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第十三章 慟哭
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しおりを挟む“君は、僕を、許せるか?“
この問いに、柚季は結局答えなかった。
僕に、柚季のそばにいる資格はあるのか。何度も自問自答した。
こんな出来事を忘れられるはずがない。柚季の心の平穏を考えるなら、僕と一緒にいない方がいい――そこまで考えると同時に脳が拒否反応を起こす。考えることさえも苦痛で、受け入れられない身勝手な自分。久しぶりに柚季と過ごした時間が、離れたくないと心を締め付ける。例え許されなくても、これまで夢見ていた柚季との未来を手放せない。
心はともかく、体の方は順調に回復していた。
「顔色も本当に良くなったね。そろそろ退院できるって、お医者様も言ってたよ? 家に帰ったら、まず何がしたい? 何が食べたい? 私、なんでも準備するから」
姉はまるで二人でいた頃にタイムスリップしたみたいに振る舞う。"心療内科医からの指導"という免罪符のもとで、誰から何も言われることなく、姉は現実から逃避した自分の殻を被り続けている。
言いたいことは山ほどあった。でも、ここで刺激して、病院に通って来る柚季に何かあっては困る。そう思って耐えて来た。
でも――。
気付いていた。もう、姉が正気に戻っていることを。
「――姉さん」
「なあに?」
僕の顔に顔を近づけて微笑む姉を真っ直ぐに見た。
「もう、夢の中にいるのは、終わりにしよう」
その顔が、作られた微笑みのまま、凍結されたみたいに固まる。
「自分がしようとしたことも、今のこの状況も。姉さんは全部分かっている。そうだろう?」
今にも逃げ出しそうな姉の腕を強く掴んだ。
「姉さんが、すべてを知って、怒りを覚えたのは理解できる。でも、姉さんがしようとしたことは、取り返しのつかないことだ。あってはならない罪だ」
「わ、私は……っ」
「絶対に許されない」
怯えて震え出す視線を逃さない。
「僕と柚季以外の誰も知ることはない。姉さんが何か罪に問われることもない。でも、僕は、姉さんを許すことはできない」
目の前の見開かれた目が、涙を溢れさせる。もう二度と、姉に過ちを犯させてはならない。
「僕も、これから先、自分の罪を忘れないでいるよ」
姉のそばにいるという約束を守ることが出来なかったのは事実だ。一生癒えることのない傷を与えておきながら、結局姉さんを捨てたのだから。
そして、柚季の心を守りきれなかった罪。柚季にどれだけ深い傷を与えたのか。
「姉さんも、傷付けた人のことを忘れないでくれ。姉さんに心があるように、皆、心を持っているんだ」
柚季だけではない。関係のない貴明を傷付けて苦しませた。
「最初の結婚で柚季と一緒に暮らしていた時、一度も柚季から僕に触れて来たことはい。それどころか、近付いて来たこともなかった。柚季はただの同居人としての態度を少しも崩したことはなかったよ。それが事実だ」
姉に、これ以上愚かで虚しい感情を持っていてほしくない。ここで、すべてを終わらせる。
柚季と過ごした日々の中、時系列に柚季の表情が浮かんで来る。初めて誰かに姉との関係を打ち明けた。それが、柚季だった。
想いを貫くべきだと僕に必死に訴えて来た柚季の顔。姉との関係を守るために、偽装結婚をしようと持ちかけて来た時の顔。結婚式の時の、申し訳なさそうな顔。一緒に暮らし始めても、ただの先輩後輩、上司と部下としての、これまでと何も変わりない顔。
姉と僕の関係を支え、姉の元へと僕を送り出していた時の顔――。
その全部に、柚季の心の裏に別の感情があった。絶対にばれないようにただひたすらに隠していた想い。堰を切ったように、僕の中から柚季への想いが溢れ出して来る。感情が剥き出しになる。
「姉さん……お願いだ。僕を柚季の元に行かせてくれ。柚季のそばにいさせてくれ。頼むから、もう柚季を恨まないでくれ……っ!」
それはもう、正論も理屈もない。弟としてのただの懇願だった。
ベッドのシーツに突っ伏す僕に、声が掛けられた。
