際よく駐輪場に自転車を停めた。
「眠くない?」
咲良が聞くと、百瀬は首をひねった。
「うーん、今はそんなに」
「そっかー、いろいろだなあ」
新しい上靴は、少しかたくて履きづらい。かかとをつぶさないように気を付けよう。油断するとすぐ横着した履き方をしてしまう。
「でさー、春休み中お菓子作り過ぎてー」
「持って来てくれたのか?」
「ううん。全部自分のおやつ」
「まじか」
さっきまで眠い眠いと言っていた咲良も、百瀬と話しているうちにすっかり目が覚めたらしい。いつも通り賑やかな様子で、階段を上る。
「あ、やっぱり」
二階にたどり着いた時、三階の方から降りてきた朝比奈と鉢合わせる。
「あれ、朝比奈。何で三階から?」
聞けば朝比奈は、手に持っているものを見せた。それは筆箱か。
「視聴覚室に忘れてたから、早めに来てた」
「なるほど」
「それにしても二人、賑やかだな。三階まで笑い声が聞こえてたぞ」
朝比奈が言うと、咲良と百瀬は顔を見合わせてまた笑った。
「そんなに喧しかったかなあ、俺ら」
「辛気臭いよりいいじゃん」
ねー、と二人は自分たちで完結させてしまった。
「筆箱忘れたとか、不便だったんじゃないか」
「家に予備はあるから」
「なー、また今度朝比奈んち遊びに行かせてくれよ。今度は探検してみたい」
「なんか豪華なお菓子が作れそうな気がする~」
ああ、なんとなく、思った通りのスタートになった。賑やかで、やかましくて、騒がしくて、まあ、楽しくて。
新学期はどんな風になるのだろう、などと心配する隙なんて一ミリもないようだ。
お昼過ぎ。下校には早いが昼ご飯には少し遅い時間に、家にたどり着く。
「ただいまー」
少し自分の声が響いて、すうっと消える。今頃、父さんと母さんはどこにいるのだろう。海の上か、あるいは、お客さんの前か。
さっきまでやかましかったから、なんとなく耳が変だ。
「はー、疲れた……」
「わうっ」
「うお、うめず。留守番、ご苦労様」
「わふぅ」
うめずはぐいぐいと頭を押し付けてくる。ひとしきり撫でまわすと、満足したように鼻を鳴らし、ダイニングテ―ブルの近くにお座りをした。まるで「さあ、今からご飯でしょう」とでも言いたげだ。
制服はあとでブラシをかけるとして、そうだな、まずは昼飯だ。
ああ、シチューができている。温め直して、器によそう。ご飯は冷凍してたのをチンするか。
「いただきます」
じゃがいもとにんじん、玉ねぎに……豚肉だ。どうやら豆乳を使って作ったらしい。冷蔵庫の中に残っていた。
とろりとしたスープを、やけどしないように一口。
そうそう、この味。まろやかで、野菜のコクが滲み出したこの味。これが食べたかったんだよな。ほんわりと温かくて。豚肉のうま味もよく出ている。胃にやさしく収まっていく感じがいい。豆乳の匂いも強くないし、風味がいいな。
部屋の中は外よりも少し冷えるから、この温かさがうれしい。
じゃがいもはとろとろのほくほくだ。表面のとろりとした部分と、中心のほくっとした食感がたまらない。シチューのじゃがいもって、優しいんだよなあ。
にんじんは甘い。真っ白な中に明るいオレンジがよく映える。
玉ねぎはトロットロに煮込まれていて、シチューのとろみと一緒になっている。でもほのかに風味を感じられるのがいい。
豚肉は、赤身のようだ。少し噛み応えがあって、でも、ほろりとほどける。ジュワジュワとあふれ出す味がいい。シチューに豚肉って、合う。赤身だからいいのかな。さっぱりしていて、好きだなあ。
これを邪道という人もいるかもしれないが、ご飯を入れて食べるのが、俺は好きだ。
とろとろと、ほろほろほぐれるご飯の甘味、食感。スプーンですくって口いっぱいにほおばると、得も言われぬ幸福感に満たされる。
「わふっ」
最後の一口を余すことなくすくっていると、うめずがこちらを見上げて一声吠えた。
「食い終わったら、散歩行くか?」
「わう!」
そうだな、そうしよう。
もう散り始めた桜の花を見に行こう。季節なんて、あっという間に過ぎてしまうのだから。
「ごちそうさまでした」
「はー、新学期かあ……」
朝食を終えて、ソファにだらける。始業式の日は朝課外がないから少しはのんびりできるのだが、学校に行かなければならないことに変わりはない。
父さんと母さんも今日から仕事だ。
「春都が食べたいもの、作っとくよ」
そう言いながら、母さんが荷物の準備をしている。
「家出るまで時間あるから」
「食べたいものかあ……」
朝飯食ったばっかりだから思いつかない……ということもない。ふと浮かんだのは、柔らかな香りとまろやかな味わい。
「……クリームシチュー」
「いいよー。それじゃあルーを買ってこよう。あとはじゃがいもとにんじんと……」
指折り、買ってくるものを考える母さんと、手帳を見ている父さん。今日、帰ってくる頃には二人とももういないんだなあ、と思っていたら、足元にうめずがやって来てこっちを見上げた。
いつものようにふわふわと撫でると、気持ちよさそうに目を細める。それが微笑んでいるように見えて、思わず俺も笑ってしまった。
