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《その後》二人で見た海であなたを待つ

君との未来 3

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 ようやく金曜日がやって来た。

明日になれば、彼女に会える――。

火曜日の朝に別れてから、まだほんの数日。もう数週間も待たされたような気分になっているのだから嫌になる。

 仕事を終えてアパートに戻ると、早速、掃除にとりかかる。次の日も仕事があるから、今のうちに済ませておかなければ間に合わない。ただでさえところどころ痛んで古めかしい部屋だ。せめて綺麗にしておかないとと、念入りにあちこちを雑巾で磨く。ほとんど物のない部屋は、殺風景で寒々しい。

 部屋の掃除を終えて、唯一の家具のチェストの上の位牌に触れる。

僕も、もう、幸せになることを許されるかな――。

そんなことを問い掛けたところで、誰からも答えなんてもらえないのに。ただの物体をじっと見つめる。

おまえの犯した罪は、僕の罪でもある。一番近くにいながら、唯一の家族だった僕は、結局おまえに何もしてやれなかったんだもんな。その上、止めることもせずに、おまえを逝かせた――。

チェストにもたれて、俯く。額に手を当てて、大きく息を吐いた。

せめて、誰かを幸せにしたいと思うことは、許してほしい――。

息子の亡骸の前で泣きわめく被害者の両親の丸まった背中と、死ぬ直前の翔太の顔、その両方が交互に浮かんで脳内を駆け巡る。

どうか――。

その浮かび上がる映像から目を背けまいと、必死に訴える。そんな時、突然鳴り響いたスマホの着信音に、肩がびくつく。小さな折り畳みのテーブルの上に置いたスマホに手を伸ばすと、そこに未雨さんの名前が表示されていた。

もう、十時になったのか――?

心を落ち着けるために、少し間を置いてからその電話を手にした。

「もしもし――」
(春日井さん……っ!)

電話の向こうが騒がしい。まだ、外にいるのだろうか。壁に掛かる時計を見れば、まだ、十時を回っていはいなかった。

「どうしたの? 今日は、確か、飲み会だったんじゃ――」
(今から、行っても、いい?)
「え……これから?」

彼女の声はいつもと少し違っていた。どこか上擦って、それでいて、切実なもの。

(まだ、最終には間に合うから。会いたい。会いたいの……っ)

酔ってる――?

そんな状態で、この時間から来させて大丈夫だろうかと、いろんな考えが思い巡るけれど、その声を聞けば結局この口から出る言葉は一つだ。

「駅に着く時間を教えて。迎えに行く」



 未雨さんからメッセージが来て、僕はすぐに走り出した。自転車に乗るのも忘れて、丘を下り、海沿いの道路を走る。
 駅に着き、江ノ電が入って来たホームからまばらに降りて来た乗客の中に、彼女を探す。コートを着て髪を一つにまとめて、小さなバッグを肩にかけた、未雨さんの姿を見つけた。

「未雨さん……っ」

数人しかいなかった客たちは、もう駅から消えていた。僕の呼びかけに、せわしなく動かしていた目をこちらに向ける。僕を認識するとその表情を緩ませて、僕のもとへと走って来る。