「――私の意思も感情も関係なく、和樹は柚季さんを選ぶ。もうとっくにあの人を選んでるのに、そんなことを私に頼むのね」
この病室で聞き続けて来たものとは違う、少し低くなった声。
柚季の苦しみを全部なくしたい。後ろめたさからも、誰かから憎しみを向けられることからも、解放させたい。柚季は、本来そういう立場に立つような人間ではない。これから先の日々は、何の葛藤も秘めることなく、心から笑えるようにさせたいのだ。
「大学の時、和樹に他に想う人がいるかもって、なんとなく気付いてた。でも、ずっと気付かないフリをした」
その声が酷く懐かしく感じて、思わず顔を上げた。
「そして、私も嘘をついた。あの日、和樹の友達に襲われた時。本当は最後までされてない。あなたを私に縛りつけるために、嘘をついたのよ。ごめんなさい」
そう言った姉の顔は、すべての憑き物を落としたようなもので。姉が襲われたことは、僕を縛り付ける鎖だった。その鎖は、本当は存在していなかったのか。だとしても、姉の傷になったことには変わりない。
「……私は、和樹のお姉さんだから。いい加減、弟の幸せを考えてあげなくちゃいけないよね」
伏せられた目から、涙がこぼれ落ちる。
僕の本当の母親が死んで、伊藤の家に入ったばかりの頃。寂しさと心細さでたまらなかった時、『私はお姉さんだから、私が和樹の力になる。お母様の代わりに、私がそばにいる』と言って手を握りしめて。この家の母と言われる人にも父親にも頼ることは出来なかった僕を察して、姉が手を差し伸べた。
姉は弟を守り励ます心強い存在だった。でも、それは僕だけが信じていた幻想だった。
「和樹の言う通り。もう、本当は全部分かってる。分かっていて、最後に和樹のそばにいたかった。私のせいで和樹が死んでもしまうかもしれないって、その事実を受け入れられなくて、ただ怖くて、和樹のそばを離れられなかった。すべての現実から逃れていたかった」
姉が顔を上げて、僕を見つめる。
「それも退院するまでのこと。私は、和樹に救ってもらった身で、和樹のおかげで大きな罪を犯さずに済んだから。私も、和樹を解放しなきゃいけないよね」
崩れ落ちるように頭を下げ、長い髪が白いシーツに広がった。顔を上げないままで、絞り出すような声が紡がれる。
「ずっと……、私のそばからいなくなった和樹を受け入れることができなかった。柚季さんを憎むことでしか、生きていられなかった」
涙に濡れた声が、白い病室に響いて。それを僕は黙って聞く。
「もう、ちゃんと受け止める。和樹がいない現実から、逃げないよ」
その後、姉が言った。
「柚季さんに、私は何も言えなかった。和樹からごめんなさいと伝えて」
――柚季さんも、和樹のことをかばってたよ。
最後にそう僕に告げて、扉がしまった。
それから、姉は病室に戻って来なかった。その代わりに両親が現れた。父親に聞いたところ、姉は既に帰宅していて、変わった様子はなく、むしろいつもよりしっかりした表情をしていたと言っていた。
「あなたと時間を過ごして、理桜なりに、少しずつ心の整理をしていたのかもしれないわね。私、本当にあなたを恨んでいた。夫だけでなく、娘まで取られるのかって」
母親が目を伏せる。
「あなたさえいなければ、私も理桜もこんなに苦しまずに済むのにって……。でも、今回のこと、感謝してるの。和樹さん、ありがとう」
葛藤を抱え続けていた人間がここにもいる。母親が安堵したように微笑んだ。
「そうそう。和樹さん、明日退院でしょう? 今朝、柚季さんから電話があったのだけど、二、三日実家に戻らなくてはいけないんですって。それで、病院には行けないけど退院の際はよろしくと言われたわ」
「柚季が、ですか……?」
「あなたの方にも連絡が来るんじゃないのかしら」
「……そうですね」
実家で何かあったのだろうか。入院中の僕に気を遣って、心配かけまいと詳しいことは話せないのか。
「和樹、いつから出勤する予定だ?」
「週明けの予定です」
父からの問いかけに答えながら、柚季のことを考える。
今夜、電話をしてみよう――。
柚季の実家のことも心配だ。柚季とは、話さなければならないことがたくさんある。
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