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第二部

あなたのために出来ること 13

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 その夜、バスルームから出て、先に寝室のベッドで待っている創介さんの元へと向かった。
 私の姿を見ると、創介さんが開いていた雑誌を閉じる。
 ベッドヘッドに背を預けて座っていた創介さんの隣にそろりと入り込み、そして同じように私も座った。

「――創介さん」

創介さんに肩を寄せる。

「今日は、亡くなったお母様のこと、聞いてもいい?」
「どうした? 急に」

何故そんなことを言い出したのかと不思議そうな創介さんに、言葉を続ける。

「前にも少し聞いたことはあったけど、今日、創介さんの家に行って、なんとなく思い出して」
「なんとなく?」
「そう」

頭を創介さんの腕に預けると、肩を抱いてくれた。

「母親……。そうだな。まあ、六歳までの記憶だから、美化されてしまっているのかもしれないが、とにかく優しい人だったのを覚えてる」

創介さんの温かさを感じ、そして髪には大きな手のひらが滑る。

「俺が物心ついた頃から病を患っていていつも一緒にいられたわけではないから、俺と接することができる時は出来る限り優しくしたいと思っていたのかもしれない。だからかな。俺の記憶の中にある母親は、笑顔ばかりなんだ。最期の日を除いては――」

そこで創介さんの静かな声の音が変わった。

「最期の日……?」
「ああ。俺に笑顔しか見せなかった人が、涙をぽろぽろ流して泣いていた。もっと一緒にいてあげたかったと。傍にいてあげられなくてごめんってな。子供の俺には『無念』なんて言葉は分からなかったけど、ただ、母親の苦しい感情だけは伝わって来た」

淡々と語るけれど、それが余計に胸に痛みを与える。

「だから、お父様の再婚が許せなかった……」
「そうだ。本当に許せなかったよ。俺の母親は、天国からどんな思いで見ているだろうと、そう思えば耐えられなかったな」

そんな現実、受け入れられないのが当然だ。

「でも、結局、母親のために許せないと怒りを感じていたつもりになっていたが、ただ俺が寂しかっただけなんだ。そこに母がいないことが寂しかった。正義感を振りかざすことで、自分の弱さを誤魔化したんだ」

六歳という年齢で、一番傍にいてほしい、無条件で愛してくれる人を失うということがどれだけ寂しいことか。私にもよく分かる。
 でも、私には母がいた。創介さんにとっての父親は、甘える対象ではなかった。創介さんの置かれた状況を思うと辛い。

「あの時、きちんと自分の弱さに向き合っていれば良かったんだろう。どんな感情もすべて自分に向けていれば、あんな風に他人を傷付けずに済んだかもしれない……」

創介さんが口を噤む。傷付けてしまった人をその胸に思い浮かべているのかもしれない。その表情を見れば、憎しみではないことが分かる。

「亡くなったお母様は、どんな風に見ていたんだろうね……」

私は会ったことも話したこともない方だ。想像することしか出来ない。

「それを考えることが、俺にとって一番辛いことだった。行きつくところまで行きついて、汚れた人間に成り下がって。そんな時に思い出すのはいつも、母親の優しい微笑みで。もう思い出の中の笑顔さえ直視できなかったからな」

創介さんのヒリヒリとした悲しい笑みに、胸がぎゅっと締め付けられる。

 創介さんが以前、私に話してくれた。自分のしたことを後悔していると。
 後悔しているということは、それがずっとその心に重く横たわっているということで。そう考えれば、今のお母様も創介さんも、同じ苦しみを抱き続けていることになるのかもしれない。

「あの頃は考えることが怖くて、敢えて考えないことにしていた。でも、本当は分かっていた。母はきっと、父とあの人をいつまでも憎んだりはしていないんだろうなと。むしろ、変わり果てた俺を見て、悲しんでいるだろうなって――」

創介さんの心の奥底に居座り続ける、悔いと罪の意識。本当は触れずにいてあげた方がいいのかもしれない。
 でも、それではずっと同じ場所に立ち止まったままになる。

「でも、そう思ってしまえば、その時俺を支えていたものが失われると思った。母の仇だと自分を正当化して寂しさを紛らわせていた自分が、許せなくなる――。本当に、愚かだった」

私の髪に触れる創介さんの手のひらに力が込められる。

「母親と俺は全然違う人間だ。母親の本当の心の中など分かりもしないのに、勝手に俺が代弁して人を傷付けていいわけなんかないよな」
「創介さんは? 創介さんは、今は、もう許せているんですか?」

苦し気に揺れる創介さんの瞳をじっと見つめる。

「――二十二年だ。あの人も、そんなにも長い時間苦しんで来た。俺が苦しませて来たんだ。許せないだなんて、もう俺に言う資格はない。それを言っていいのは、おそらく俺の母親だけだろう」