通学路には、どこからか飛ばされてきた桜の花びらがちらほらと見える。
新学期が始まったのは高校だけだろうか。中学生や小学生の姿は見えない。他に誰も歩く人の姿の無い道を行けば、間もなくして、バス通学や電車通学の生徒の波に合流する。
「おはよー、春都」
「おう、咲良。おはよう」
咲良は相変わらず眠そうで、大あくびをする。髪は少しぼさぼさだ。
「やー、春は眠いねえ。春眠暁を覚えず」
「お前は年中眠いだろ」
「春は特別」
人の流れに逆らうことなく昇降口に向かう。その途中で、自転車を押しながら走ってきた百瀬に会う。
「あっ、二人ともおはよー! いい天気だねー!」
「おはよう、百瀬。元気そうだな」
「まあねー。春は一年の中で一番元気だよー」
自転車に乗ってもあんま寒くないし、と言うと、百瀬は慣れた様子で手際よく駐輪場に自転車を停めた。
「眠くない?」
咲良が聞くと、百瀬は首をひねった。
「うーん、今はそんなに」
「そっかー、いろいろだなあ」
新しい上靴は、少しかたくて履きづらい。かかとをつぶさないように気を付けよう。油断するとすぐ横着した履き方をしてしまう。
「でさー、春休み中お菓子作り過ぎてー」
「持って来てくれたのか?」
「ううん。全部自分のおやつ」
「まじか」
さっきまで眠い眠いと言っていた咲良も、百瀬と話しているうちにすっかり目が覚めたらしい。いつも通り賑やかな様子で、階段を上る。
「あ、やっぱり」
二階にたどり着いた時、三階の方から降りてきた朝比奈と鉢合わせる。
「あれ、朝比奈。何で三階から?」
聞けば朝比奈は、手に持っているものを見せた。それは筆箱か。
「視聴覚室に忘れてたから、早めに来てた」
「なるほど」
「それにしても二人、賑やかだな。三階まで笑い声が聞こえてたぞ」
朝比奈が言うと、咲良と百瀬は顔を見合わせてまた笑った。
「そんなに喧しかったかなあ、俺ら」
「辛気臭いよりいいじゃん」
ねー、と二人は自分たちで完結させてしまった。
「筆箱忘れたとか、不便だったんじゃないか」
「家に予備はあるから」
「なー、また今度朝比奈んち遊びに行かせてくれよ。今度は探検してみたい」
「なんか豪華なお菓子が作れそうな気がする~」
ああ、なんとなく、思った通りのスタートになった。賑やかで、やかましくて、騒がしくて、まあ、楽しくて。
新学期はどんな風になるのだろう、などと心配する隙なんて一ミリもないようだ。
お昼過ぎ。下校には早いが昼ご飯には少し遅い時間に、家にたどり着く。
「ただいまー」
少し自分の声が響いて、すうっと消える。今頃、父さんと母さんはどこにいるのだろう。海の上か、あるいは、お客さんの前か。
さっきまでやかましかったから、なんとなく耳が変だ。
「はー、疲れた……」
「わうっ」
「うお、うめず。留守番、ご苦労様」
「わふぅ」
うめずはぐいぐいと頭を押し付けてくる。ひとしきり撫でまわすと、満足したように鼻を鳴らし、ダイニングテ―ブルの近くにお座りをした。まるで「さあ、今からご飯でしょう」とでも言いたげだ。
制服はあとでブラシをかけるとして、そうだな、まずは昼飯だ。
ああ、シチューができている。温め直して、器によそう。ご飯は冷凍してたのをチンするか。
「いただきます」
じゃがいもとにんじん、玉ねぎに……豚肉だ。どうやら豆乳を使って作ったらしい。冷蔵庫の中に残っていた。
とろりとしたスープを、やけどしないように一口。
そうそう、この味。まろやかで、野菜のコクが滲み出したこの味。これが食べたかったんだよな。ほんわりと温かくて。豚肉のうま味もよく出ている。胃にやさしく収まっていく感じがいい。豆乳の匂いも強くないし、風味がいいな。
部屋の中は外よりも少し冷えるから、この温かさがうれしい。
じゃがいもはとろとろのほくほくだ。表面のとろりとした部分と、中心のほくっとした食感がたまらない。シチューのじゃがいもって、優しいんだよなあ。
にんじんは甘い。真っ白な中に明るいオレンジがよく映える。
玉ねぎはトロットロに煮込まれていて、シチューのとろみと一緒になっている。でもほのかに風味を感じられるのがいい。
豚肉は、赤身のようだ。少し噛み応えがあって、でも、ほろりとほどける。ジュワジュワとあふれ出す味がいい。シチューに豚肉って、合う。赤身だからいいのかな。さっぱりしていて、好きだなあ。
これを邪道という人もいるかもしれないが、ご飯を入れて食べるのが、俺は好きだ。
とろとろと、ほろほろほぐれるご飯の甘味、食感。スプーンですくって口いっぱいにほおばると、得も言われぬ幸福感に満たされる。
「わふっ」
最後の一口を余すことなくすくっていると、うめずがこちらを見上げて一声吠えた。
「食い終わったら、散歩行くか?」
「わう!」
そうだな、そうしよう。
もう散り始めた桜の花を見に行こう。季節なんて、あっという間に過ぎてしまうのだから。
「ごちそうさまでした」
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