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日常
第五百六十七話 りんご
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不意に、食べたいものが思い浮かぶことがある。
「……りんご」
朝食を終え、茶碗を洗っている最中のこと。ぼんやりとしていたら、ぽんっ、とりんごが頭に浮かんだ。
「りんご食いたいな」
冷蔵庫になかったかなあ、りんご。……うん、ないな。時季になると山下さんが持って来てくれるし、店の方に行くとばあちゃんがしょっちゅう買ってくるし、うちにもあるもんだという気がしていたが、買わなきゃないよな。
いっつも買って、余らせてしまうから、なかなか自分じゃ買わないけど……今日は無性に食いたい。帰りにでも買いに行くかあ。
「うめずも食うか?」
りんごは、ちゃんと処理すれば犬も食える。相性の良し悪しは当然あるが、うめずは、飼い主に似てか否か、大概のものは食えるんだな。
「わふっ」
食うことと散歩することには積極的なうめずだ。
「じゃあ、買ってこような」
「わーうっ」
あー、りんご。食いたい。
「りんごが食いたい」
図書館の机にうなだれてそうぼやけば、返却本を本棚に戻しに向かっていた咲良が通りかかって言った。
「お前、朝からそればっかりだな」
「食いたいもんが食いたい時にねぇのはつらい」
「そりゃそうだろうけどさ~、毎回都合よくあるもんじゃねえじゃん?」
咲良の言葉はもっともだ。食いたいものが食いたい時に毎回あれば苦労しない。でも、食いたいものは食いたいんだ。
「なに、一条。りんご食べたいの?」
向かいの席に座りに来た百瀬が、本を開きながら聞いてきた。上級者向けスイーツレシピ……俺には観賞用だな。
「りんご、食いたい」
「カタコトになってるよ」
「春都はこうなるとだめだ。今回の場合、今すぐりんごを食わねぇと」
「難儀だねえ」
そう言って、百瀬は本に視線を向けた。
食堂にはたまにアップルパイが売っているが、今日はなかった。りんごジュースはいつも通り自販機にあったが……ていうか、違うんだよなあ。生のりんごが食いてえんだよなあ。
「俺は、りんご飴も好きだなあ」
百瀬は本を読みながら言った。
「夏祭りのもまあいいんだけど、自分で作ったやつもうまいんだよねー。飴はパリパリで、ちょっと分厚いところもあって、りんごはしゃきしゃきでー。姫リンゴでもよし、大きいのでもよし」
「りんご飴かあ……」
「今、専門店とかもあるんだろ? すごいよな」
咲良が次の本を取りに行きながら言った。と、その時扉が開き、見知った顔がやってきた。
「おっ、朝比奈」
「よう」
朝比奈は百瀬の隣に座ると、じっとこちらを見つめた。
「どうした、一条」
「りんごが食いたい」
「ああ、そう」
朝比奈は早々に状況を理解してくれたらしい。助かる。
「でも何でまたそんな、よくあるものを食べたいんだ。たいてい家にあるだろ」
朝飯の後出てくるし……と朝比奈がつぶやくと、咲良も百瀬も薄ら笑い、朝比奈を見た。朝比奈のお坊ちゃま感、久々だな。
「誰でもの家に真野さんみたいな人はいないし、果物が常備されてるわけでもないんだよ」
言えば朝比奈はきょとんとした。
「……何で真野さんのこと知ってんの、一条」
「さー、何ででしょう」
「真野さんって誰よ」
咲良が興味津々というように聞いてくる。昔から朝比奈家を出入りしている百瀬は真野さんのことを知っているようで、俺の代わりに答えた。
「貴志の家のお手伝いさんだよ。通いのお手伝いさん」
「あ、あー。なんかそういやいるっつってたな。えっ、なんでそんな人のこと、春都が知ってんの?」
「ちょっとな」
