軽はずみで切ない嘘の果て。【完結】

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第十三章 慟哭

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 それは、姉がいなくなったと、慌てふためくように貴明から電話があったすぐ後だった。

(――私、もう、本当に和樹とは一緒にいられないんだね)

取引先との会合から席を外し、姉に電話をしようとしたその時に着信があった。すぐに電話に出るとそれが第一声だった。

「姉さん、どこにいる? 貴明が心配してる」
(柚季さん、やっぱり和樹のところに元に戻ったのね。男の人がダメなんて言って、二人の間には子供まで出来ていた)

僕の声などまるで聞いていないかのように言った言葉に、一瞬息が止まる。

姉は、柚季の妊娠を知っている――?

(本当は、最初に結婚していた時から、そういう関係だったんじゃない? あの人、あんな人の良さそうな顔して最初からそれが目的だった!)
「それは違う――」
(もう、どっちだっていいわ。結論は同じ。柚季さんが和樹を奪って行った。私には、和樹しかいなかったのに……)

否定は虚しいほどに掻き消された。

(あの人のせいで、もう二度と和樹が私のものにならないなら……私はもう生きていたくない。最後に、柚季さんに会いに行く)
「姉さん、一体何をするつもりだ……?」
(あなたたちの新しい家もあの人がかかっている病院も、何もかも知ってるの。私、本当に辛かった。だから、もう、これで終わりにする)
「待て……っ! 姉さんには、貴明がいるだろ!」

何がなんでも姉を止めなければ。それしか頭になかった。

(貴明君には和樹から言っておいて。愛せなくてごめんなさいって)
「姉さん!」
(私は、どうしても、柚季さんが許せない――)

そのまま、その通話は途切れた。

 まだ何かがはっきりしたわけでもないのに、激しく動揺している自分をたしなめる。冷静に考えろと言い聞かせた。
 姉の怒りの矛先は柚季だ。これから、柚季に会いに行くと言った。この日の柚季の予定は、午前中に産科の健診。姉は病院も知っていると言っていた。柚季を守るために行く場所は一つしかない。

 部下に口早に帰宅することを伝え、すぐにタクシーに飛び乗った。

 貴明の話では、姉は披露宴を行う予定のホテルで婚礼衣装を選んでいた。そのホテルから、郊外の産科まではそう短時間では着かないはずだ。

 ひとりでに震え出す手で柚季に何度電話をかけても、まったく繋がらない。

診察中か――。

病院にも電話をしてみた。でも、ちょうど病院を後にしたところだった。

頼むから。どうか――。

姉の心の闇は、思っていた以上に深かった。遠ざけていたつもりでも、それは何の意味も成していなかった。姉の気持ちは、少しも消えてなどいなかったのだ。

『私が、世界で一番の和樹の味方になるよ』

遠い昔、まだ子供の頃。そう言ってくれた優しかった姉の微笑みが浮かぶ。姉に、柚季を傷つけさせてはいけない。

柚季を失うようなことがあったら――。

僕は耐えられないだろう。この先、どうやって生きていけるというのか。

『和樹さん、好きです。ずっと、好きでした』

苦しそうにやっと言ってくれた時の柚季の表情が浮かんでは消えて、胸がはり裂けそうだ。姉への罪悪感を抱えていた柚季を、無理やり僕の元に置いた。

全部、全部、僕が――。

何に代えても、柚季のことを守らなければならない。絶対に。

 産科の近くでタクシーから降りる。スマホを片手に走り出すと、視界に姉の姿が飛び込んで来た。

「姉さん!」

声の限りで叫ぶ。姉は視線を少しも動かさずにただ前だけを見て。その視線の先をたどると、柚季が信号を待っていた。

柚季――!

