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第二部
《幕間》秘書 神原由希乃の苦悩 7
しおりを挟む奥様は、常務に何とおっしゃるだろうか。噂の真相を確かめてしまわれるだろうか――。
思わず息を呑み、目を硬く閉じる。
「どうだ、雪野。いろいろ教えてもらえたか?」
「はい。本当に助かりました。資料まで準備してくださっていたんです。分かりやすくて、ためになりました」
常務を笑顔で見上げる奥様に、私は呆気に取られた。
「そうか、それは良かった。神原、忙しいところ悪かったな。おかげで、雪野も心強いだろ」
「いえ、私は……っ」
「――神原さん。今日は、本当にありがとうございました」
みっともなく狼狽える私に、奥様が言葉で遮り、私に目配せをした。
「雪野、あと少しで仕事が終わるから。ちょっと待っていてくれ」
どうして、常務に何も言わないの? 私のいないところで、伝えるつもり――?
「いえ、私はこれで失礼します。ちょっと、寄りたいところがあって」
「えっ? でも、今日は最初から一緒に帰る約束だろ?」
常務が驚いたように奥様を見ている。
「急に買いたいものを思い出したの」
「なら、俺も一緒に――」
「創介さんがいたら、落ち着いて選べないから。私は先に帰って買い物してから家で待ってます。では、神原さん、今日はありがとうございました」
私に会釈して立ち上がると、そそくさと部屋を出て行った。
「お、おいっ――って、逃げ足の速い奴だな……」
常務が残念そうに、溜息をついている。
「わ、私、お見送りしてきます!」
居ても立ってもいられなくて、奥様の後を追った。
社の玄関ホールを出て行こうとした奥様の小さな背中を見つけ、声を上げた。
「奥様、お待ちください」
「神原さん……、どうされたんですか?」
走り寄る私を目を丸くして見ている。
「私、今日は、本当に失礼なことを……っ」
「神原さん」
頭を下げる私に、キッパリとした口調で言った。
「また、これからもいろいろおうかがいしてもいいですか? 知らないこと、教えてください」
「も、もちろんです」
「ありがとうございます。では、また」
静かな声でそう言うと、奥様は玄関を出ていかれた。
常務室に戻ると、榊常務が声を上げた。
「神原まで、どうした」
「い、いえ、失礼いたしました」
不思議そうにしつつも、常務は視線を書類に戻す。
「……奥様は、本当にお優しい方なんですね」
気付けば、この口が勝手にそう零していた。
「え……? あ、ああ。そうだな」
否定することもなく、常務はそう答えた。
「あいつの優しさにはいつも驚かされるが、少し心配でもある」
「心配、ですか……」
「いつも、自分のことを考えず、人のことばかりで。自分が傷付くことに無頓着なところがある。もう少し自分のことも大事にしてもらいたいんだけどな……」
刺すような痛みが胸を貫く。ついさっき、あの人を傷つけたのは、この私だ。あんなこと言われて不快にならないはずはない。ただ、自分の優先順位が明らかに低いだけなのだ。あの時、奥様は、咄嗟に自分の立場より常務の立場を優先した。
自分の心は蔑ろにして――。
「私、もっと頑張ります。常務のお役に立てるよう、精一杯働かせていただきます」
頭を下げた私の頭上に、常務が短く答えた。
「必ず本社に戻す。今は、ここでしっかり仕事してくれ」
「はい」
”榊常務が、選んだ女性”
自分自身が感じた疑問の答えを、思い知る。地位やバックグラウンドに頼ることなく、努力されてきた方だ。そんな人が選んだ女性。それが、何よりの証だったのだ。
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