別にもったいぶる必要はないのだが、なんとなく焦らしたい気分だったので、少しだけ黙っておくことにした。
昼休みが終わる頃に、種明かししようかな。
花丸スーパーでりんごを一つといなり寿司のパックを買って帰る。りんごは冷蔵庫に入れておいて、食後に食うとしよう。えーっと、インスタントのお吸い物は……あったあった。
「いただきます」
まずはいなり寿司から。
四角形のやつと三角形のやつがあるが、俺は三角のが好きだな。八個入りでちょうどいい。
甘さは控えめで、揚げからジュワッとうま味が染み出す。酢飯はさっぱりしていて、いくらでも入りそうだ。
それにお吸い物がよく合うんだ。冷たいいなり寿司に温かいお吸い物。この温度の違いもまたうまい。米が出汁でほろほろとほどけるのがいいんだなあ。小さめの麩がまた、いい味出すんだ。
あっという間に食べてしまったが、りんごが冷えるのには十分だろう。
サクサクと皮をむき、皿に盛る。うめずの分を細かく切って……よし、こんなもんか。
フォークで突き刺し、一口。そうそう、これこれ、これが食いたかった。シャクッといい歯ごたえ、あふれ出るみずみずしさ、ほんの少しのやわらかさに、爽やかな甘み。あ、このりんご、大当たり。うまいな。うんうん、うめずも気に入ったようだ。
りんごによっては妙な風味がすることもあるけど、これはうまい。食いたい食いたいと思って、待ちに待って口にしたからだろうか。
ひんやりとした口当たりもまたいい。冷えたりんごって、こんなにうまいんだなあ。口いっぱいに果汁が広がって、りんごジュースとはまた違うのどの潤し方……うまい。
食いたいものをすぐに食うって嬉しさも捨てがたいものだが、待ちに待って食う楽しさもまた、いいものだ。遠足の途中で水筒のお茶がなくなって、のどが渇いてしょうがなくて、家に帰りついてから水分を流し込むような、そんな感じ。
もう一個、りんご買っておけばよかった。明日買って来るかなあ。
「ごちそうさまでした」
「……りんご」
朝食を終え、茶碗を洗っている最中のこと。ぼんやりとしていたら、ぽんっ、とりんごが頭に浮かんだ。
「りんご食いたいな」
冷蔵庫になかったかなあ、りんご。……うん、ないな。時季になると山下さんが持って来てくれるし、店の方に行くとばあちゃんがしょっちゅう買ってくるし、うちにもあるもんだという気がしていたが、買わなきゃないよな。
いっつも買って、余らせてしまうから、なかなか自分じゃ買わないけど……今日は無性に食いたい。帰りにでも買いに行くかあ。
「うめずも食うか?」
りんごは、ちゃんと処理すれば犬も食える。相性の良し悪しは当然あるが、うめずは、飼い主に似てか否か、大概のものは食えるんだな。
「わふっ」
食うことと散歩することには積極的なうめずだ。
「じゃあ、買ってこような」
「わーうっ」
あー、りんご。食いたい。
「りんごが食いたい」
図書館の机にうなだれてそうぼやけば、返却本を本棚に戻しに向かっていた咲良が通りかかって言った。
「お前、朝からそればっかりだな」
「食いたいもんが食いたい時にねぇのはつらい」
「そりゃそうだろうけどさ~、毎回都合よくあるもんじゃねえじゃん?」
咲良の言葉はもっともだ。食いたいものが食いたい時に毎回あれば苦労しない。でも、食いたいものは食いたいんだ。
「なに、一条。りんご食べたいの?」
向かいの席に座りに来た百瀬が、本を開きながら聞いてきた。上級者向けスイーツレシピ……俺には観賞用だな。
「りんご、食いたい」
「カタコトになってるよ」
「春都はこうなるとだめだ。今回の場合、今すぐりんごを食わねぇと」
「難儀だねえ」
そう言って、百瀬は本に視線を向けた。
