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第三章 春時雨
十三
しおりを挟む春日井さんと別れて一人になってすぐに、樹の顔が浮かんだ。
春日井さんは、ああ言ってくれたけど、どう考えてもその申し出は受けられない――。
ただ男性がいるというだけで、その会合には行かないでくれと言うほどだ。男の人と暮らす、その上、いくら形だけだと言っても結婚だなんて、あの樹が許すはずがない。少し考えただけでもあり得ないことだ。とにかく、樹にこの状況をすべて話さなければならないとそれだけを決めて、自分のアパートへと戻った。
『話があるから、電話をください』と樹にメッセ―ジを送っておいた。その日の夜、そろそろ日付が変わろうかという頃、樹からの電話が鳴った。
(話って、どうしたの?)
電話越しの樹の声は、いつもと特に変わりはない。
「お母さんから、何か聞いてる……?」
この日私のアパートに来たこと、そして私たちの関係に感づいていること、それらのことを樹は知っているのかどうかがまず気になった。
(母さんって……母さんが何?)
私の口から継母の話題を振ることは、まずない。樹の声音が変わる。
「今日、お母さんが私のところに来た。私と樹が、隠れて会っていることに感づいてる。お母さん、樹が新宿行きの高速バスの半券を持っているのを見たんだって」
(母さん、今、階下にいるけど、俺には何も言ってない)
やっぱり、樹は何も知らなかった。継母は、樹には何も話をせず、直接私のところに来たのだ。
自分の息子には恨まれることなく、ただ、私だけをどこかに行かせてしまえばとーー。
「今すぐ消えろと言われた」
思わずぎゅっとスマホを握る。
樹はこれを聞いてどう思うのか――。
その答えを待つ自分の鼓動が早くなる。自分の鼓動ばかりで、樹の声は聞こえてこなかった。
「樹から離れないと殺す、とまで言われた」
自分で口にして、背筋に冷たいものが流れる。それが私の恐怖心を煽り、言葉を募らせる。
「樹には話していなかったんだけど、お父さんから縁談を持ちかけられてるの。古谷さんっていう社長さんの息子。結婚してその人と一緒に海外に行けって。その縁談話をお母さんも知っていて、お母さんからも縁談を受けろと言われた。樹から私を遠ざけるために。だから私、必死に樹との関係を否定した。でも、多分信じてくれていないと思う」
(縁談って、どういうことだよ)
ずっと黙っていた樹が低い声を発する。父親は、樹にも会社の状況を知られたくないと言っていた。でも、もうそんなことに配慮している場合じゃない。
「お父さんの会社、今、厳しいらしいの。会社を助けてもらう代わりに私と結婚させるって勝手に交渉していた。でも、あんな人と結婚なんてしたくない。それなのに、お父さんもお母さんも意地でも結婚させるつもりなの!」
自分をがんじがらめにする状況から、一番に助けてほしいと思う人はやはり樹だ。私と樹、二人の問題だ。
(――突然いろんなこと言われて、混乱してる)
「それは分かるよ。でも、私が話していることは、まさに今、私たちの間に起きていることなの。私も樹と離れたくない。これからも一緒にいたいって思ってる。だから――」
だから――?
私は、何を言おうとしたのだろうか。勢いのままに口走りそうになる。もしも、樹がすべてを捨ててくれるなら。会社も実の母親も捨てて、私だけを選んでくれるなら――。
樹は、私を愛していると繰り返し、何度も何度も“未雨は俺だけのもの”だと言う。
それなら、どうか、私を選んで――。
(……今さっきだって、普通に母さんと会話したよ。いつもと全然変わりなかったんだ!)
「樹……」
心の中で祈ったことは、現実とはならなかった。ただ、樹の混乱が手に取るように分かる。
「本当のことだよ。こんなこと嘘を言うはずない――」
分かってもらいたくて、必死に訴えた。その声を、樹の叫び声が遮る。
(俺は、未雨と別れるつもりはないよ!)
