一条春都の料理帖

藤里 侑

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日常

番外編 漆原京助のつまみ食い④

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 ふいに、昔の記憶がよぎるときがある。
「ん?」
 雨がしとしとと降り始めた放課後。委員も帰ってしまい、最低限の明かりしかついていない図書館は薄暗い。帰る前の仕上げにカウンターを整理している途中、明らかに図書館の者ではないボールペンを見つけてしまった。四色の、ちょっと高いやつ。くすんだ紺色がなかなかいい風合いだ。
 ああ、こりゃ石上のだな。さっき来た時忙しそうにしてたし、忘れていったんだろう。
「まったく、世話の焼ける」
 事務室は帰り道にある。まだいるようなら渡して帰ろう。まあ、あいつのことだからいるだろうな。
 生徒のいなくなった学校というのは、何とも変な感じだ。分厚い雲から降り注ぐ雨と、それに打ち付けられる伸びっぱなしの植物が見える中庭を見ていると、どことなく大きな病院を彷彿とさせる。
 案の定、事務室には明かりがついていた。
「おーい、石上」
「漆原。どうした、珍しいなこんな時間に」
 思った通り、石上はまだパソコンと向き合っていた。他に人はいない。遠慮なく中に入らせてもらうことにした。
 うっすら香るコーヒーの香り、閉ざされた来客用カウンター、静まり返るデスク。少し寒いのは、暖房を切っているからだろう。
「忘れ物を持って来てやった」
「あー、ボールペン。図書館にあったのか」
「こんな立派なボールペンは、うちには置いてません」
「それもそうか」
 石上は「悪かったな」と言うと、胸ポケットにボールペンを戻した。
「まだ帰らないのか」
「もう少し」
「ふーん」
 ふと外を見る。雨はまだまだ降り続いている。これは、駐車場に行くのも面倒だ。
 石上の隣の席は空席のようで、物置と化している。ここなら座ってもだれも文句は言うまい。図書館にある椅子と同じ型の色違いの椅子に座る。色が違うだけで気分も違うというものだ。
「どうした」
「雨が落ち着くまで待とうと思って」
 そこでやっと石上は外を見た。
「ずっと降っているな」
 石上の鞄からは、痛み止めがちらりと見えた。石上は再び、作業に戻る。
「こんな雨の日は、お前と合った日を思い出すよ」
 言えば石上はパソコンの画面から目をそらさず、少し苦い笑みを浮かべた。
「ああ、俺もだ」
 当時、高校二年生。この校舎がまだ古かったころの話である。

 図書館は居心地がいい。その頃から、暇さえあればいつも、図書館に入り浸っていたものだ。司書の先生からたまに片づけを手伝わされながら、本棚の隅から隅まで読んでいた。
 学校の治外法権、図書館には穏やかな時間が流れていた。
 しかし、その日は少し様子が違った。掃除も終わり、放課後の利用者もいない日だった。それは別段珍しいことではない。利用者の一人もいない放課後などざらであった。
 片づけを済ませ、いよいよ帰ろうとしたとき。勢いよく扉が開いて、入ってきたのは生真面目そうな男子生徒だった。上靴の色からして同い年だが、生真面目そうな見た目とは裏腹に、俺がいうのもなんだが、不真面目そうというか、不機嫌そうな雰囲気を漂わせていた。
 びしょ濡れで、ところどころ怪我もしている。何を言えばいいか分からなかったが、とりあえず沈黙しているのもあれなので、思ったことを正直に口にした。
「……なんだお前」
「あ? 知るか」
 これが、俺と石上の初対面であった。
「怪我してんなら保健室行けよ」
「閉まってんだよもう」
「だからって図書館に来るか? 普通」
「ここしか電気ついてなかったんだよ」
「あー、濡れたまんま入ってくんな!」
 あれこれ言い合いをしていると、司書の先生がやって来た。先生は石上を見てびっくりしていたが、詰所から素早く救急箱を持ってくると、石上を椅子に座らせた。
 先生は手当てを済ませると、「ちょっと待ってなさい」とだけ言って、どこかへ行ってしまった。
 乱暴にタオルで髪を拭く石上。眼鏡だけは丁寧に拭いていたが。
「お前、なんでそんなずぶ濡れなん? ケガもしてるし。こけた?」
「……これ」
 石上は、学ランの下から何かを取り出した。汚れているようだが、それは本のようだった。しかも図書館の本だ。
「外で乱暴に扱ってるやつがいて、声かけたら喧嘩になった」
「どう声かけたら喧嘩になるんだよ」
「知るか! ただ、本投げてたから、やめさせるようにちょっと腕つかんで……」
「それだ、それが原因だ」
 何だこいつ、自分には関係ないようなことでそんなにボロボロになれるのか。人がいいんだか何だか、変なやつだ。
 思わず笑いだすと、石上は怪訝そうにこちらに視線を向けた。
「なんだよ」
「お前、いいやつだな!」
「は?」
 その時、再び扉が開く音がして、先生が帰って来た。先生の手には「先生のとっておきのおやつ」が握られていた。

「で、これ食ったんだよな」
 鞄から、バームクーヘンを取り出す。
 学校の近くにある、小さな老舗の洋菓子店。周辺の風景が次々と移り変わる中、変わらずそこにある店だ。
 そんな店のショーウィンドウ隅の方。きらきらとしたケーキ屋素朴なケーキの隣で、切り落としたバームクーヘンの詰め合わせや、訳ありお菓子の詰め合わせが、大袋に入ってお手頃価格で売られている。
「何で今持ってるんだ」
 石上が笑って聞いてくる。
「うまいだろ」
「まあ、分かるが」
「ほれ、一つやろう」
「ありがとな」
 掌よりも少し小さなバームクーヘンは、透明の袋に収まっている。
「いただきます」
 一枚ずつ生地を剥がして食べるのも楽しいが、やはり、バームクーヘンは層になっているのがいい。
 ミルフィーユとはまた違う層の食感。重みがあって、バターの風味はかすかなものだ。口いっぱいに広がる程よい甘み。コーヒーはないが、部屋に漂うコーヒーの香りのおかげで十分満足だ。
 形は少々いびつだが、これがいい。上品な味わいの中に、少ししゃりっとした、甘さの濃いところがあったり、端っこの方があったり。
「そうそう、これだ」
 洋菓子屋の味、と石上は大口を開けてバームクーヘンを放り込んで咀嚼した。ああ、あの時と同じ食い方をしている。
 思い出は不意に現れて、風に吹かれて消える薄い雲のようにまた、元通りだ。
 でも確かにそこにあったし、またふと現れるのである。
 特に、食べ物が関わる思い出はな。

「ごちそうさん、うまかった」
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