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第六章 秋雨

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 竹下通りから数分歩いたところに区立図書館があった。

「せっかくのお休みなのに、また図書館に来させてしまいましたね」
「ああ、いいよ。僕も図書館は好きだから」

玄関をくぐり館内を見回していた視線を、私へと向けた。そうやって、違うところを見ていた目が私へと向けられるその瞬間に幸せを感じる。心の中では誰か違う人を見ているのだとしても、この瞬間、その目は私を見ていると思えるからだ。
 書架をゆっくり二人並んで歩く。大きな窓からは、木々の緑が絵画みたいに見えた。そうしてたどり着いた『国内小説』の棚のところで、どちらともなく足を止める。春日井さんが、一冊の本に指をかけた。

「――この本は結構面白い。今、適当に手に取ったんだけど、冒頭から引き込まれた」
「え……?」

唐突な春日井さんの言葉に、その顔を見上げる。春日井さんがその小説の表紙を私に見せた。

「あ……っ」

思わず声を上げてしまって、慌てて口を噤む。その本は、春日井さんと出会ってから初めてちゃんと言葉を交わした日に、春日井さんが手にした本。そして、私が大好きだった本。あの日、春日井さんが言ったセリフ――。

「……その本、私も読んだことあります」
「面白いよね。この主人公のイカレ具合が」
「そうなんです。物凄くぶっ飛んでるんです」

そう私が言い終えると、声を潜めて二人で笑った。

「覚えていたんですね、その本のこと」

棚に身を寄せながら、ひそひそと話す。

「覚えてるよ。最初は、『なに? この怪しい人!』みたいな目を僕に向けて来ていたくせに、この本が何か分かったら、突然、饒舌に熱く語り出して。そりゃあびっくりしたよ」

春日井さんが思い出すように笑った。

「その本、大好きだったんです。自分とは正反対の主人公に憧れていました。誰もいなくても、確固たる自分を持っていて格好良かった」
「でも、そんな主人公の周りにいつの間にか人が集まるようになった。最初はそれを鬱陶しいと思っていた主人公も、次第に人と関わることの喜びを知るようになって行く」

春日井さんがストーリーを口にする。

「春日井さん、この本、最後まで読んだんですか?」
「読んだよ。君があまりに目を輝かせていたからどんな内容なんだろうって思って」

開いたページの文字に指を這わせながら、春日井さんが呟く。

「一緒に、読んでみる……?」

本に向けられていた視線がおもむろに上がる。

「はい」

 空いている一番片隅の席に隣に並んで腰かけた。あの頃は、向かい合って座っていた。すぐ隣に春日井さんがいる。こんな風に、大好きな場所でただ一緒に過ごす――。夢みたいだと思う。夢ばかりが叶って怖いくらいだ。

「……もうめくっていい?」

小さく囁く声が柔らかくて、それだけで胸が一杯になる。小さく頷くと、ページをめくる春日井さんの指をつい見つめてしまった。こんな風に近くでじっと見るのは初めてかもしれない。優しくて穏やかで、静かさを身に纏った人。でも、その指は、間違いなく大人の男の人のものだ。

「――この主人公、せっかく人と関わることに喜びを感じることが出来たのに、また一人になるだろう?」

潜めた声がすぐ隣から聞こえる。

「でも、この主人公の凄いところは、そのことに絶望しないところだよな。その喜びは良い思い出としてきちんと胸に留めて、でも、一人になってもちゃんと歩いて行く。投げやりになったり諦めたりせずに精一杯歩いて行く。そういうところが、僕もこの小説の好きなところ」
「……私も、です」

この小説は、決してハッピーエンドではない。でも、そこには人としての強さがひたすらに描かれていて。そこに私は心を打たれた。

「――こうあれたら、いいよな」

その言葉は、まるで自分に言い聞かせるみたいだった。それは私も同じだ。そんな強さを持てたらどんなにいいだろう。

「春日井さんは、この主人公のようにこれまで頑張って来たんじゃないですか。辛い夜があっても、次の日には起き上がってしっかり生きて来た。それは凄いことです」

あの夜――春日井さんの抱える辛い過去を知った。あんな風に、春日井さんは何度も辛い夜を一人で超えて来たのだろう。それでも、こうして春日井さんは私に笑ってくれる。人に優しく出来る。

「それだけで十分です。どんな過去も、春日井さんを責めたりしない」

弟さんが亡くなった瞬間のことを、春日井さんは未だに自分を責めていた。

でも、もう自分を責めないで。苦しめないで――。

「わ、私は、そう思います」

どうして今、こんなことを言ってしまったのだろう。何故か感情的になってしまった自分に驚くと共にすぐに後悔が襲う。

「すみません、こんな場所で――」
「ありがと」

目を伏せて、ただ一言、春日井さんはそう言った。


 窓の外から放たれる明るさに陰りが出始める。もともと曇り空だったのもあるが、それが余計に色濃くなっていた。

「……そろそろ、出ようか」

その声に、肩がびくつく。

「はい」

春日井さんが椅子を引き、立ち上がる。そして今の今まで間近に感じていた気配があっという間に遠ざかった。

 図書館を出ると、目の前に神社があった。

「せっかくだし、あの神社、通り抜けて行こうか」

春日井さんの後について行った私に、春日井さんが振り向いた。その神社は、都心の真ん中でありながら緑に溢れていた。さっき図書館から見えていた木々はここのものだったのだろう。敷地内にある、静けさの横たわる緑の庭園を二人で並んで歩く。竹下通りに溢れていた人が嘘みたいに、ここには人がいなかった。不思議だと思う。まるで二人しかこの世にいないみたいだ。

「――こんな風に、ただ歩くだけでも十分楽しいんだね。どうしてだろう」

春日井さんが頭上の木々の葉を仰ぎ見る。その横顔をじっと見た。私も同じことを思っていた。春日井さんと他愛もないことを話して笑い合うのも楽しいのに、こうして何も喋らなくても落ち着く。この沈黙さえ愛おしいと思える。

「私も。いつまででも歩いていられる気がします」

このまま二人だけでいられたら。そうしたら、余計なことは何も考えずに済むのに。

「――確かに。この調子なら、沖縄くらいまで行けそうだ」

そう言って、春日井さんがくすりと笑った。

「沖縄に行くには海を渡らないと行けませんよ?」
「そうだった。なんとなく、海が見たいと思って適当に言ってみた」
「海か……。私、海って間近で見たことないんです。だから憧れるなぁ」

そんなことを話していたら、庭園の小道を抜けてしまった。少し前を歩く背中を見つめる。洗いざらしのシャツも、少し跳ねた毛先のある髪型も、そのすべてを抱きしめたくなる衝動に駆られる。その背中は、もう、帰路につこうとしている。

このまま、夢みたいな時間が終わりを迎えようとしている――。

その背中を見ていたら、どうしようもなく胸が締め付けられて、何かに追い立てられるように声を張り上げていた。

「もう一つ、提案していいですか?」

このままデートが終わるのが嫌で、ただ引き伸ばしたいとそれだけを思っていた。

「もちろんだ。次は何をしたい?」

振り返った春日井さんは、変わらず優しげだった。

「……海を見に行きたいです」
「海……? これから?」

春日井さんが腕時計に目をやる。時間のことなんて気にしないでほしい。

「沖縄は無理でも、ここから行ける海に。どこでもいいです」
「これからだと、着くのが夕方を過ぎる。帰る時間が遅くなってしまう。君は明日仕事だろう?」

春日井さんが戸惑ったように言う。また行けばいい――そうもう一人の冷静な自分が言うのに、何故か心が言うことを聞かない。今日でなければならない気がして、戸惑う春日井さんを懸命に見つめた。

「どうしても行きたいんです。明日の仕事はしっかりやります。だから……っ」

木々がざわつく。向かい合う私たちにも風が吹き付けて、私はスカートをぎゅっと握りしめる。春日井さんの髪が揺れて額が露わになった。その目が、ゆっくりと細められ笑みに変わる。

「分かったよ。今日はとことん楽しむことにしたんだもんな。一日、目一杯、遊び倒そう」

無理なことを言ったのかもしれない。それでも、どうしても春日井さんと二人でいたかった。



 
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