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第三章
白飛びした日々の中で
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思い返してみると、大きな幸福は長く続かなかった。あの日からずっと、世界が澱んでいるようだった。覚悟していたとはいえ、寿命の影響は想像より重い。
僕と彼女が恋人であることを、スリープするたびに忘れてしまう。いつものスキンシップはなくて、単なるマスターとしか接してもらえない時間がある。無理やり思い出させた時の、白波の悲痛な表情を見るのが、とても辛い。
スリープ時間も伸びた。酷い時は半日ほど寝ている。眠気に耐えきれなさそうな面持ちでいてくれるだけ、人間らしくて、まだ良いほうなのだろう。
けれど、圭牙や凪の前では、気丈に振る舞わざるを得ない。余計な心配をかけないために。きっと、場の雰囲気をこれ以上なく乱してしまうだろうから。
──そんなことを思いながら、漠然と釣り糸を垂らしている。裏山のなかにある川辺は、頭上に茂る枝葉のおかげで涼しかった。……白波がいま、釣りの暇さに耐えきれず、立ったまま僕の腕のなかで密着していることを除けば。
「まーた腕のなかで寝とる……。この子、アンタのこと好きやなぁ」
「可愛いでしょ」
少し向こうからちょっかいを出した彼女に、僕は笑って返す。白波が起きた時のことを想像して、胸が鈍く痛んだ。『寝る』という言葉すら、聞きたくない。
もう何度目か分からないけれど、いつものように淡い期待をする。
──少し前のあの朝みたいに、白波が笑って目覚めてくれますように。
「夏月、引いとる引いとるっ」
「えっ、あっ……!」
その言葉で我に返って、竿を無理やり引き上げる。名前の分からない小魚が跳ねた拍子に、水滴ごと白波の頬に当たった。
「んぅ……」
顔をしかめて息を漏らす。たったそれだけのことが、怖い。心の隅にある淡い期待が、締め付けるように痛い心臓を強く拍動させていく。
「……あ、あれっ? 私、なんでマスターの……」
腕のなかにいる白波が、困惑した顔で僕を見る。それから伏し目がちに、
「あの……ごめんなさい、ここから出してもらっていいですか」
淡々と、けれど早口で。それすらも既に、遠く聞こえていた。……今日も、駄目だ。明日も、駄目? 渦巻くような思考とともに、いつもと同じ眩暈がする。
──こんな彼女に、僕は何ができる?
◇八月二十三日
白波の容態が悪化して、十日ほど経っている。だんだんと変化していく彼女を前に、僕は何もできていない。夏休みの惰性のまま、白飛びしたような毎日に摩耗されている。もどかしさ、無力感と焦燥感。うだるような夏の暑さが、それを増幅させていた。
「んんん……! はぁ……」
キッチンの片隅、僕の眼の前で、かき氷を作っている白波の声が聞こえる。自分で削ったのを食べたいというリクエストに応えてやったのだけれど、やはり厳しいようだ。身体能力の低下は自覚しているのか、悲しそうに、或いは悔しそうな表情をして、僕を見上げる。
「……手伝ってくれますか?」
「うん、いいよ」
昔ながらの手回し式。小さく感じる白波の手に、自分の手を重ね合わせる。少し力を込めると、涼やかな、氷の削れる小気味良い音がした。
「ありがとうございます」
ぎこちなく笑う彼女に「どういたしまして」と言いながら、いちご味のシロップを優しく手渡す。それをかけようとして、白波が小さな悲鳴を上げた。
「あっ……! ……ごめんなさい、かけすぎました」
「あはは……真っ赤じゃん」
「……はい」
「ふふっ、どうするのこれ……。かなり甘いよ」
「意地でも食べます」
他人行儀な口調で淡々と、けれど悔しそうに白波は呟く。そうして続けた。
「マスターはやっぱり、優しい人です。私がドジしても、怒らないで、一緒に笑ってくれますから……。優しい夏月さんが私のマスターで、良かったなって」
「……でも、僕は白波に、何もできてないよ」
