軽はずみで切ない嘘の果て。【完結】

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第四章 忍び寄る苦しみ

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 支店勤務になった私の仕事は、伊藤楽器が運営する音楽教室の管理事務だ。

「――伊藤さん」
「は、はい」

まだこの名字で呼ばれることに慣れない。入力作業をしている後ろで名前を呼ばれて振り返った。

「あのね、こんなこと、伝えるべきかどうか迷ったんだけれど……」

同じ事務職の香山かやまさんが周りをチラリと見てから、その顔を近付けてきた。

(私、伊藤さんの旦那様、この前の日曜日見ちゃったの)

声を潜めて耳打ちする。

「……え?」
「女性と二人でホテルに入って行くところ。かなり親密そうに」

その発言に、思わず香山さんの目を見てしまう。

「まだ新婚さんなのに、こんなこと言うのもどうかなって思ったんだけど、新婚さんだからこそって思い直して」

日曜日に、ホテル――。

それが何を意味するのかすぐにわかった。それと同時に分かりきっていることなのに、生々しく想像してしまいそうになる自分を無理矢理に追いやる。

「それは、主人のお姉さんです。日曜日はお姉さんと会うと言っていたので」
「え……? お姉さん?」

笑みを作り頷いた。

「そうだったのね。いや、ごめんなさいね。新婚で、それもお休みの日に、奥さん以外の女性と二人でホテルに入るなんて、どう見ても違和感しかなくて。伝えておいた方がいいと思ったの。気を悪くさせちゃったわね」
「いえ、いいんです」

ごめんなさいと、何度か口にしてから香山さんは自分の席に戻って行った。私もパソコンのディスプレイに視線を戻す。

 日曜日は毎週お姉さんと会っている。恋人同志の二人が会えば何をするのか。想像するまでもない。わかりきっていることだ。なのに、この心がざわざわと私を刺激する。

“ホテル“という単語が、これまで深く考えないようにしていたことを曝け出す引き金にでもなったのか。

あの綺麗で清楚な人を和樹さんが組み敷いて。美しくつるりとした肌を和樹さんの指が這い、息を乱し合っている――。

バカみたいだ。思春期の子供でもないのに、そんなこと。思わず頭をふるふると振っていた。

「伊藤さん、香山さんのことは気にしない方がいいわよ」
「え?」

不意に隣から聞こえてきた声に、そちらを見る。

「香山さん、あなたと同年代だから。彼女、うちの御曹司のファンだったのよ。遠くから見るだけで済んでいたのに、奥様になった人がこんなに身近にいて一緒に働いている。あなたを見ていると少し羨ましくなっちゃうんじゃないかしら」

隣の席に座るベテランさんの川井さんが私に微笑んだ。

「……お気遣い、ありがとうございます」

なんと言えばいいのか分からなくて、とりあえずそう言った。

やはり、たとえ働いている場所が全然違うとはいえ、御曹司の妻がこうして同じ会社で働いているのは良くないのかもしれない。

 追いやっても消えてくれない胸のざわめきを隠しながら、心の中でため息をつく。


「……柚季、どうした?」
「あ――お帰りなさい」

キッチンで、シンクを流れる水をぼーっと見つめてしまっていた。和樹さんが帰って来ているのも気づかなかった。慌ててレバーをあげる。

「どうかした?」

顔を覗き込まれて、和樹さんの顔が間近に迫る。目の前に現れた唇に目が行く。その唇で、理桜さんにキスをする。あの潤んだ唇に、何度も何度も。

こんなこと急に意識しだすなんて、どうかしてる――。

そんな自分に戸惑って、慌てて和樹さんから顔をそらした。

「ううん、何でもないです。じゃあ、おやすみなさい」
「ああ、おおやすみ」

足早にダイニングを出て行こうとすると、背後から声をかけられた。

「今度の日曜日。よろしくな」
「ご実家に行くんですよね。手土産、準備しておきますね」
「ありがとう」
「じゃあ、おやすみなさい」

年末年始は、お父様とお母様が旅行をしていて訪ねる必要がなかった。その代わりの訪問だ。

 逃げるように自分の部屋に戻り、ドアを閉じた途端に大きく息を吐いた。
 今日だけだ。今日は、香山さんに言われたから気になっているだけ。明日になれば、気にもならなくなる。そう自分に言い聞かせる。
 これだから、男女関係に免疫がないと困るのだ。どうにもならない想像をかき消したくて、ベッドに飛び込み枕に顔を埋める。

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