684 / 843
日常
番外編 漆原京助のつまみ食い④
しおりを挟む
ふいに、昔の記憶がよぎるときがある。
「ん?」
雨がしとしとと降り始めた放課後。委員も帰ってしまい、最低限の明かりしかついていない図書館は薄暗い。帰る前の仕上げにカウンターを整理している途中、明らかに図書館の者ではないボールペンを見つけてしまった。四色の、ちょっと高いやつ。くすんだ紺色がなかなかいい風合いだ。
ああ、こりゃ石上のだな。さっき来た時忙しそうにしてたし、忘れていったんだろう。
「まったく、世話の焼ける」
事務室は帰り道にある。まだいるようなら渡して帰ろう。まあ、あいつのことだからいるだろうな。
生徒のいなくなった学校というのは、何とも変な感じだ。分厚い雲から降り注ぐ雨と、それに打ち付けられる伸びっぱなしの植物が見える中庭を見ていると、どことなく大きな病院を彷彿とさせる。
案の定、事務室には明かりがついていた。
「おーい、石上」
「漆原。どうした、珍しいなこんな時間に」
思った通り、石上はまだパソコンと向き合っていた。他に人はいない。遠慮なく中に入らせてもらうことにした。
うっすら香るコーヒーの香り、閉ざされた来客用カウンター、静まり返るデスク。少し寒いのは、暖房を切っているからだろう。
「忘れ物を持って来てやった」
「あー、ボールペン。図書館にあったのか」
「こんな立派なボールペンは、うちには置いてません」
「それもそうか」
石上は「悪かったな」と言うと、胸ポケットにボールペンを戻した。
「まだ帰らないのか」
「もう少し」
「ふーん」
ふと外を見る。雨はまだまだ降り続いている。これは、駐車場に行くのも面倒だ。
石上の隣の席は空席のようで、物置と化している。ここなら座ってもだれも文句は言うまい。図書館にある椅子と同じ型の色違いの椅子に座る。色が違うだけで気分も違うというものだ。
「どうした」
「雨が落ち着くまで待とうと思って」
そこでやっと石上は外を見た。
「ずっと降っているな」
石上の鞄からは、痛み止めがちらりと見えた。石上は再び、作業に戻る。
「こんな雨の日は、お前と合った日を思い出すよ」
言えば石上はパソコンの画面から目をそらさず、少し苦い笑みを浮かべた。
「ああ、俺もだ」
当時、高校二年生。この校舎がまだ古かったころの話である。
図書館は居心地がいい。その頃から、暇さえあればいつも、図書館に入り浸っていたものだ。司書の先生からたまに片づけを手伝わされながら、本棚の隅から隅まで読んでいた。
学校の治外法権、図書館には穏やかな時間が流れていた。
しかし、その日は少し様子が違った。掃除も終わり、放課後の利用者もいない日だった。それは別段珍しいことではない。利用者の一人もいない放課後などざらであった。
片づけを済ませ、いよいよ帰ろうとしたとき。勢いよく扉が開いて、入ってきたのは生真面目そうな男子生徒だった。上靴の色からして同い年だが、生真面目そうな見た目とは裏腹に、俺がいうのもなんだが、不真面目そうというか、不機嫌そうな雰囲気を漂わせていた。
びしょ濡れで、ところどころ怪我もしている。何を言えばいいか分からなかったが、とりあえず沈黙しているのもあれなので、思ったことを正直に口にした。
「……なんだお前」
「あ? 知るか」
これが、俺と石上の初対面であった。
「怪我してんなら保健室行けよ」
「閉まってんだよもう」
「だからって図書館に来るか? 普通」
「ここしか電気ついてなかったんだよ」
「あー、濡れたまんま入ってくんな!」
あれこれ言い合いをしていると、司書の先生がやって来た。先生は石上を見てびっくりしていたが、詰所から素早く救急箱を持ってくると、石上を椅子に座らせた。
先生は手当てを済ませると、「ちょっと待ってなさい」とだけ言って、どこかへ行ってしまった。
乱暴にタオルで髪を拭く石上。眼鏡だけは丁寧に拭いていたが。
「お前、なんでそんなずぶ濡れなん? ケガもしてるし。こけた?」
「……これ」
石上は、学ランの下から何かを取り出した。汚れているようだが、それは本のようだった。しかも図書館の本だ。
「外で乱暴に扱ってるやつがいて、声かけたら喧嘩になった」
「どう声かけたら喧嘩になるんだよ」
「知るか! ただ、本投げてたから、やめさせるようにちょっと腕つかんで……」
「それだ、それが原因だ」
何だこいつ、自分には関係ないようなことでそんなにボロボロになれるのか。人がいいんだか何だか、変なやつだ。
思わず笑いだすと、石上は怪訝そうにこちらに視線を向けた。
「なんだよ」
「お前、いいやつだな!」
「は?」
その時、再び扉が開く音がして、先生が帰って来た。先生の手には「先生のとっておきのおやつ」が握られていた。
「で、これ食ったんだよな」
鞄から、バームクーヘンを取り出す。
学校の近くにある、小さな老舗の洋菓子店。周辺の風景が次々と移り変わる中、変わらずそこにある店だ。
そんな店のショーウィンドウ隅の方。きらきらとしたケーキ屋素朴なケーキの隣で、切り落としたバームクーヘンの詰め合わせや、訳ありお菓子の詰め合わせが、大袋に入ってお手頃価格で売られている。
