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日常
第百三十九話 麻婆豆腐
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移動教室が少々つらい季節だが、今日はちょっと日が差してほんのりとぬくもりを感じる空気に満ちている。
ロッカーから日本史の資料集を取り出し、社会科室へ向かう。
渡り廊下は妙に寒く感じる。やっぱ窓が両側にあるからだろうか。その少しくもった窓には何か落書きがされていたのだろう、雑に手で消したらしい跡が残っている。
窓に切り取られたように見える空は薄青く、雲がぼんやりとたなびいていた。
「なに黄昏てんの」
「あ?」
声のする方を振り返ってみれば、百瀬がいた。百瀬は俺が持つ教科書類をのぞき込む。
「移動?」
「そう。なんか今日、DVD見るって」
「あー、俺らも見たわ」
そういいながら百瀬は窓に指を走らせる。
「最後に感想書かされるよ」
「そんな気はしてた」
線を描いたそばからつうっと水滴が垂れて、なんかちょっと怖い感じになる。何を描いているのだろう。
「俺たちの時はパソコン室で一年が授業しててさ、すっごいにぎやかだった」
「ああ、隣だもんな」
「しかも社会科準備室には他の先生いるし」
冷た、と百瀬は指を窓から離した。
「途中で入ってくるから、寝ない方がいいよ」
「寝たのか」
「俺は寝てないけど、後ろの席のやつが寝てて、授業の後連れてかれた」
いったいどこに、そしてそいつは無事に帰ってきたのだろうか。
「じゃ、頑張れよ~」
ひらひらと手を振って立ち去る百瀬に「おう」とだけ答える。
さっきまで百瀬の指が触れていた窓では、溶けかけたパンダが水色に光っていた。
社会科室には出入り口が一つしかない。もう一つドアはあるのだが、そこは社会科準備室に直接つながっている。
この教室の机は長机で、椅子はパイプ椅子だ。一つの机に三人は座れるのだが、日本史を選択している人数は少ないので、一人一台ずつでも余裕がある。俺は壁際の一番後ろの席に座った。
普段の教室より窓がでかいので冷気がよく伝わってくる。今はカーテンが閉められているのでそこまでないが、教室に入ってきたときはかなり冷えていた。
外では体育が行われているらしい。うっすらと掛け声や笛の音が聞こえてくる。
「ちょっとここから早送りしてとばすぞ」
先生はそう言ってリモコンを手に取った。早送りしている間、少し教室がざわつく。雑談というか、体勢を変える音だ。パイプ椅子は少し動くと軋み、静かな中では音がよく目立つ。
さて、もうちょっとでDVD鑑賞は終わりだ。感想何書くか考えとかないと。できるだけ当たり障りのないことを書こう。
頬杖をつき、あくびを噛み殺した。
空が夕焼けと宵闇、それが混ざった桃色のような光のグラデーションに織り上げられる頃、家にたどり着く。
ほんと日が短くなったな。
そういやこないだじいちゃんが「寒くなると客が少ない」とか言ってた。普段から働いているところばかり見ている俺としては、今のうちに休んでいただきたいものだが。
エントランスを抜け、エレベーターを待つ。と、先客がいたようだ。二つあるエレベーターの片方の前で、鼻歌を歌いながらスマホを見ているその人は、俺の気配に気づいたらしい。カラメル部分が増えたプリンの髪を揺らして振り返った。
「あれー、一条君じゃん。おかえりー」
「あ、どうも」
家族ではない人から、おかえり、と言われたとき、素直にただいまと答えていいのかいまだに悩む。しかし山下さんは俺の返答を何ら気にすることなくにこにこと笑っている。
「山下さんも、今帰りですか」
「そそ、バイト帰り」
「お疲れ様です」
「ありがとー」
エレベーターに二人で乗り込む。山下さんは2のボタンを押した。
「へー、一条君最上階に住んでんの? リッチだねー」
「そんなことないですよ」