樹が、すべてを捨てるなんてことは出来ない。樹がそう言うはずもない。そのことは分かっていた。
(未雨に結婚なんてさせたくない。一体、どうすれば……)
その声が、今度は弱々しくなる。それが私を心細くさせた。
「私が縁談を受けない限り、樹のお母さんがまたいつ私のところに来るか分からない。このまま一生、お母さんから逃げ続けなくちゃいけない。一生逃れられないかもしれない」
”私はあなたを殺すわ”
あの憎悪み満ちた目が私を捕らえる。
「だから、助けて――」
恐怖から口にしてしまっていた。でも、私の方が年上なのに『助けて』なんて言ってしまったことにすぐに後悔する。
(……ごめん、俺はどうしてあげたらいいのか分からない!)
樹の悲痛な叫びが私の鼓膜を突き刺す。
(でも、未雨と離れたくないっていう気持ちは本当だ。未雨を手放すなんて考えられないし、絶対に出来ない!)
むしろ樹の方が私に助けを求めている。樹も樹で、この状況は苦しいに決まっている。助けてと求めても、樹はまだ親の庇護のもとにいる学生だ。一体何ができるというだろう。酷なことを言ってしまった自分を責める。
「助けてなんて言って、ごめんね。私の方が年上なのに」
樹を苦しめたくはない。あの男と結婚など、絶対にしたくない。それが私の揺るぎない意思だ。
――自分の意思で決めるべきだ。
春日井さんが私に言った言葉を、心の中でなぞる。
「ねえ、樹」
あの提案を樹に伝えるつもりはなかった。樹は拒絶するに決まっている。馬鹿なことを言うなと、怒り狂うかもしれない。でも、私が出来ることと言ったらこれしか残っていなかった。樹も私も自分で守る。それが、私の意思だ。
「一つ、方法がある。落ち着いて聞いてほしい」
無意識のうちに深呼吸をして、口を開いた。高校時代に少しの期間会話をしたことがある人と、つい最近、偶然再会したこと。継母がアパートに訪ねて来た時にたまたま一緒にいた春日井さんを、嘘の恋人に仕立て上げて樹との関係を否定したこと。そして、私と樹の事情を知って、私たちの関係を守るために偽装結婚をしてもいいと提案されたということ。それらのことを、樹に説明した。最後まで話しを聞いてもらえるかさえ不安だった。意外にも、樹は怖いほどに無言のまま、私の話を聞いていた。
「私が結婚することで、お父さんももう私に縁談を勧めることはできない。お母さんだって、私たちのことを疑う必要もなくなる。それでいて、春日井さんには他に好きな人がいるから私との間に本当の結婚生活を求めていない。春日井さんはただ『結婚』という肩書が欲しいと言っていた。お互いの利害が一致したの。私と樹は、これまでと変わらず会うことができる――」
(それで、未雨はその提案とやらを受け入れたいと?)
感情の見えない樹の声に、探るように言葉を選ぶ。
「もちろん樹と二人で答えは出したい。でも今は、それ以外の方法が見つからない。春日井さんの申し出に甘えさせてもらいたいって、私は思う」
私が樹の立場で、樹が他の女性と例え形だけでも結婚すると聞けば、私だってすぐに理解できるとは思えない。感情的に嫌だと思うだろう。そんな想像、簡単に出来てしまうだけに考えれば考えるほど不可能だと思えて来る。
(――とりあえず、その人に会わせて)
「え……っ?」
自分で提案しておいて、予想していなかった樹の反応に思わず声を上げてしまった。
「ほ、本当に、いいの?」
これまで樹と過ごして来た経験が、私を驚かせる。
(だから、まずは直接会って、話しを聞いてからだ。その男が、本当に信用のおける奴かどうか分からない)
「そうだね」
樹が怒らなかった――その事実に、私は複雑な感情になる。
(その男……)
樹の何かを押し殺したような呟きが、妙に耳に残る。
(未雨が何年の時の知り合いなの?)
「私が高二の時だよ。樹とは、まだ普通の姉弟だった時。知り合いと言っても、顔を合わせていたのは、ほんの一か月くらいなんだけど」
(それで、最近、再会したんだ……?)
尋問めいてくる樹の口調に、私の本能が何かを察知する。樹の意に反することをした時の、樹の豹変した姿が脳を掠めた。
「本当に偶然で。私がよく通う図書館があるでしょ? そこで働いていたの。この四月に来たんだって。今も、たまにばったり顔を合わせる程度なんだけど」
(――分かった)
なんでもない些細なことなんだと伝えようとすればするほど、声が上擦っていないか、不自然じゃないかと気になって。でも、樹は、それ以上何も言わなかった。
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