Moon Light Wolf

第2章 白き海賊船ルナティス

*9*

　ウルフに手を引かれ引きずられるようにして、カシスは食堂へと足を踏み入れた。
　いくつもの通路を渡り歩き、カシスがさらに自分の甘さを突きつけられた後だ。
　船内の構造はカシスが思う以上に複雑になっている。カシスが把握したのは船内のほんの一部にも満たないのだと思い知らされたのだ。
　食堂に入るとカウンター席にトンと身体を押しやられた。よろめいたカシスはカウンターに縋り、体勢を立て直しながら周りを窺い見る。
　室内に海賊の姿はなかった。いくつもの丸テーブル。３つ、あるいは４つずつでセットされた背凭れのついた丸イス。テーブルもイスも背凭れやパイプ状の脚に細工が施されていて、アンティークな趣きがある。
　カウンター席はバーの形になっていて、食堂というよりはラウンジに近い。ここに海賊たちが集まれば酒場という響きがピッタリだろうと思わせた。
　誰の趣味かは知らないが、航宙船ルナティスは外観の美しさに恥じぬだけの内装への拘りも持っているらしい。
　ルナと呼ばれたキイ・ブレイン、彼女なら内装にも拘り口を出していそうだ。
　それにしてもとカシスは不思議に思う。
　あれほど物見高だった海賊たちの姿がない。ルナの姿さえもだ。
　べったりとウルフに寄り添っていたルナだったが、ライブラリーからついて来る気配はなかった。
　他の海賊たちにしてもそうだ。
　通路のそこかしこで何人ものクルーを見かけはしたが、好奇の目を向けるばかりで声をかける者すらない。なにが始まるのかと興味を持って眺めはしても、皆一様に持ち場を守り離れようとしない。といって、ウルフの存在に怯え恐怖を抱いているというわけでもなさそうなのだから不思議だ。
　ウルフは完璧に海賊たちを纏め上げている。海賊と思えぬほどの見事な統率力だった。いや、海賊だから尚更なのか。
　カシスが見ている前で、ぐるりと食堂を見渡し調理場へ向かったウルフが声を張り上げる。
「グレン、グレン！」
「はいよ、キャプテン」
　調理場の奥からのっそりと熊のような大男が姿を見せた。ライアスに劣らぬ巨漢だが、彼よりいっそうの強面だ。
　ムッツリと引き結ばれた口許。２メートルはゆうにある背丈で上からジロリと目を向けられ、カシスは思わずたじろいだ。
　普通ならば畏縮し縮こまってしまってもおかしくはない。体格の差は歴然としていたのだし、なにより無防備に巨漢の前へポンと放り出されているのだ。
　しかし睨み返すだけの気丈さをカシスは持っていた。
　値踏みする視線で自分の半分もないような華奢な身体をジロジロとグレンは眺めやる。睨む目とかち合って、突然に彼はニッカリと歯を見せて笑った。
「噂通り強情な仔猫らしいな、キャプテン」
　笑うとやけに人懐っこい。カシスは急速に肩の力を抜いた。
　からかいに似た言葉には気をかける風もなく、ウルフはカウンターの裏にまわりグラスにラム酒を注いでいる。
「手伝いがいるんだったな、グレン？　こいつをここで使ってやれ」
「仔猫にはちとキツイんじゃないですかい？」
「構わん。好きにこき使ってやればいい」
　グラスを傾け切るようにラム酒を飲み干す。瓶詰めのオリーブを手に取ると、一粒を口に入れ唇の端を吊り上げた。
「逃げるには体力も必要だ。なぁ、王子サマ？」
　牙のように尖った犬歯がオリーブの実を砕く。
　種の部分なのか微かに見える赤が血のようだとカシスは思った。
　ウルフの視線がカシスを射抜く。逃れようもなく囚われる。
「もうひとつ、食事の時間になったら俺を呼びに来い。時間は厳守。必ずだ」
「な…………」
　ウルフが告げた言葉のバカバカしさにカシスは絶句した。悪ふざけが過ぎている。
「『食事をお持ちしました』と笑えとでも？　冗談にしたって笑えない」
　フイと顔を背けカシスは踵を返した。この場にいるよりも部屋に戻ったほうがいくらかマシだ。
　だがカシスの足は即座に止まった。
　すぐ真横の壁に果物ナイフが刺さっている。ビイインと撓り鋭く光を反射しているそれは、ウルフがカウンターの奥から投げつけたものだ。
　カシスの頬に薄く血が滲む。わざと狙ったに違いない。
「昼と夜のメシだけでいい。これからはお前の食事もここで取らせる」
　カウンターからカシスの元へ歩み寄り、ウルフは壁に刺さった果物ナイフを抜き取った。柄の方をカシスに向け握らせる。
「絶対に遅れるな」
「………………」
　応えることも動くこともできずにいるカシスに背を向け、ウルフは食堂を出ていこうとする。
「ウルフ」
　その名を呼んだのはグレンだった。
「ナイフを投げたりするなと何度言えば分かるんです!?　おかげでナイフの刃がみんなボロボロだ」
　後ろからの怒声にウルフは振り返りもしない。聞き飽きているのだろう、片手を挙げ了解の意を見せ、食堂を出て行ってしまった。
　残されたグレンは大袈裟に息をつく。
「まったく、あの悪ガキときたら……」
　呟きざま立ち尽くすカシスを見て、慌てて肩を竦めた。
「悪ガキなんて言ったことは、キャプテンには秘密にな」
　大男のグレンが怯えた振りで縮こまる様が可笑しくて、カシスは息詰まるような緊張を殺がれ、小さく笑みを浮かべていた。