「眺めよさそうだよね。今度遊びに行かせてよ、幸輔と一緒に」
幸輔、というのが田中さんを指していると分かるのに少し時間がかかった。
「ああ、はい」
「あ、一条君ってスマホもってる? 連絡先交換しようよ」
「えと、はい」
なんか流れるように連絡先を交換してしまった。「幸輔にも教えていい?」と言われても「ああ、どうぞ」としか言えなかった。
「ありがとねー。じゃ、また連絡するから」
にかっと笑って片手を上げ、あっという間についた二階で山下さんは降りて行ってしまった。
なんだか、嵐みたいな人だった。大学生ってこんなもんかと思ったが、田中さんを思い出して、色々いるんだと思いなおした。
今日の晩飯はこないだ買ってきておいたレトルト調味料で麻婆豆腐を作ろうと思う。
辛さは二種類ある。結構辛めなやつとマイルドなやつ。辛すぎるのは食べるのに一苦労するし、かといってあまり辛さがないのもちょっと、と思ってひらめいた。この二つを混ぜればいいのではないか、と。
豆腐を賽の目切りにし、ネギは長ネギを細かく刻む。長ネギは鍋にも入れられるし、何かと使えておいしい、ということに気付いたのは最近のことだ。
肉は豚バラ肉を使う。薄くスライスされた豚肉を炒め、そこにレトルト調味料を入れる。色からして違うんだよなあ、この二つ。で、よく絡めたら豆腐を入れて最後にねぎを散らしたら完成だ。
これはご飯が進みそうな香りだ。さて、味はいかほどか。
「いただきます」
香辛料のいい香りがたまらない。思いっきりすくって食べてみる。熱々の豆腐に、ほんのり風味が残ったネギ。
辛い方は香りがよく、マイルドな方はうま味を感じやすい。混ぜたことでそれがいい塩梅となり、ピリッと香辛料の風味を楽しめながらも口の中にはうま味がじゅわりと広がっていく。
肉も脂身が甘く、噛めば噛むほど香辛料の香りと相まっておいしい。そして何よりご飯にかけて食うとよく合う。これはいい、混ぜて正解だった。
一日経った麻婆豆腐もまた味があっていい。明日の朝が楽しみだ。
……うーん、どれぐらい残るかなあ。
「ごちそうさまでした」
ロッカーから日本史の資料集を取り出し、社会科室へ向かう。
渡り廊下は妙に寒く感じる。やっぱ窓が両側にあるからだろうか。その少しくもった窓には何か落書きがされていたのだろう、雑に手で消したらしい跡が残っている。
窓に切り取られたように見える空は薄青く、雲がぼんやりとたなびいていた。
「なに黄昏てんの」
「あ?」
声のする方を振り返ってみれば、百瀬がいた。百瀬は俺が持つ教科書類をのぞき込む。
「移動?」
「そう。なんか今日、DVD見るって」
「あー、俺らも見たわ」
そういいながら百瀬は窓に指を走らせる。
「最後に感想書かされるよ」
「そんな気はしてた」
線を描いたそばからつうっと水滴が垂れて、なんかちょっと怖い感じになる。何を描いているのだろう。
「俺たちの時はパソコン室で一年が授業しててさ、すっごいにぎやかだった」
「ああ、隣だもんな」
「しかも社会科準備室には他の先生いるし」
冷た、と百瀬は指を窓から離した。
「途中で入ってくるから、寝ない方がいいよ」
「寝たのか」
「俺は寝てないけど、後ろの席のやつが寝てて、授業の後連れてかれた」
いったいどこに、そしてそいつは無事に帰ってきたのだろうか。
「じゃ、頑張れよ~」
ひらひらと手を振って立ち去る百瀬に「おう」とだけ答える。
さっきまで百瀬の指が触れていた窓では、溶けかけたパンダが水色に光っていた。
社会科室には出入り口が一つしかない。もう一つドアはあるのだが、そこは社会科準備室に直接つながっている。
この教室の机は長机で、椅子はパイプ椅子だ。一つの机に三人は座れるのだが、日本史を選択している人数は少ないので、一人一台ずつでも余裕がある。俺は壁際の一番後ろの席に座った。
普段の教室より窓がでかいので冷気がよく伝わってくる。今はカーテンが閉められているのでそこまでないが、教室に入ってきたときはかなり冷えていた。