「柚季! 道路から離れて!」

姉の躊躇いのない歩に、身体が勝手に動いていた。

 何があっても姉を止める。それは、僕がしなければならないことだ。心などとうに失くして壊れたロボットのように直進する姉を抱え込む。その時、何かに足を取られた僕を、姉が我を忘れて突き飛ばした。
 柚季が怯えと驚きでこちらを見る。その視線と合った。

間に合ったのだ――。

安堵した瞬間、身体に激しい衝撃を受ける。遠く朧げに、姉が僕を呼ぶ声が聞こえた。



 誰も彼もが姉に対して、腫れ物に触るように接していた。それは柚季もだ。柚季が僕のそばに来ようとしないのは、姉がいるからだ。
 たまに僕の視界に入る時の柚季は、明らかに姉に気を遣っている。本当なら、姉にされそうになったことを考えれば、姉と会うことも同じ空間にいることも耐えられないだろう。恐怖でいっぱいのはずだ。
 僕と姉は、柚季に謝罪する立場だ。なのに、姉は、当たり前のようにこの個室で過ごし僕のそばを離れない。

一刻も早く柚季に謝らなければ――。

自由にならない身体に苛立つ。

「――体調、良さそうだな」

姉が一時帰宅している時を見計らってか、貴明が病室にやってきた。

「……ああ、なんとか」

ベッド脇にある椅子に腰掛けて、僕の顔をじっと見て来る。こうして二人で話をするのは事故のあった日の電話以来だ。

「事故のこと……申し訳ない」
「なんでおまえが謝るんだよ」

突然頭を下げた貴明に面食らう。

「俺がおまえに電話なんかしたから。巻き込んだようなもんだろ?」
「いや……」

結局、姉の方から電話があったのだから巻き込まれたわけじゃない。この事故の真相は両親にも貴明にも説明なんてできないのだ。

「理桜さん、それはもう大変な取り乱しようだった。今は、俺のことなんて全く視界に入ってないよ。事故の日の後から言葉すら交わしていない。ただおまえのそばにいるだけだ」

その笑顔は痛々しくて、見ていられない。

「結局、彼女は俺のものにはなってくれていなかった。ウエディングドレスの試着なんて、女性にとって一番楽しいものだろ? そこから逃げ出すんだ。よっぽど俺と結婚したくなかったんだな」
「貴明――」
「最初から、おまえを忘れるためのものだとわかっていたし、それでもいいと思っていたけど。ほんの少しも忘れていないってのは、やっぱり苦しいな」

穏やかに紡がれる言葉が、余計に哀しい。

「……辛いのは、俺だけじゃなく、おまえの奥さんもだな」

その言葉に、視線を貴明に戻した。

「柚季さんだって、おまえのことが心配だっただろうしそばにもいたいはずなのに、それさえできない。奥さんなのに、理桜さんに気を遣っているんだろう? 何だか……俺と重ねちまってさ。柚季さんを見ていると辛くなる」

ふっと俯いたあと、貴明が顔を上げる。

「おまえらの絆を前にしたら、周りの人間は途端に脇役になるんだよ。俺は婚約者で柚季さんは妻だ。でも、どれだけ立場が正当なものだとしても、結局、敵わないんだよ」
「違う……!」

貴明の言葉に声を上げていた。

「違うって、何がだよ。だったら、柚季さんはどうしてあんなに遠慮してるんだ? どうしていつも隠れるようにしてここに来てる? 病室にいるのは理桜さんだ。他の患者家族や看護師たちから、陰で何を言われているのか知ってるか? 仮面夫婦じゃないかって。愛情のない奥さんの代わりに綺麗なお姉さんが献身的に世話をしてるって。本当に気の毒だ」

柚季――。

「事故があった日、手術の後、柚季さんが、誰も見ていない場所で一人崩れ落ちそうになっていたのを俺が支えた」

悔しくて苦しくて唇を噛み締める。苦々しい血の味が染み込んで来る。

「……もう、モラルとかそういうの考えずに、おまえら二人がくっついたらどうだ? そのほうが、よっぽど周りを傷つけずに済む!」
「違うんだよ……僕が愛しているのは、ずっと柚季だけだ。僕の妻は柚季だ! 僕と姉さんは、おまえが思っているような関係じゃない……っ!」

声を荒げた貴明に、たまらなくなって感情のままに叫んでいた。

「……え?」 

貴明が言葉を失い、その目を激しく揺らして僕を見た。

 こんな身体、どうなったって構わない。早く、柚季に会いたい。直接会って、話がしたい。一刻も早く謝りたい。

 その夜、病院を抜け出した。


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