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第十章 君の気持ち
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しおりを挟む柚季が緊張した面持ちで僕を見る。何を言い出されるのかと、不安なんだろう。
「柚季は、どうして僕が君と再婚したと思ってる?」
柚季の大きな黒目が伏せられて、何かを言おうとした口を噤んだ。
「君が妊娠したから。その責任を取るため……とか?」
肯定も否定もせずに、膝の上のスカートを握りしめていた。それが、柚季の答えだとわかる。そう思っているからこそ、肯定できないのだ。この先も夫婦として生きていく以上、そんなことをわざわざ合意するのも悲しい。だから、柚季は僕に聞くこともなかった。責任で結婚したと思っているから。
「柚季」
俯いている顔を、上へと向かせる。目が合った瞬間、心臓が大きく震えた。いい年してかなり緊張している。そんな自分を実感したら余計に怖くなるというのに。だとしても本当の自分で向き合うと決めた。
「柚季に離婚したいと言われた時、柚季と向き合いたいと言ったのも、こうして強引に再婚したのも、柚季を愛しているからだ」
「……え?」
漏れ出た声が掠れて震えている。その目は、激しく揺れていた。
「何、言ってるんですか……? どうして、急にそんなこと」
目の前の、想像していた通りの柚季の動揺を見て、胸が重く痛む。
「柚季に言えなかったのは、柚季は僕に恋愛感情はないし他に想っている人がいたからだ。僕の気持ちなんか伝えても、柚季を戸惑わせるだけで、君の負担になると思った」
柚季の強く握りしめられた手を掴んだ。
「でも、もう隠していたくない」
俯いたまま柚季が激しく頭を横に振る。
「君が妊娠したと知った時、無理やりにでも君を僕のものにできる理由ができたと思った。他の誰かを思っている柚季をそばに置いておける正当な権利が僕にはあるってね。そんなことを考えていた。卑怯な男だろ?」
柚季が目を見開いて僕を見た。失望したかもしれない。でも、これが本当の僕だ。
「責任感なんて、そんな立派なものじゃないんだ。傲慢で身勝手な理由だ。君を苦しめるとわかっていても、僕に縛り付けているんだから」
ただの責任感なら、柚季に選択肢を与えただろう。でも、僕には他の選択肢なんて柚季に与えられなかった。
「……だから、もし、柚季が姉に対して罪悪感を抱えて苦しんでいるなら。それは、君が一人で抱えるものじゃない。全部、僕のエゴだ。君が引き裂いたのでも、子供が引き裂いたのでもない。僕が本当に好きだったのは柚季だから」
見開いていた目から大粒の涙がこぼれている。それが次第に苦しげに歪み始めた。やっぱり、そんな顔しかさせられない。
「こんなこと言って、苦しめてごめんな」
「違うんです……」
突然顔を両手で覆い、柚季が激しく肩を震わせる。
「柚季……?」
「違う。卑怯なのは、私、です……っ」
膝に顔を突っ伏した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
突っ伏したまま、柚季が何度も詫びる。
「柚季! どうしたの? ほら、顔を上げて」
その肩を掴んでも、決して顔をあげようとしない。こんなに興奮させてはいけないだろう。ゆっくり背中を撫でて、優しく声を掛けた。
「そんなに、泣いちゃだめだ。身体にさわる。柚季――」
「私には、和樹さんに、そんな風に言ってもらう資格、ないんです。私は、ずっと……ずっと、和樹さんに嘘をついていました」
涙に塗れた言葉は、柚季の感情をそのまま表したみたいに苦しげだった。
嘘――若林さんの言葉の中にもあった。それに、あの夜の嘘。
「どんな嘘なの?」
掴んだ肩を押し上げて、ようやく柚季の顔を見る。こっちが苦しくなるくらいに、悲痛な表情だった。
でもきっと、ここは、吐き出させた方がいい――。
「本当のことを打ち明けるのは怖いよな。まさに今、僕もそうだった。今度は、僕が柚季の言葉を全部受け止めるから」
どんな嘘が、柚季をここまで苦しめているのか。一刻も早く、楽にしてやりたい。柚季の背中に手をやり、包み込むように柚季の頭に触れる。
「大丈夫。言ってごらん?」
親指に涙の滴が伝う。
「……好きだったんです」
想定していなかった言葉に、撫でていた手が止まる。その言葉の意味が、まったく理解できない。