外では体育が行われているらしい。うっすらと掛け声や笛の音が聞こえてくる。
「ちょっとここから早送りしてとばすぞ」
先生はそう言ってリモコンを手に取った。早送りしている間、少し教室がざわつく。雑談というか、体勢を変える音だ。パイプ椅子は少し動くと軋み、静かな中では音がよく目立つ。
さて、もうちょっとでDVD鑑賞は終わりだ。感想何書くか考えとかないと。できるだけ当たり障りのないことを書こう。
頬杖をつき、あくびを噛み殺した。
空が夕焼けと宵闇、それが混ざった桃色のような光のグラデーションに織り上げられる頃、家にたどり着く。
ほんと日が短くなったな。
そういやこないだじいちゃんが「寒くなると客が少ない」とか言ってた。普段から働いているところばかり見ている俺としては、今のうちに休んでいただきたいものだが。
エントランスを抜け、エレベーターを待つ。と、先客がいたようだ。二つあるエレベーターの片方の前で、鼻歌を歌いながらスマホを見ているその人は、俺の気配に気づいたらしい。カラメル部分が増えたプリンの髪を揺らして振り返った。
「あれー、一条君じゃん。おかえりー」
「あ、どうも」
家族ではない人から、おかえり、と言われたとき、素直にただいまと答えていいのかいまだに悩む。しかし山下さんは俺の返答を何ら気にすることなくにこにこと笑っている。
「山下さんも、今帰りですか」
「そそ、バイト帰り」
「お疲れ様です」
「ありがとー」
エレベーターに二人で乗り込む。山下さんは2のボタンを押した。
「へー、一条君最上階に住んでんの? リッチだねー」
「そんなことないですよ」
「眺めよさそうだよね。今度遊びに行かせてよ、幸輔と一緒に」
幸輔、というのが田中さんを指していると分かるのに少し時間がかかった。
「ああ、はい」
「あ、一条君ってスマホもってる? 連絡先交換しようよ」
「えと、はい」
なんか流れるように連絡先を交換してしまった。「幸輔にも教えていい?」と言われても「ああ、どうぞ」としか言えなかった。
「ありがとねー。じゃ、また連絡するから」
にかっと笑って片手を上げ、あっという間についた二階で山下さんは降りて行ってしまった。
なんだか、嵐みたいな人だった。大学生ってこんなもんかと思ったが、田中さんを思い出して、色々いるんだと思いなおした。
今日の晩飯はこないだ買ってきておいたレトルト調味料で麻婆豆腐を作ろうと思う。
辛さは二種類ある。結構辛めなやつとマイルドなやつ。辛すぎるのは食べるのに一苦労するし、かといってあまり辛さがないのもちょっと、と思ってひらめいた。この二つを混ぜればいいのではないか、と。
豆腐を賽の目切りにし、ネギは長ネギを細かく刻む。長ネギは鍋にも入れられるし、何かと使えておいしい、ということに気付いたのは最近のことだ。
肉は豚バラ肉を使う。薄くスライスされた豚肉を炒め、そこにレトルト調味料を入れる。色からして違うんだよなあ、この二つ。で、よく絡めたら豆腐を入れて最後にねぎを散らしたら完成だ。
これはご飯が進みそうな香りだ。さて、味はいかほどか。
「いただきます」
香辛料のいい香りがたまらない。思いっきりすくって食べてみる。熱々の豆腐に、ほんのり風味が残ったネギ。
辛い方は香りがよく、マイルドな方はうま味を感じやすい。混ぜたことでそれがいい塩梅となり、ピリッと香辛料の風味を楽しめながらも口の中にはうま味がじゅわりと広がっていく。
肉も脂身が甘く、噛めば噛むほど香辛料の香りと相まっておいしい。そして何よりご飯にかけて食うとよく合う。これはいい、混ぜて正解だった。
一日経った麻婆豆腐もまた味があっていい。明日の朝が楽しみだ。
……うーん、どれぐらい残るかなあ。
「ごちそうさまでした」
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