食堂にはたまにアップルパイが売っているが、今日はなかった。りんごジュースはいつも通り自販機にあったが……ていうか、違うんだよなあ。生のりんごが食いてえんだよなあ。
「俺は、りんご飴も好きだなあ」
百瀬は本を読みながら言った。
「夏祭りのもまあいいんだけど、自分で作ったやつもうまいんだよねー。飴はパリパリで、ちょっと分厚いところもあって、りんごはしゃきしゃきでー。姫リンゴでもよし、大きいのでもよし」
「りんご飴かあ……」
「今、専門店とかもあるんだろ? すごいよな」
咲良が次の本を取りに行きながら言った。と、その時扉が開き、見知った顔がやってきた。
「おっ、朝比奈」
「よう」
朝比奈は百瀬の隣に座ると、じっとこちらを見つめた。
「どうした、一条」
「りんごが食いたい」
「ああ、そう」
朝比奈は早々に状況を理解してくれたらしい。助かる。
「でも何でまたそんな、よくあるものを食べたいんだ。たいてい家にあるだろ」
朝飯の後出てくるし……と朝比奈がつぶやくと、咲良も百瀬も薄ら笑い、朝比奈を見た。朝比奈のお坊ちゃま感、久々だな。
「誰でもの家に真野さんみたいな人はいないし、果物が常備されてるわけでもないんだよ」
言えば朝比奈はきょとんとした。
「……何で真野さんのこと知ってんの、一条」
「さー、何ででしょう」
「真野さんって誰よ」
咲良が興味津々というように聞いてくる。昔から朝比奈家を出入りしている百瀬は真野さんのことを知っているようで、俺の代わりに答えた。
「貴志の家のお手伝いさんだよ。通いのお手伝いさん」
「あ、あー。なんかそういやいるっつってたな。えっ、なんでそんな人のこと、春都が知ってんの?」
「ちょっとな」
別にもったいぶる必要はないのだが、なんとなく焦らしたい気分だったので、少しだけ黙っておくことにした。
昼休みが終わる頃に、種明かししようかな。
花丸スーパーでりんごを一つといなり寿司のパックを買って帰る。りんごは冷蔵庫に入れておいて、食後に食うとしよう。えーっと、インスタントのお吸い物は……あったあった。
「いただきます」
まずはいなり寿司から。
四角形のやつと三角形のやつがあるが、俺は三角のが好きだな。八個入りでちょうどいい。
甘さは控えめで、揚げからジュワッとうま味が染み出す。酢飯はさっぱりしていて、いくらでも入りそうだ。
それにお吸い物がよく合うんだ。冷たいいなり寿司に温かいお吸い物。この温度の違いもまたうまい。米が出汁でほろほろとほどけるのがいいんだなあ。小さめの麩がまた、いい味出すんだ。
あっという間に食べてしまったが、りんごが冷えるのには十分だろう。
サクサクと皮をむき、皿に盛る。うめずの分を細かく切って……よし、こんなもんか。
フォークで突き刺し、一口。そうそう、これこれ、これが食いたかった。シャクッといい歯ごたえ、あふれ出るみずみずしさ、ほんの少しのやわらかさに、爽やかな甘み。あ、このりんご、大当たり。うまいな。うんうん、うめずも気に入ったようだ。
りんごによっては妙な風味がすることもあるけど、これはうまい。食いたい食いたいと思って、待ちに待って口にしたからだろうか。
ひんやりとした口当たりもまたいい。冷えたりんごって、こんなにうまいんだなあ。口いっぱいに果汁が広がって、りんごジュースとはまた違うのどの潤し方……うまい。
食いたいものをすぐに食うって嬉しさも捨てがたいものだが、待ちに待って食う楽しさもまた、いいものだ。遠足の途中で水筒のお茶がなくなって、のどが渇いてしょうがなくて、家に帰りついてから水分を流し込むような、そんな感じ。
もう一個、りんご買っておけばよかった。明日買って来るかなあ。
「ごちそうさまでした」
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