一条春都の料理帖

藤里 侑

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日常

番外編 石上彰彦のつまみ食い①

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 今日は朝から最悪だった。

「ったた……」

 寝起きの頭痛はいつものことだが今日は一段とひどい。アパートの三階の角部屋の窓から見える空には重い雲がのしかかっていた。

「はあー……道理で」

 古傷も痛むはずだ。何かとけがの多い人間だから、体のあちこちが鈍く痛む。

 とりあえず朝飯食って、痛み止めを飲んでおこう。今日も仕事、しかも月曜日と来たもんだ。

『今日の運勢! ラッキーアイテムとともに、お知らせします』

 テレビをつければいつも通りニュース番組が放送されていた。ずいぶんきらきらとしている配色だ。目に痛いが替える気力もないのでそのままだ。

『そして最下位は……』

 心のこもらないアナウンサーの謝罪の後告げられたのは俺の星座だった。どうして占いの最下位に対して謝るのだろうか。別に誰が悪いわけでもない、ただ運勢が悪いだけだというのに。

『そんなあなたのラッキーアイテムはニッケ玉! 辛さで悪い運気を追い出しちゃいましょう!』

「ニッケ玉」

 この番組で紹介されるラッキーアイテム、いつも、ありそうでないというか、妙なとこついてくるんだよな。

 まあ、いい運気は手に入りづらいってことなのかもしれない。

 なんだかなあ。



「お前、何をしている?」

 図書館の前でうずくまっていた俺に声をかけてきたのは漆原だ。ここで司書をしていて、さらにいえば、俺の腐れ縁だ。

「腹でも痛いのか?」

「……違う」

 さすっているのは額だというのに、こいつは何を言っているんだ。

 立ち上がりそちらを見れば、漆原は不敵に笑っていた。

「冗談だ。さっき見ていた。派手だったなあ、音も」

 そうだ。こいつの言うとおりである。図書館に用事があったのだが漆原は不在。施錠されたドアを開けようとして、開いてもいないのに突っ込んで見事に額をぶち当てたわけだ。若干うつむき気味だったので眼鏡に激突しなかっただけ救いか。

「うるさい。それより、何か必要な備品はないか」

「いや、今のところは。ああ、湿布や絆創膏を準備しておくべきかな?」

「こいつ……」

 いつもながら余計な言葉の多いやつだ。

「茶でも飲んでいくか?」

「仕事中だ」

「水分補給は大事だぞ? 初夏だからと甘く見ちゃいけない」

「ご心配なく。ちゃんと取ってる」

 そう言えば漆原は「そうか」と引き下がった。

「まあ、事務室も騒がしそうだったしなあ。ゆっくりしている暇はないな」

「えっ?」

 聞き返せば漆原は「なんだ知らんのか」と声を潜めて笑った。

「お局様が、君をご指名だったよ」



 それでどうして俺はこの日差しの中、リアカーのタイヤを抱えて歩いているのだ。

 簡単な話、お局様のご指名だからだ。

「リアカーのタイヤがパンクしちゃってぇ、それも二台! どこか修理してくれるところはないかしらぁ」

 香水の化身とでもいわんばかりのお局様――いや、それでは香水に失礼か――は事務室に戻ってきた俺にそう言った。いちいち嫌悪感や面倒くささを覚えていてはやっていられないので、いつも通り、事務的に返す。

「僕が調べますよ」

「あらぁ、そう? ありがとう。やっぱりこういうのは若い人が頼りになるわぁ。じゃ、お店を見つけたら持って行ってちょうだいね」

 ちょっと待て持っていくまでは聞いてないぞ。

 しかしまあ、この事務室でリアカーのタイヤを外し抱えて歩く体力があるのは俺ぐらいか、と思い直す。

「なんで晴れてんだよ。朝は日が陰ってたじゃねえか……いや、でもあの曇天もきついか……」

 誰にともなく悪態をついたら、スズメがきれいなさえずりで返事をした。

 調べてみたところ、うちの学校のほど近くに自転車屋があるらしい。西元自転車……だったか。

 電話して聞いてみたところ、快く引き受けてくれた。電話口は愛想のいい女性だった。

「あれか……」

 小さな間口の、雰囲気の明るい店だった。何でもずいぶん昔からあるらしい。

「こんにちはー」

「はい、こんにちは」

 表で仕事をしていたのは老齢の男性だった。作業着を着て、今は自転車のパンク修理をしているらしかった。

「ああー、もしかして」

「お電話しました、一夜高校の石上と言います」

「はいはい」

 すると奥からも一人、男性と同じくらいの年齢の女性が現れた。おそらくこの人が電話対応をしてくれた人なのだろう。

「こんにちはー」

「こんにちは」

「お預かりしますね。急がれるんでしょう?」

「そうですね……あ、今日すぐにいるってわけじゃないんですけど」

「明日になると思いますが、お預かりしていても大丈夫です?」

「大丈夫です、よろしくお願いします」

 それから料金のことなど話をしていると、一人の男子学生がやってきた。うちの制服だ。そういえば最近は行事が多くて早く帰る日が多いんだったか。客だろうと思い少し横にはけると、男子学生はこちらに会釈をして「こんにちは」と言った。

「こんにちは」

「あら、春都。おかえり」

「ただいま。ちょっと寄ってみたんやけど……」

「暑かったろう、中に入っておいで」

 どうやら二人の孫にあたるらしい人物だということは分かった。二人の表情が柔らかい。

 少年が室内に入ると、再び仕事の話に戻った。

「では、そんな感じで」

「よろしくお願いします。助かります」

 明日取りに来ることを言って、立ち去る。

「ああ、ちょっと待って」

 と、老婦人に呼び止められる。男性の方はもう作業に戻っているようだった。

「これ、良かったらどうぞ。皆さんにお配りしているんです」

 そう言って渡されたのは飴玉いくつかだった。老婦人は困ったように笑った。

「もっと癖のないお菓子にしようと言っていたんですけどね、うちの人が好きなもので……ニッケ玉なんですけど」

「あ、ありがとうございます」

「それじゃあ、明日、お待ちしています」

 今度こそ店の外に出て、ぽっつりぽっつりと学校へ向かう。

「いただきます」

 その道すがら、もらった飴を一つ開けて口に放り込んだ。

 鮮烈な香りと辛さ。ニッケは、しょうがを凝縮したような味だと俺は思う。鼻に抜ける清涼感――というにはためらいのある刺激。好んで買うことはない味である。

 でも今はなんとなく心地がいい。

 なんだかなあ。人って不思議なもので、ちょっとしたことで落ち込むし、気を立て直すこともある。

 ああ、でもこのまま食ってたらお局様に何と言われるか。

 名残惜しいが、かみ砕く。まだ二つも残っているんだ。あとでまた味わうとしよう。



「ごちそうさまでした」

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