「――春日井さん」

江ノ電がホームを出て行き、静かになった駅前の道で、未雨さんが僕に飛びついた。

「ごめんなさい。明日行くって言ったのに、突然来て」

心許ない明かりを発する街灯が、僕たちの真上にあるだけだ。僕の胸に顔を埋める彼女の背中を、そっと抱きしめる。

「ううん。でも、どうした……?」
「どうもしない。ただ、急に、すごく会いたくなって」

細い肩が上下している。そして、少しだけほつれた髪が揺れていた。

「……じゃあ、行こうか」

背に回した腕に力を込めてから、その腕を解く。そして、彼女の手を取り握りしめた。そうしたら、俯いたまま、未雨さんが頷いた。

 手を繋いで、来た道を歩く。時折通る車の音と、波の音。それだけが耳に届く。何故か、隣を歩く彼女は押し黙ったままだ。それでいて、僕の手をぎゅっと握りしめて。

何を考えているんだろう――。

そっとその横顔を盗み見ても、伏せられた視線からはうかがい知ることはできない。そんな彼女が、二人だけになると部屋の真ん中で僕の背中に身体を寄せて来た。

「未雨さん……? やっぱり、本当は、何かあった?」

今日の飲み会で何か――。

後ろから回された未雨さんの腕を掴む。すると、背中により身体を押し付けて来た。

「――本当はね」

背中越しに感じる熱に、僕の心拍は加速度的に早くなる。

「お酒の力を借りました。今日、送別会でお酒を飲んで、気分が大きくなりました。今日なら、大胆になれる気がして」
「え……?」

後ろに振り向こうとするけれど、思いのほか未雨さんの腕の力が強くてそれも出来ない。

「……二度目を待つのが怖くて。今日なら、酔った勢いで自分からあなたを襲えると思ったの」

僕の胸を力いっぱい掴みながらそんなことを言われて、僕は一体どうすればいい。

「未雨さん――」
「自分からこんなことばかり言う私、きっと軽蔑されるだろうなって。でも、今日なら、酔ったせいにできるから」

そう言うと、彼女が背中から離れ僕の前に回った。僕を見つめるその目は、ぞくりとするほどに潤んでいた。
彼女の腕が僕に伸びて来る。僕の腕を掴み畳の上に座らせた。僕が後ろに手を付くと、未雨さんが僕の脚の上に跨る。

「春日井さんは、何もしなくていいです。私が、勝手に暴走するだけ。酔っ払いの暴走だから――」

そう言うと、僕の脚を跨いだまま膝立ちになり、コートを脱ぎ始めた。濃い緑色のワンピース姿になった彼女が、僕を見下ろす。

「僕は、何もしないの……?」
「そうです。春日井さんは、私に襲われるんです」

切なげに伏せられた視線、赤く染まった頬。自分で一つずつワンピースのボタンを外す姿は、その言葉とは裏腹に微かに震えていた。僕の目を見られないでいる。それが、彼女も緊張している何よりの証拠だ。彼女にこんなことをさせているのは、きっと僕のせいだ。臆病な僕のせい。

僕の代わりに勇気を出している――。

それが分かっていても、未雨さんを止められない。

ずるい僕は、君のその姿を見たいと思っている――。

少しずつ開かれて行く素肌。濃い緑色と白い肌とのコントラストに、目を奪われる。臍のあたりまであるボタンをすべて外し終えて、彼女が肩からワンピースを滑り落とす。豊かな膨らみが露わになった。彼女の顔が近付いて来て、今度は僕のシャツのボタンを外して行った。今にも触れられそうな場所に白い首筋が迫る。薄らと桃色がかったその首筋に唇を寄せると、未雨さんが甘い声を漏らし、身体を捩った。

「だ、だめです。春日井さんは、何もしないで……」
「そんな君の姿見たら、何もしないではいられない――」

ほのかに立ち上る彼女の匂いが、僕をどうしようもなく欲情させる。それをぎりぎりのところで耐える。それなのに、いきなり僕のシャツをはだけさせ、未雨さんが鎖骨から胸に向かって唇を這わせた。

「あ――っ」

性急な動きに、まるで抵抗ができない。小さな舌が懸命に動き回る。熱い手のひらが僕の身体にしがみつく。素肌に触れる彼女の全部に、ふるふると身体を震えさせてしまう。

「待って、未雨、さん……っ」

身体全体が性感帯にでもなってしまったかのように、どこもかしこもびりびりと痺れて。それをこらえるように、喉をのけぞらせた。

「どうしようもなく、あなたが欲しいの。会ってすぐ、こんなことするような私でも、嫌いにならないで……」

乱れた吐息の合間から聞こえるどこか苦しそうな声に、そこら中からかき集めてなんとか保っていた僕の理性が吹っ飛んだ。
 彼女の身体を勢いよく抱き上げ、そしてすぐさま唇を塞いだ。柔らかくて温かな唇を包み込むようにキスをする。素肌の背中をきつく抱きしめる。気が遠くなるほど唇を重ね合った後、彼女の頬を両手で支えた。

「――嫌いになる? 僕が、君を?」

どうしたらそんなことが出来るのか、むしろ教えてほしい。

「そんなことあるわけない」
「……本当ですか?」

不安をそのまま表したような目に、僕の胸の奥が痛む。

「どうして、そんなことを思うの。こんな風に大好きな人に襲われて、嫌な男なんているのか?」

頬を撫でながら、耳たぶを指で撫でると、彼女が肩をびくつかせた。

「僕の前だけで淫らになるなら、いくらでも大歓迎だけど?」
「か、春日井さん……っ」

あんな風にのしかかって男を襲おうとしていた人が、顔を真っ赤にして僕を可愛く睨みつけている。

「君の大胆なところも、僕の想像もつかないような突拍子もないことを言ったりしたりするところも、全部可愛い。だから――」

彼女の身体を包み込むように抱きしめる。

「もう、何も不安に感じることなんてないんだ。君がしたいようにしていいんだよ。僕は、君のものだから」

大事にしたい。この柔らかくて壊れそうな、これまでたくさんの傷を抱えて来た身体を、大事に大切にしたい。結局、吹っ飛んだはずの理性は、のこのこ僕の元へ戻って来て。夜の街を駆け付けて来たこの身体を、優しく抱きしめてしまうのだ。
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