「和樹さんのことが、ずっと好きで。どんな理由でも、和樹さんのそばにいたいと思いました。私は、和樹さんの近くに行きたくて、咄嗟に嘘をついた」
まさか――。
「自分の気持ちのために、あなたと、お姉さんを信用させて、ずっと騙していたんです!」
柚季が両手で顔を覆い泣き崩れた。
「若林さんが、好きだと言うのは? 男は恋愛対象じゃないって……」
何から理解していいのか分からない。
「全部、嘘です。和樹さんのそばにいるための、嘘」
嘘――。
柚季が偽装結婚を提案した時、いつも人の後ろに隠れて自分から言葉を発することの少ない彼女が、必死になって言葉を繋いでいた。
「……大学の時、和樹さんと出会ってから、ずっと好きでした。でも、私みたいな人間が和樹さんに告白できるわけもなくて。ただ、ずっと見ているだけでした。想いを告げて傷つく勇気もなければ、想いを断ち切ることも出来ない。中途半端で弱いだけの人間です。そんな私だから、こんな嘘をつくことになった」
感情を吐き出すように、何かに懺悔するように、自分の心を抉るように喋り続ける柚季をただ見つめる。
「私が、想いも伝えられないくせにそばにいたいなんて思ったせいで、和樹さんのお姉さんを苦しめた」
一緒に暮らしていた時。毎週末、姉の元へ行く時も。二人で共有したわずかな時間も。姉との人前式をした時も。柚季と抱き合った日でさえも。そして、「離婚してほしい」と柚季が言った時も。柚季から僕への恋愛感情なんて、ほんの僅かも感じたことはない。だからこそ、今、こんなにも驚いている。
柚季は自分の発した言葉の通りの自分を演じ続けた。それも、完璧に。どんな思いで、柚季はあの部屋で暮らしていたのか。一緒に暮らしていたからこそ分かる。柚季が、心の底から姉を裏切るつもりなんてなかったということ。
「私は、騙した挙句にこうして結局打ち明けて、和樹さんを自分のものにして、奪ったも同然です! 私が、あんな提案していなければ……っ!」
「柚季」
痛々しいまでに自分を責め続ける柚季を、抱きしめずにはいられなかった。
そうやって、ずっと自分を責めて日々を過ごさせた。姉と向き合うたび、僕に優しくされるたびに、罪悪感という刃が柚季を突き刺していたのかもしれない。
柚季と知り合ってからの十年。僕の知っている柚季は、ただただ不器用な人で。上手く立ち回ったり、自分が得するように動けない人だった。特段業務成績に関わらない、誰がやってもいいような雑務は、気づけばいつも柚季がやっていた。バイト先でも、会社でも、利用されることはあっても誰かを利用したりすることはない。そんな柚季がついた嘘。
「和樹さん、私を責めてください。こんな女、最低だって、愛せないって言ってよ――」
「僕も同じなんだよ」
その身体をきつく抱きしめた。僕らはお互いに嘘をついたのだ。ただそばにいたいというだけの願いのために。
「君のことがずっと好きだった。大学の時も、再会してからも。僕が好きだったのは、君だけだ」
「え……っ?」
姉の傷は、誰に言えるものでもなかった。それが、姉を愛せない僕の唯一の罪滅ぼしだったから。
「僕は昔、姉を酷く傷つけた。取り返しのつかない大きな傷だ。だから、一生姉のそばにいることが自分の残された道だと思って生きて来た。自分の望みなんか持ってはいけないと言い聞かせて。必死に姉を愛そうと思ったけど、出来なかった」
何度も、姉と同じ気持ちになれたら良かったのにと思って来た。でも、どうしても出来なかった。
「けど、どんなに君を好きでも手に入れることはできない。そんな時、君の秘密を知った。どうせ成就しないなら、せめて君のそばにいたいと思った。柚季と同じだったんだ」
柚季がその目を大きく見開いている。そこから大粒の涙が流れて落ちる。
「それでも柚季は、この先ずっとその罪悪感から逃れられない。自分を許せないだろう。それが君という人だから」
泣きじゃくる柚季を宥《なだ》めるように抱きしめた。
「でも、一つだけ、約束して」
どれだけ自分を責めても、許せなくても。
「僕に愛されることだけは受け入れて」
「和樹さん……」
肩を掴み、柚季の顔を真っ直ぐに見つめる。
「それだけでいい」
大量の涙のせいで、頬に張り付いていた髪を掬う。
「どんな時もそばにいる」
柚季が目を閉じて、また、涙をこぼした。額を合わせそう言ったら、柚季が肩を震わせながらようやく頷いてくれた。
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