一条春都の料理帖

藤里 侑

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日常

番外編 漆原京助のつまみ食い②

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「なんか先生、ご機嫌ですね」

 おや、表情に出ていただろうか。

 昼休み、めったに顔を出さない職員室に赴けば、名前もよく覚えていない教師から声をかけられる。

「いいことでもあったんですか? それとも、今日はご予定が?」

「いやあ、いたっていつも通りですよ」

 そうだ。今日はいつも通りの金曜日、休みの前日だ。

 毎週休みの前の日は気が済むまで晩酌をする。ささやかな楽しみではあるが、これが効果てきめんでなあ。こんな俺でも毎日を頑張れるというものだ。

 本の管理などは苦ではないし、生徒の相手も適当にやっておけばいい。しかし、どうにも教師という生き物とはどうにも折り合いがつかないというか、話すと気疲れする。学生の頃からそれは変わらない。

 印刷されていく図書だよりをそろえながら、横にいる教師の首に下がった名札をちらと見る。山田。なるほど、この教師は山田というのだったか。

 山田先生は暇なのか、しばらく俺の所に滞在していた。

「漆原先生が職員室にいらっしゃるとは、珍しいですね」

「ええ、まあ」

「何かあったんですか?」

 用がなければこんなところに好き好んで誰が来るかっつーの。

 ……とは、口が裂けても言わない。厄介事はごめんだ。努めて愛想のいい笑みを浮かべる。これがなかなか評判がいい。

「図書だよりの印刷ですよ」

「図書館に印刷機ありませんでしたっけ?」

 あるよ。あるけども。

「重いじゃないですか、持って上がるの」

 図書だよりは各学年の配布物ボックスに入れないといけない。全クラス分の図書だよりを抱えて階段なんぞ上ってられるか。かといって小分けにして往復するのもしんどい。

 しかしその辺が分からないのか、話を伸ばしたいからなのか知らないが、山田先生は「またまたぁ」と、たいそうおかしい、というように笑って、スーツのポケットに手を突っ込んだ。

「お若いじゃないですか。それぐらいで音を上げたらだめですよ」

 汗ばむほどの陽気となったこの頃、腕まくりをしている先生たちが増えてきた。生徒たちは夏服か冬服かという選択肢しかなく、腕まくりもよほどでない限り許されないというのになあ、とぼんやり思いながら「はは」と笑っておく。

「鈴木先生に頼んで鍛えなおしてもらったらどうです?」

「考えておきますよ」

 鈴木先生、ね。体育の先生だったかな。

 ……さて、終わった。これで図書館に戻れる。

 学生の頃からの、俺にとっての避難所、オアシス、隠れ蓑。

 はあー、自分のためだけの図書館が欲しい。



 平穏とはいともたやすく壊れるものだなあ、と常々思う。

「先ほどの発言はどういうことですか! 説明なさい」

 図書館に戻った瞬間に聞こえる金切り声。利用者は少ないので声の主はすぐに特定できた。

 カウンターにいるのは渕上先生だ。この教師だけはよく知っている。俺のことを目の敵にしてんだよなあ。

 で、そんな先生の怒りの標的にされているのは見慣れた二人。一条君と井上君だ。

 井上君はあからさまに不満げな顔をしているが、一条君は平然としている。というか、目が。目が面倒くさいという感情を如実に物語っている。「なんだこいつは。鬼の首を取ったように、これ見よがしに説教しやがって。てか何で説教食らってんだ?」みたいな。

「お酒に合う、とはどういうことです? まさかあなたたち、飲酒を……」

「なんでそうなるんすか」

 心底だるい、うっとうしいという声色で井上君が言えば、渕上先生は「まあ!」と、世も末だといわんばかりの声を上げた。

「なんて態度なの! 悪いことをしたのは自分たちでしょう?」

「悪いことってなんですか? 想像することもだめなんですか?」

「想像できるということは、自分たちがお酒を飲んだことがあるってことでしょう!」

「だからなんでそうなるんです……」

 いらだちを通り越してもはや呆れたような井上君である。

 見れば渕上先生の手には、料理本が握られていた。なるほどなあ、この子たちは想像たくましく、酒に合いそうなおかずの話をしていたわけだ。別にいいじゃないか。

「いやあ、すみません」

 評判のいい愛想笑いを浮かべ、二人と先生の間に割って入ると、二人は驚いたような顔をしていた。

「なんです、あなた」

「実はですね。料理上手な彼らに、おすすめの晩酌メニューを聞いていたんです。それで考えてくれていたんでしょう。こういう料理はお酒に合う、と事前に言っていたものですから。それを参考に話をしていたんじゃないですかね」

 そう言えば先生の怒りの矛先は俺に向いた。

「未成年の子どもたちになんてことを聞くんです! 大人としての自覚がない!」

「申し訳ありません」

 ここはしおらしく頭を下げておいた方が身のためだ。しかし、こちらとしても言い分はあるわけで。

「ですが今後、図書館では静かにお願いしますね」

 その言葉には納得していないようだったが、俺が頭を下げたことでどうやら怒りも鎮火したらしい。渕上先生はふんぞり返って言ったものだ。

「はあ……あなたたちも、今後、誤解されるような発言はしないように。いいですね? そうすれば私も図書館で大声を出さずに済みますから」

 料理本を俺に突き付け、返事も聞かぬまま鼻息荒く出て行ってしまった。

「あの、先生」

 二人がおずおずと声をかけてくる。

「いやー、すごい剣幕だったなあ! 大丈夫かい?」

 明るくそう声をかければ、二人は視線を合わせ、再びこちらを向いた。

「はい。それより、申し訳ないです」

「何がだ?」

 聞き返せば一条君は少しもごもごしてから言った。

「嘘をつかせてまで、その」

 その隣で井上君も頷いている。

 なんだ、別にそんなこと。

「嘘ではないさ」

「へ?」

「何せ、今から本当に教えてもらうのだからなあ」

 うまい晩酌のために、一つ、手伝ってもらおう。そう言えば二人はやっといつもの笑みを見せてくれた。



 で、教えてもらったのは、揚げにチーズと玉ねぎスライス、そしてピーマンをのせてオーブンで焼いた、とてもシンプルなものだった。醤油をたらりとかけていただく。

「いただきます」

 どうやらこれは彼らの親にも好評らしい。

 なるほど、醤油が染みて、揚げのうま味と香りが立つな。そしてチーズの塩気となめらかな口当たり、コク深さ。玉ねぎの風味にピーマンの苦み。香ばしさがまたたまらない。

 そこに焼酎の水割り。うん、いいなあ。ビールも合うだろうが、芋焼酎も乙なものである。

 フワフワと頭が揺れるような感覚に、ほんの少し高揚した気分。ありとあらゆる問題が解決するわけではなく先送りにされるだけだが、この間だけは忘れていられる。

 そうすればまた問題解決に挑めるというわけで。酒が飲めない頃、あるいは飲み始めた頃は、どうして大人は酒を飲むのだろうと思っていたが、なんとなく分かるようになった。

 しかし、俺も随分肝が据わってきたというか、いろいろなことを感じにくくなったものだなあ。

 だからこそ守れるものも増えた、と思うことにしようか。

 守るだなんておこがましいか。せいぜい、躓きそうな小石があることを知らせ、たまに飛んでくるつぶてをいなすぐらいだ。

 おや、つまみが最後の一切れになっている。難しいことを考えるのには向いていないから、考えるのにエネルギーが必要だったんだな。

 まあいい。これを食ったらあとはちびちび飲もう。いったん片づけて、何かそのまま食べられるつまみを探そう。



「ごちそうさん」
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