一条春都の料理帖

藤里 侑

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日常

番外編 井上咲良のつまみ食い⑤

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 朝早くの医大付属病院の入り口には、多くの人が並んでいる。
「今日は少ない方かなあ……」
 その列に並びながら、咲良はスマホを取り出した。マナーモードにして、時間を確認する。整理券が配られるまであと十分ほど。財布から診察券を取り出して、リュックに入れておいた今日の予定表を確認する。
 いつも通り変わらず、レントゲンと診察の予定が入っている。年に一度の検診だから、自動受付機で受付を済ませるほかに、保険証を受付に出さないとなあ、などと考えながら咲良は慣れた手つきで保険証を財布から取り出した。
(もう何年にもなるけど、この独特の不安感には慣れないな……)
 ふーっと長い息を吐き、咲良はリュックを背負いなおす。裾をまくり上げやすいズボンに金具のない上着。病院に行くときの決まった服装だった。
(学校のリュックサックに病院関連のなにがしかが入ってるのも、慣れねぇ)
 スマホをもう一度取り出し、ゲームにログインする。見慣れた画面の明るさに、咲良はほっと息をついた。
「再診の方は整理券を受け取ってください」
 と、警備員の声が響くと同時に、出入り口の自動ドアが動き始める。咲良はスマホをポケットにしまうと、ゆったりと進む列に従って歩き始める。自動受付機が動き出すまではまた三十分ほどあるので、整理券を受け取ると、中の椅子に座って待つ。
 まるでどこかのホテルのフロントのような空間だが、冷たい空気と静寂、消毒のような匂いと薬品の匂いで、ここがまぎれもなく病院なのだと思い知らされる。咲良はリュックサックから数学の公式集を取り出し、ぼんやりと眺める。
 今頃、学校では授業が行われている頃だろう。そう思ってから、咲良は遠い目をする。普段は逃げ出したいほど嫌な勉強も、今は自分を落ち着ける要素になっている。
 健康とは、尊いものであり、幸福なことである。
 当たり前のようでいて、その実、手に入れがたく、忘れがちなことだと、咲良は病院に来るたびに思う。そんなことを口にすると、春都が心配そうな、そして呆気にとられたような目を向けてくるだろうと思い、その表情を想像して、咲良は少し笑った。
 本来であれば手術が終わり、経過観察も終わり、病院にはこれからしばらく近寄ることもないだろう。そう思った矢先に別の何かが見つかった。急にどうこうなるものでもないが、しばらくは診察が必要だということで再び厄介になることに。そんなことがあれば、嫌でも思う。何もない、とは、滅多にないことなのだと。
 受付開始十分前になって、咲良は立ち上がる。公式集は鞄にしまい、整理券に印字された自動受付機の番号を探すとその列に並んだ。
 時間になると一斉に、ピコンピコンと機械音が鳴る。病院で鳴る音というのは、どうしてこんなにも心臓に悪いのだろう、と咲良は思いながら、手際よく受付を済ませ初診カウンターへ向かった。
「保険証の確認ですね。お預かりします」
 受付はさばけた仕事ぶりで、あっという間に確認作業を終える。咲良はエスカレーターで三階へ向かうと、迷うことなくレントゲンの受付まで歩みを進めた。
「おはようございます。診察券をお預かりします」
 受付の人がカードを読み取りパソコンを操作する間、保険証を財布にしまう。
「お名前をお願いします」
「井上咲良です」
「井上様、今日はレントゲンの予約が入っていますね」
「はい」
「こちらの紙を持って、右側の通路、十三番から十六番の検査室の前でお待ちください」
 レントゲン室のほかに、エコー検査室や超音波検査室などもある通路には、すでに何人か人がいた。誰も座っていない椅子を見つけ、咲良は腰かける。
 周囲を見渡すことなく、咲良は先ほどもらった紙に目を落とす。番号、日付、名前と生年月日、撮影部位が書かれたその紙は無機質で、つるりとした素材だった。目の前をストレッチャーがゆっくりと通り過ぎた時だけ、少し視線で追いかけた。
 不安や緊張は、行き過ぎるといらだちに似た感情に変わり、最終的には無になる。咲良はそれをうっすらと考えながら、スムーズに撮影が終わるよう荷物を整理した。
 レントゲン撮影が終わると、あとは診察を待つばかりだ。その待ち時間の長いこと長いこと。一度、予定が合わず昼に予約したときは、昼休憩の時間と重なってえらいこと待たされたことがあり、それ以来、朝一に予約を入れるようになったのだとか。
 それでも待ち時間は長い。その間、勉強しようにも身が入らず、スマホをしていても気が散る。咲良は諦めて、番号と診察室が映し出され、下には今日のニュースが流れているテレビ画面に目を向けた。
 必ず大丈夫だという保証もなく、必ず悪いという保証もない。本来ならなくなってしかるべきものがなくなっていないと言われればそりゃ、不安にもなる。
 そう自分に言い聞かせたところで、独特なアラーム音とともに咲良の番号が表示された。
「はー、よっこいしょ」
 わざとらしく言って立ち上がり、咲良はため息をついた。

 結局何も変わらなかったが、気になるからとまた半年後に予約され、咲良は少し気分が萎えていた。まあ、大丈夫だろうけど、一応ね、と言われはしたもののショックなことに変わりはない。
 会計を待つ間、椅子に深く腰掛けてぼーっと辺りに視線を向ける。入院専用の受付、再診受付、薬の受付に初診受付。多くの人が行きかい、音が鳴り、それでもなお生気を感じないのは自分の気分のせいかあるいは本当にそうなのか。
 自動精算機の眩しい明りがパチンコ台のようだと思いながら、咲良は息をついた。
 会計も終わり自分に染みついた病院の匂いに辟易し、咲良はいったん外に出る。しかし、内設されたカフェに行こうと思っていたのを思い出して、今度はカフェ専用の入り口から入りなおす。
「いらっしゃいませ」
 柔らかなオレンジ色の明かりにコーヒーのいい香り、穏やかな音楽が流れる空間にほっとしながら、咲良はカウンターに向かう。
 少し悩んだ後、冷たいカフェラテとケーキを注文して、商品を受け取ると、窓際の席に座る。
「いただきます」
 まずはカフェラテに手を付ける。砂糖をもらい損ねたことに今更ながらに気付き、でも立ち上がる気力もないので、そのままストローをさして飲むことにした。
 ほのかな牛乳の風味と甘み、ほろ苦いコーヒー。それだけで十分おいしいということと、コーヒーをおいしいと思えるようになっていたのだということの両方に気が付いて、咲良は表情を緩めた。
 ケーキはチョコレートとキャラメルのシンプルなものだった。甘みの強いチョコレートに、とろりと濃厚な甘さと香ばしさのキャラメルソース。スポンジはほんのりコーヒーの香りがするようで、カフェラテによく合っていた。
「うま……」
 今度来るとき――夏はどんな季節限定のメニューがあるだろう。
 そういう思考回路になったところで、咲良はやっと、いつもの調子になった。きっと浮き沈みはするだろうが、それはそれ。少しくらい、嫌なことから目を背ける時間も必要である。
 コーヒーの苦みをおいしいと思えるようになったように、いつか嫌なこととも素直に向き合えるときが来るかもしれない。
 そう思いながら、咲良はケーキの最後の一口を食べた。
 まあ、幸せでいるに越したことはないけれど。甘くとろける味を堪能しながら、咲良は思った。

「ごちそうさまでした」
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