「何で今持ってるんだ」
石上が笑って聞いてくる。
「うまいだろ」
「まあ、分かるが」
「ほれ、一つやろう」
「ありがとな」
掌よりも少し小さなバームクーヘンは、透明の袋に収まっている。
「いただきます」
一枚ずつ生地を剥がして食べるのも楽しいが、やはり、バームクーヘンは層になっているのがいい。
ミルフィーユとはまた違う層の食感。重みがあって、バターの風味はかすかなものだ。口いっぱいに広がる程よい甘み。コーヒーはないが、部屋に漂うコーヒーの香りのおかげで十分満足だ。
形は少々いびつだが、これがいい。上品な味わいの中に、少ししゃりっとした、甘さの濃いところがあったり、端っこの方があったり。
「そうそう、これだ」
洋菓子屋の味、と石上は大口を開けてバームクーヘンを放り込んで咀嚼した。ああ、あの時と同じ食い方をしている。
思い出は不意に現れて、風に吹かれて消える薄い雲のようにまた、元通りだ。
でも確かにそこにあったし、またふと現れるのである。
特に、食べ物が関わる思い出はな。
「ごちそうさん、うまかった」
「ん?」
雨がしとしとと降り始めた放課後。委員も帰ってしまい、最低限の明かりしかついていない図書館は薄暗い。帰る前の仕上げにカウンターを整理している途中、明らかに図書館の者ではないボールペンを見つけてしまった。四色の、ちょっと高いやつ。くすんだ紺色がなかなかいい風合いだ。
ああ、こりゃ石上のだな。さっき来た時忙しそうにしてたし、忘れていったんだろう。
「まったく、世話の焼ける」
事務室は帰り道にある。まだいるようなら渡して帰ろう。まあ、あいつのことだからいるだろうな。
生徒のいなくなった学校というのは、何とも変な感じだ。分厚い雲から降り注ぐ雨と、それに打ち付けられる伸びっぱなしの植物が見える中庭を見ていると、どことなく大きな病院を彷彿とさせる。
案の定、事務室には明かりがついていた。
「おーい、石上」
「漆原。どうした、珍しいなこんな時間に」
思った通り、石上はまだパソコンと向き合っていた。他に人はいない。遠慮なく中に入らせてもらうことにした。
うっすら香るコーヒーの香り、閉ざされた来客用カウンター、静まり返るデスク。少し寒いのは、暖房を切っているからだろう。
「忘れ物を持って来てやった」
「あー、ボールペン。図書館にあったのか」
「こんな立派なボールペンは、うちには置いてません」
「それもそうか」
石上は「悪かったな」と言うと、胸ポケットにボールペンを戻した。
「まだ帰らないのか」
「もう少し」
「ふーん」
ふと外を見る。雨はまだまだ降り続いている。これは、駐車場に行くのも面倒だ。
石上の隣の席は空席のようで、物置と化している。ここなら座ってもだれも文句は言うまい。図書館にある椅子と同じ型の色違いの椅子に座る。色が違うだけで気分も違うというものだ。
「どうした」
「雨が落ち着くまで待とうと思って」
そこでやっと石上は外を見た。
「ずっと降っているな」
石上の鞄からは、痛み止めがちらりと見えた。石上は再び、作業に戻る。
「こんな雨の日は、お前と合った日を思い出すよ」
言えば石上はパソコンの画面から目をそらさず、少し苦い笑みを浮かべた。
「ああ、俺もだ」
当時、高校二年生。この校舎がまだ古かったころの話である。
図書館は居心地がいい。その頃から、暇さえあればいつも、図書館に入り浸っていたものだ。司書の先生からたまに片づけを手伝わされながら、本棚の隅から隅まで読んでいた。
学校の治外法権、図書館には穏やかな時間が流れていた。
しかし、その日は少し様子が違った。掃除も終わり、放課後の利用者もいない日だった。それは別段珍しいことではない。利用者の一人もいない放課後などざらであった。
片づけを済ませ、いよいよ帰ろうとしたとき。勢いよく扉が開いて、入ってきたのは生真面目そうな男子生徒だった。上靴の色からして同い年だが、生真面目そうな見た目とは裏腹に、俺がいうのもなんだが、不真面目そうというか、不機嫌そうな雰囲気を漂わせていた。
びしょ濡れで、ところどころ怪我もしている。何を言えばいいか分からなかったが、とりあえず沈黙しているのもあれなので、思ったことを正直に口にした。
「……なんだお前」
「あ? 知るか」
これが、俺と石上の初対面であった。
「怪我してんなら保健室行けよ」
「閉まってんだよもう」
「だからって図書館に来るか? 普通」
「ここしか電気ついてなかったんだよ」
「あー、濡れたまんま入ってくんな!」
あれこれ言い合いをしていると、司書の先生がやって来た。先生は石上を見てびっくりしていたが、詰所から素早く救急箱を持ってくると、石上を椅子に座らせた。
先生は手当てを済ませると、「ちょっと待ってなさい」とだけ言って、どこかへ行ってしまった。
乱暴にタオルで髪を拭く石上。眼鏡だけは丁寧に拭いていたが。
「お前、なんでそんなずぶ濡れなん? ケガもしてるし。こけた?」
「……これ」
石上は、学ランの下から何かを取り出した。汚れているようだが、それは本のようだった。しかも図書館の本だ。
「外で乱暴に扱ってるやつがいて、声かけたら喧嘩になった」