創介さんが切なげに微笑んで私を見返した。

「……お父様に聞いたんだけどね」

書斎で、私は最後に聞いたのだ。

『亡くなられた創介さんのお母様は、どんな人でしたか』と。

「そうしたら、心が本当に綺麗な人間だったと、おっしゃっていた」
「父さんが……?」

創介さんの目が見開かれる。

「それなのに、結局ずっと辛く当たったままだったと。親に決められた相手で、ただそれに反発する気持ちばかりが先に立ち、一人の人間として向き合ってやれなかった。そうおっしゃっていた」

そう聞いた時のお父様の表情は、言葉で説明が出来ない複雑なもので。でも、それがすべてを表していたような気がした。
 反発するがために、愛そうとしなかった。
 でも、どんなに受け入れられなくても、一緒に暮らしていれば何かを感じ取るはずで。お母様の人となりを知っても、お母様を前にすればどうしても反発せざるを得なかった。

「創介さんの記憶は、美化でもなんでもない。本当に優しいお母様だったんですね」

創介さんの胸に顔を埋める。そして、その身体を抱きしめた。

「俺は……」

抱き締めた身体が一瞬強張ったのに気付く。でも、すぐに創介さんの腕に包まれた。

「本当に幸せな男だな」

私の背中にある手のひらに、力が込められる。

「本当に好きな人と、こうして結婚できた。心置きなく、おまえを愛せるんだから」
「私も幸せです。本当に……」

改めてそのことを実感する。創介さんのお母様の過去を知って、そう思わずにはいられなかった。
 愛する人にいつでも触れられる。そして、愛する人が心から私を愛してくれている。それが、どれだけ特別で奇跡みたいなものなのか。忘れないでいたい。

「私も、創介さんのお母様に会ってみたかった……」

優しく抱きしめられて、思わずそう零す。

「俺も会わせてみたかったな。絶対に、雪野を好きになるはずだ」

どこか哀しみを帯びた優しい声に、胸の奥が切なく疼く。

「会うことはできないけど、でも、きっと私たちを見守ってくださっているよね?」
「そうだな。何もかも全部分かってくれているかもしれない……」

創介さんの胸から顔を上げその目を見つめると、包み込むような眼差しで見つめ返してくれていた。

「うん。だから、大丈夫。今の創介さんを見ていれば、お母様もきっと安心してる。素敵な人になったって、思ってくれていると思います」
「雪野……」
「絶対、喜んでくれてる」

本当に、創介さんは素敵な人です――。

心の中で、会ったこともないお母様に伝える。もう一度創介さんを抱きしめる。

大丈夫。きっと、いつか、その心の重荷を下ろせる日が来る――。

「創介さん」
「なんだ?」

私の髪を撫でてくれる。胸に当てた耳から、創介さんの規則正しい鼓動が聞こえる。

「創介さんが、今のお母様に対して許せないという感情はもう持っていないと、いつかお母様に伝えてもいい……?」

その鼓動を聞きながら、じっとする。
鼓動を聞きながら、創介さんの声を待つ。

それを、今のお母様が知ることが出来たら――。

どれだけ救われるだろう。

 そして、そうすることで、創介さん自身も自分を許せるようになるんじゃないか――そんな気がして。

 でも、誰より創介さんの気持ちを大事にしたい。
 創介さんは、すべて自分の弱さからだと言ったけれど。自分さえも許してしまったら、本当のお母様を孤独にしてしまうのではないかという思いが根底にあったはず。純粋に母親を思う子の気持ちもあったはずだ。
 だから、ただじっと、創介さんの答えを待っていた。

「――いいよ。おまえが、そうしたいなら」

静かに響くその声の後、優しく私の肩を抱いた。

「ありがとう、ございます」

何年もの間、創介さんの家族は苦しい時間を過ごして来た。

でも、いつか、暗闇から抜け出ることが出来たら――。

「心が離れてしまっている俺たち家族を、雪野という人間がやって来たことで繋いでくれる。おまえのおかげで、俺は救われる」
「ううん。私じゃない。長い年月を経たからこそ感情も変化していく。深い苦しみほど、長い時間が必要で。それだけの時間を費やして来たんですよ」

私はただ、伝えるだけ。それだけだ。

 この先いつか。今ここにいるお母様と向き合って、私が創介さんの思いを伝えられたら。
 お母様と創介さん、二人が直接言葉を交わさなくても、その心を知るだけで救われるということがあるはずだ。
 
 創介さんの本当のお母様に、思いを馳せる。

創介さんのために、そうさてください――。

そっと、心の中で祈った。


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