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第三章 春時雨

十一

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 大きく息を吐く。ようやくまともに呼吸をした気がした。それでも、小刻みな身体の震えは止まらない。

「ごめん。僕の演技は、イマイチだったかな……」

春日井さんが、気遣うような笑みを私に向ける。

「ごめんなさい! 本当に失礼なことしてしまって。 春日井さんには何の関係もないのに、勝手に――」
「いいよ」
「申し訳ないです!」

ただ深く深く頭を下げる。こんな自分勝手なことをして、恥ずかしいところを見られて。必死に頭を下げるくらいのことしか出来なかった。

「本当に気にしていないから、顔をあげて」

頭上から泣きたくなるほどの優しい声が降って来る。

「もし、糸原さんが嫌でなければ――」

"未雨さん"と呼んでいたのが"糸原さん"に戻っていた。言葉を選ぶように、慎重にその口が開かれる。

「僕に事情を話してみてくれないか?」

どれだけ悲壮感に満ちた顔をしていたのだろう。私を労るような眼差しに、私は自然と頷いていた。


 「最近見つけたんだ」と言って、私のアパートから少し歩いた路地裏にある小さなカフェに春日井さんが連れて来てくれた。冬でもないのに、寒気が身体を覆っていた。それを知ってか知らずか、春日井さんが勧めてくれたホットのカフェオレを口にする。暖かみを感じる天然木のテーブルを挟んで、春日井さんと向かい合って座った。カップを置いて小さく息を吐き、口を開いた。

「父が再婚して、その連れ子どうしだったんです。私にとっての義理の弟と、姉弟以上の関係になったのは……そう、ちょうど春日井さんと図書室で会った頃」
「え……?」

春日井さんの眉が動く。その目は、何かを言いたげに私を見る。

「春日井さんが突然いなくなってすぐのことでした」

どうしてだろう。胸にじんとした鈍痛を感じる。樹と一線を越えたのは、春日井さんが高校を退学したと知った、その日だった。

「それから一年後に、両親にバレてしまったんです。それで、私は家を追い出されました」

家族の縁を切られたこと、その半年後に樹が私を探し当て、また二人の関係が始まったこと。それらのことを、かいつまんで説明した。軽蔑されても嫌悪されてもいいような話だ。でも、春日井さんはただじっと私の話を聞いてくれた。そんな春日井さんに、私も都合の悪いことを誤魔化したりせずきちんと話したいと思った。

「地元にいる樹と、東京にいる私。時折樹がここに来るという関係を、親に隠れて続けて来ました。それで最近、縁を切ったはずの父が突然私を訪ねて来たんです。その理由は、傾いた会社を立て直すために、見合いをしてくれという話でした」

私は、そこで苦笑する。

「『家族はいないと思え。娘でもなんでもない』と言って私を放り出したくせに、助けを求めたい時だけ”娘”に戻してくれたみたいです。でも、そのお見合い相手というのがまた酷い人で。その時思ったんです。やっぱり娘だなんて思っていなかったんだって。でなきゃ、あんな酷い人のところに嫁に出そうとは思わないですよね」

考えれば考えるほどに可笑しくなる。

「家が傾けば、樹にも苦労させるかもしれない。そう思うと、単純に『イヤだ』というだけでは片づけられない。でも、どうしてもあんな人と結婚して海外に行くのはいやで。それに何より、弟と完全に会えなくなります。父から特に何も言ってくることがなかったので、このお見合い話はなくなってくれたんだと思っていたのに、今日、母が現れました」

そこまで話すと、少し疲労を感じて、カップを手に取る。

「……お母さんも、君の家の会社が苦しい状況だというのは知っているのかな」

何か考え込むように、春日井さんがそう口にした。

「はっきりとは分かりませんが、多分、知らないと思います」
「どうして? だって、君のお父さんの奥さんだろう?」

不思議そうに私に視線を向ける。

「父は、誰よりも母のことが大事なんです。母が自分から離れて行くことに怯えている。だから、都合の悪いことは伝えたくない。知られないうちに、なんとか会社を立て直したいと思っているんです。ですから、多分、母は何もしらない。ただ、樹と私の関係だけに気付いて、今日こうして私のところにまで来たんだと思います」
「……それで、君に持ち上がっている縁談のことだけは知っていた。だから、君と彼の関係に感づいたあの人は君に縁談を受けるように迫った」
「そうです」

春日井さんがそっと溜息を吐く。こんな話、聞いているだけで疲れるだろう。春日井さんが改めて私を真っ直ぐに見て来た。

「君のご両親が、二人のことを許す日が来る可能性は?」
「ない、と思います。私と樹の関係がバレてしまったあの日から、一度も私は家に帰っていません。連絡すら一切ありませんでした。一方的に縁を切られたほどです。それに、母の先ほどの姿、あれがその答えです」
「法律上、二人は結婚もできるはずだ。二人の意思さえあれば」

春日井さんの言葉が、これまで私が考えないようにしていたことを引きずり出そうとする。

「……でも、やっぱり難しいと思います。弟は、父の会社を継がなければならない。会社も実の母親も捨てる……樹にそんなこと出来ない」

そう。多分、樹にそんなことできない。その問いの答えを自分の中で、敢えて出さずにいた。でも、本当は分かっている。

「母は母で、物理的にも法的にも、私を出来る限り遠いところに追いやりたいと思っていると思います」

そう言葉にすると、ずきずきと頭が痛みだした。どこにも出口なんかない気がする。心配そうに私を見つめる春日井さんを見て、ハッとした。

「でも、さっき、春日井さんのおかげで母も帰ってくれたので」
「とりあえずは引き下がってはくれたみたいだけど、あの様子じゃ、完全に騙されてはくれなかったみたいだし。このままで黙っていてくれるとは思えないよね」

赤の他人のこんな話に真剣に悩ませている。春日井さんがこんなことで疲れる必要はない。私は、無理矢理に笑顔を作った。

「でも、時間は稼げました。母まで出て来てしまった以上、ちゃんと弟にも状況を説明しようと思います。本当に、今日はこんなことに巻き込んでしまってすみませんでした。それと、ありがとうございます」

改めて頭を下げた。

「私、昔から友人と呼べる人がいなくて。その上、弟とこういう関係になってからは、余計に人との付き合いを避けて来ました。こんな風に話を聞いてもらったの、初めてなんです。それだけですごく救われた」

それは本当だ。ずっと一人だった。苦しもうが悲しもうが葛藤しようが迷おうが、誰にも何も言えず一人で向き合って来た。こんな風に自分のことを誰かに話したことなんてなかった。

「春日井さんには感謝してます」

そう笑顔を向けると、春日井さんは神妙な顔をして私を真っ直ぐに見つめた。

「糸原さん」
「はい……」
「一つだけ、確認したい」

その声に真剣みが増す。

「なんでしょうか……」
「君は、これから先も彼と一緒にいたいと思っているんだね?」

春日井さんは私に念押しするように、そう聞いた。

この先も、たとえ明るい場所で向き合えなくても、ひっそりと陰に隠れたような関係でも――。

一瞬、ほんの一瞬考える。

”未雨には俺しかいないんだよ? 未雨を心から愛せるのは俺しかいない”

樹の声が私の思考を止める。私はすぐに「はい」と頷いた。

「だけど、君の弟さんは君だけを選ぶことも出来ない」
「はい」

私を確認するように見ると、春日井さんが私の理解の範囲を遥かに超える言葉を口にした。

「――僕たち、結婚しないか?」

ただ、春日井さんを呆然と見つめ返す。




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