「どう声かけたら喧嘩になるんだよ」
「知るか! ただ、本投げてたから、やめさせるようにちょっと腕つかんで……」
「それだ、それが原因だ」
何だこいつ、自分には関係ないようなことでそんなにボロボロになれるのか。人がいいんだか何だか、変なやつだ。
思わず笑いだすと、石上は怪訝そうにこちらに視線を向けた。
「なんだよ」
「お前、いいやつだな!」
「は?」
その時、再び扉が開く音がして、先生が帰って来た。先生の手には「先生のとっておきのおやつ」が握られていた。
「で、これ食ったんだよな」
鞄から、バームクーヘンを取り出す。
学校の近くにある、小さな老舗の洋菓子店。周辺の風景が次々と移り変わる中、変わらずそこにある店だ。
そんな店のショーウィンドウ隅の方。きらきらとしたケーキ屋素朴なケーキの隣で、切り落としたバームクーヘンの詰め合わせや、訳ありお菓子の詰め合わせが、大袋に入ってお手頃価格で売られている。
「何で今持ってるんだ」
石上が笑って聞いてくる。
「うまいだろ」
「まあ、分かるが」
「ほれ、一つやろう」
「ありがとな」
掌よりも少し小さなバームクーヘンは、透明の袋に収まっている。
「いただきます」
一枚ずつ生地を剥がして食べるのも楽しいが、やはり、バームクーヘンは層になっているのがいい。
ミルフィーユとはまた違う層の食感。重みがあって、バターの風味はかすかなものだ。口いっぱいに広がる程よい甘み。コーヒーはないが、部屋に漂うコーヒーの香りのおかげで十分満足だ。
形は少々いびつだが、これがいい。上品な味わいの中に、少ししゃりっとした、甘さの濃いところがあったり、端っこの方があったり。
「そうそう、これだ」
洋菓子屋の味、と石上は大口を開けてバームクーヘンを放り込んで咀嚼した。ああ、あの時と同じ食い方をしている。
思い出は不意に現れて、風に吹かれて消える薄い雲のようにまた、元通りだ。
でも確かにそこにあったし、またふと現れるのである。
特に、食べ物が関わる思い出はな。
「ごちそうさん、うまかった」
23
お気に入りに追加
252
あなたにおすすめの小説
夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします
希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。
国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。
隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。
「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」
実力を隠し「例え長男でも無能に家は継がせん。他家に養子に出す」と親父殿に言われたところまでは計算通りだったが、まさかハーレム生活になるとは
竹井ゴールド
ライト文芸
日本国内トップ5に入る異能力者の名家、東条院。
その宗家本流の嫡子に生まれた東条院青夜は子供の頃に実母に「16歳までに東条院の家を出ないと命を落とす事になる」と予言され、無能を演じ続け、父親や後妻、異母弟や異母妹、親族や許嫁に馬鹿にされながらも、念願適って中学卒業の春休みに東条院家から田中家に養子に出された。
青夜は4月が誕生日なのでギリギリ16歳までに家を出た訳だが。
その後がよろしくない。
青夜を引き取った田中家の義父、一狼は53歳ながら若い妻を持ち、4人の娘の父親でもあったからだ。
妻、21歳、一狼の8人目の妻、愛。
長女、25歳、皇宮警察の異能力部隊所属、弥生。
次女、22歳、田中流空手道場の師範代、葉月。
三女、19歳、離婚したフランス系アメリカ人の3人目の妻が産んだハーフ、アンジェリカ。
四女、17歳、死別した4人目の妻が産んだ中国系ハーフ、シャンリー。
この5人とも青夜は家族となり、
・・・何これ? 少し想定外なんだけど。
【2023/3/23、24hポイント26万4600pt突破】
【2023/7/11、累計ポイント550万pt突破】
【2023/6/5、お気に入り数2130突破】
【アルファポリスのみの投稿です】
【第6回ライト文芸大賞、22万7046pt、2位】
【2023/6/30、メールが来て出版申請、8/1、慰めメール】
【未完】
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
【短編】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです
白崎りか
恋愛
もうすぐ、赤ちゃんが生まれる。
誕生を祝いに、領地から父の辺境伯が訪ねてくるのを心待ちにしているアリシア。
でも、夫と赤髪メイドのメリッサが口づけを交わしているのを見てしまう。
「なぜ、メリッサもお腹に赤ちゃんがいるの!?」
アリシアは夫の愛を疑う。
小説家になろう様にも投稿しています。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる