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第四章 五月雨
十四
しおりを挟む「おいで、未雨」
樹がただ固まる私の腕を引く。今、自分がどんな状況にいるのか、自分が何を思っているのかまるで分からない。ロボットのように意思のない身体は、樹に引きずられるままに部屋の中へと入って行く。
「きゃっ! な、なんで?」
視界に入って来たのは、ベッドのシーツか何か白い布を肌に巻き付けた女の子だった。その表情は引きつり、逃げるように後ずさった。この瞬間、これまでずっと、自分の中に樹を疑う気持が微塵もなかったのだということを知った。樹が私だけを求めて見ているということに、何の疑いも入り込んだことはなかった。信じていたのだ。ただ盲目的に。
「ほら、もう帰れよ。さっさと服を着ろ」
樹の冷たく乱暴な声が、私をも突き刺す。
「このホテルに、もう一泊しようって言ったの、樹君じゃ――」
「うるさい。おまえにもう用はない。早く消えろ」
彼女は顔色を失い、大きな目から膨れ上がった涙を零した。うずくまり服を拾う姿を見ていたら堪らなくなって、そこから目を背けるように部屋のドアへと向かう。
「俺が愛しているのはこの人だけだ。ただの遊びを勘違いしてつきまとったりするなよ」
そう彼女に言い放ちながら、私の腕を強く掴んだ。その手を振り払おうとしても、樹の力が私の身体から自由を奪う。身体が自由にならない分、声を張り上げていた。
「こんなの酷い……っ!」
何が酷いのか、それすらも分からない。目の前にいる女の子にも怒りを感じるべきなのだろうか。それよりも、樹の仕打ちにショックを受けていた。樹とその子とで私を裏切ったという事実よりも、その樹の冷たさにだ。しゃがみながら服を拾う手が震えているのが目に入る。身体中から力を振り絞り樹の腕を払いのけた。私の足もとにあった品の良い白いスカートを拾い、彼女の元へと駆け寄る。
「大丈夫、私はあっちに行ってるから。その間に着替えて、とりあえず今日のところは帰って。ごめんね」
俯いたままだから彼女の表情は見えない。綺麗な栗色の髪が揺れている。部屋の絨毯にぽたぽたと落ちる涙が染みを作っていった。
「なんで、未雨が謝る?」
そのどこか震えた声に振り向く。振り向いた先にあったのは、激しく歪んだ樹の表情だった。
「彼女に支度させる時間はあげて!」
樹に背を向けて、そう叫んでいた。ほつれた髪に俯いたまま、彼女は私の横を通り過ぎ部屋を出て行った。ドアが閉じた音を最後に、部屋の中に重苦しいほどの静けさが広がる。
どうして――。
その静けさの中で、ぽっかりその思いが浮かぶ。どうして樹は、わざわざこの部屋に私を呼んだりしたのか。
「……未雨」
樹の声にびくつく。近付いて来る気配に、身体が勝手に拒否反応を示す。
「今、何を考えてる? どう思ってる?」
私を完全に見下ろせるほどの身長差。その影で私の身体なんてあっという間に覆われた。
「……どうしてこんなことをするの? 苦しいに決まってる」
「なら、俺の気持ち、未雨も少しは分かってくれた?」
思わず振り向いてしまった。ぶつかる視線に、背中がゾクリとした。その目があまりに恐ろしかったからだ。
「俺は、毎日毎日その苦しさと闘ってるんだよ。それを未雨に知ってほしかった」
「だから、こんなことしたの? そんなことのために、あの子を利用したの? 私にわざわざ見せつけて」
「利用? お互い様だよ。あの女も俺とやりたくて仕方がなかったんだから。前から俺の周りをうろついて、意味ありげな視線を送って来ていたんだ」
樹の気持ちが分からない。目の前の人が、誰だか分からなくなりそうになる。
「あの男も同じだろ。隙あらばと未雨を見ている。俺には分かるんだよ」
「何、言って――」
「未雨と春日井も、あの家で二人きりで抱き合っているかもしれない。何かをきっかけに一夜の間違いでも起こして、それから何度も身体を繋げているかもしれない。そんな想像ばかり膨らむんだ。そんな俺の気持ち、未雨は全然分かっていなかっただろ? だから、あんなことが言えるんだよ!」
身体中から発せられる樹の感情に、私はただ立ち尽くした。
「お互い無理をしないように? 尊重し合いたいって? なんだよそれ。俺の感情はどうすればいい? 俺は何をよりどころにするんだよ。未雨は、変わったよ。あの男と暮らすようになって変わった!」
樹は、何も理解なんてしていなかったんだ。私一人が、勝手に浮かれていた。これから、変われるかもしれないって――。
「あの男が現れるまでの未雨は、いつも俺のことを一番に考えてくれていた。俺の言うことには何でも頷いて。未雨の世界には俺しかいなかった。俺の言葉しか聞かなかったのに……っ!」
樹の手のひらが私に向かって来る。大きな手のひらが私の頬を包み込む。次第にその手のひらに力が込められて、痛いほどに頭を壁に押さえつけられていた。
「や、めて」
「そんな目で見るなよ。そんな風に、知らない人を見るみたいな目で見るなよ!」
私の中に渦巻く新たな感情が私を混乱させる。自分でも怖くてたまらない。
「未雨は俺から離れられないだろう? そうだよな? 俺が何をしたって許してくれる。未雨にとって一番大事なのは俺だよな?」
ただ怖くなって、何度も頭を振る。
目の前にいる人は樹で、ずっとずっと一緒にいた人で、私にとってただ一人の人で――。
そう何度も言い聞かせるのに、怖くてたまらない。
「俺が愛しているのは未雨だけだ。苦しいんだ。未雨に会えないと言われて、苦しくて耐えられなくなって、女なんて誰だって良かったんだ。こんな風に俺を苦しくさせるのもそんな俺を救えるのも、未雨しかいないんだよ!」
そのまま後頭部を引き寄せられて、きつく抱きしめられる。
「俺を助けてくれよ。苦しいんだ。自分でもどうすることもできない。大切なのに傷付けたくなる。どれだけ傷つけても俺が大切だと言ってほしくて、未雨をめちゃくちゃに壊したくなる」
そうやって樹は確かめたいのか。私が樹に対して絶対の揺るぎない感情を持っているということを――。
でも、絶対の感情って何なのだろう。絶対に揺らがない感情。そんなもの、この世に存在するのか。存在するとしたら、それは、親が子に持つ愛情なのかもしれない。私はそれすらも知らないのだ。でも、樹は知っているはずだ。継母から注がれる愛情は、いつだって惜しみないものだった。今だって、樹のためだけに生きている。
「見せてよ。未雨の気持ちを見せて。俺のこと、好きだって言ってよ」
樹の、綺麗な扇を描く二重の目が私に懇願する。真っ直ぐに伸びた眉の眉尻が少し下がっている。そんな表情をされると、私はいつも、頷いてしまっていた。そんな風に哀しい顔をさせたくなくて、懸命に笑みを浮かべた。
でも――。
――自分の気持ちだって大切にしないと。君自身が自分を蔑にしていることになる。
春日井さんの穏やかで優しい笑みと声が、私の胸いっぱいに広がって行く。
――もう、自分を蔑にしちゃだめだよ。
「未雨! 俺を見てよ!」
春日井さんの声で心を埋め尽くされそうになっていたところを、樹の声で遮られる。
「俺たち、何年一緒にいた? 積み重ねて来た時間は、誰にも負けない。俺たち二人だけの歴史だろ?」
今にも壊れてしまいそうなほどに激しく揺れる樹の目を見つめ返す。そう、私たちには共に過ごした長い長い時間がある。私のこれまでの日々を振り返れば、そこには樹しかない。いろんな場面が、私に見せてくれた樹の笑顔が、二人でひっそりと過ごした時間が、そんなものたちが束になって迫って来て私を引き戻そうとする。思い出が蘇れば、哀しみが込み上げる。
「――俺には未雨しかいない。どこにも行かないで」
厚い胸板とたくましい腕、それらが樹のがっしりとした体躯を形作る。それなのに酷く心許ない。それがまた私を切なくさせる。壊れやすくて脆いその心を、私は突き放せるのだろうか。
じゃあ、私は一体どうしたい――?
これまで通り、私は樹と一緒にいられるのだろうか。何もなかったみたいに、仕方なかったねと言えるのだろうか。
「未雨――」
樹の顔が近付いて来る。頬に樹の両手が添えられる。
「好きだ……っ」
私は、咄嗟に樹の胸を押していた。
「未雨……」
その声に失望が滲んでいるのが分かる。でも、どうしても出来ない。このままなし崩し的に抱かれるのは、もう嫌だと身体全部で私に訴えかけて来る。
――自分を大切にして。
自分なんてどうでもよかったのに。この身体も心も、どうでもいいものだったはずなのに。私は、必死に守ろうとしていた。
「少し時間が欲しい。一人で考えたいの」
このまま二人でいたら、私はまた考えられなくなる。樹に引きずられて身体を差し出してしまう。もう、同じことを繰り返したくはなかった。
「ちゃんと考えたい。樹に同じ気持ちを持てるのか。このまま一緒にいられるのか――」
「待てよ。俺と別れるって言うの?」
樹の声が迫る。骨が折れるんじゃないかと思えるほどの力で樹が私の手首を掴む。それをドアに押さえつけ、もう片方の手で私の身体を激しく揺さぶった。
「自分のことだけを考えるな。未雨は偽装結婚までしたんだ。それがどれだけ重いことか分かってる? 俺と一緒にいるためにたくさんの人を騙してる。簡単に俺から離れられると思うな!」
自分がどれだけ重い決断をしたのか、鋭く突きつけられる。
春日井さんを巻き込んで、結婚までして、両親を騙して――。
「未雨は春日井と結婚したおかげで、身売りみたいな結婚をしなくて済んだかもしれない。でも、糸原の状況は何も変わっていないんだ。変わってないどころか打つ手立てがなくなってより厳しい状況になってる。この先それを背負うのは誰だ? 俺だよ。それを分かってるのか? 分かっていて、俺を捨てられるのか!」
捲し立てる樹の言葉の全部が、私をがんじがらめにする。これから先も一緒にいるために結婚した。樹の抱える現実も私の目の前にある現実も、何もかも分かっている。でも、だめだった。いつものように感情を押し殺すことが出来なかった。
「ごめん。今日は帰る」
背中のすぐ後ろにあるドアに飛びついた時、足に何かがぶつかる。それは、樹のためにと買って来たコンビニの袋だった。そのままドアを勢いよく開け、残して来たものを振り切るため目一杯走った。
分かってる。私と樹は、行きつくところまで行きついてしまっているということ。感情だけで結論を出すことは出来ないということ。樹一人に何もかもを背負わせることはできないということ――。
でも、込み上げてくるのは、哀しいまでの虚しさだけだった。
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