「できてます。隣で、一緒に笑ってくれるだけで大丈夫です」
以前の白波とは違う優しい微笑が、胸のこわばりをほぐしていく。たったこれだけでも、それが彼女にしてやれることなら、せめて最後まで頑張ろうと思った。
今の自分が少しだけ、救われた気がした。
◇八月二十四日
そうしてまた、同じような朝を迎える。白波が起きたのはお昼すぎだった。慌てたような足音とともに、一度、二度、と、彼女が転ぶ音がする。随分と盛大に転んだものだね──と思っていると、白波は手足をさすりながら顔を見せた。
「あっ、マスター、おはようございます……! えへへ、寝坊しちゃって」
「別にいいよ。ごはん作ってあるから食べてね」
はにかみながらリビングに入ってくる彼女の声が、やけに弾んでいる。それに平然と答えてから、ソファに座っていた僕は、違和感の正体に一瞬で気が付いた。飛び上がるように席を立つと、何も考えずに彼女のことを抱きしめる
。
「えっ、えっ、いきなり抱きついてくるなんてどうしたんですか……⁉ どこか体調でも悪いですか? 嫌なこととかありました? えっと、えっと、あとは──」
混乱している白波の声が、以前の通りの彼女ということを証明していた。寝起きにこんなスキンシップを取ることが久々に感じる。ただひたすらに嬉しくて、愛おしくて、そんな高揚感に身を任せていた。顔が火照っていた。
「……大丈夫ですよ。ヒューマノイドは絶対に、マスターのことを忘れません」
透き通るような彼女の声。少しだけ間を置いて続けた「でも」は、どこか弱い。
「……でも、ごめんなさい。私とマスターの関係までは、覚えていられないんです。どれだけ大好きでも、思い出すたびに覚えていようと思っても、できなくて……。でも、今日は良かったです。大好きなマスターのこと、覚えてました。それがとっても嬉しくて、飛び起きて……。派手に転んじゃいましたけど」
控えめに笑うその裏に、混じる悲哀のようなもの。彼女のすべてが痛々しい。それでも僕は、せめて笑おうと努めた。それがせめてもの救いだから。
「……謝らなくていいよ。白波が気にすることないんだよ。忘れてたら、僕が思い出させてあげるから……それだけ。……悪いなんて、思わないで」
「……ありがとう、ございます」
それはまるで、彼女への気休めのような、継(つ)ぎ接(は)ぎみたいな言葉だった。けれど、僕の本音でもあった。我ながら、ありきたりで安っぽい言葉だな、と思う。
「マスターのこと、頼りにしてます」
白波は優しい子だ。同時に、少しでも夢を見させる、残酷な子だ。僕のできることなんて、たかが知れている。それなのに、たとえ嘘であろうと肯定してくれるそれは、嫌に気が利いて、人間らしい。そこがなにより、不気味でもあった。
「あと、ごはん、食べたいです」
「ふふっ、分かった」
顔を見合わせて笑いながら、さっそく食事の準備を始める。ソファに腰掛けようとした白波が、そこから滑り落ちた。あらかじめ作っておいた料理をテーブルに並べて、今日は食器を持つ手がおぼつかないから、少しだけ僕が食べさせたり。
ローテーションのようなメニューに、代わり映えのない会話。それでもやはり、楽しい。こうした悪しき現実の変化も、また一つのスキンシップだった。
日常のワンシーンがこれほど愛しく思えるなんて、彼女と出会わなければ気付なかったかもしれない。そんなことを言うと、白波は嬉しそうに頷いた。
「ちょっと遅くなりましたが、朝のお散歩、行きますか?」
「暑くなるけど、いいの?」
「はいっ」
食べ終えた食器を洗浄機のなかに入れるや否や、待機していた彼女が咄嗟に立ち上がった。それからすぐに玄関の方へと走っていく──途中で、案の定、また転んだらしい。感覚がやや鈍っているのか、ほとんどケロっとしている。……素直には、喜べないかな。
「はしゃいじゃ駄目だよ、大人しくしなきゃ」
「えへへ……気を付けます」
玄関先で膝をついている白波に近寄ろうとしたところで、ふと、開きっぱなしの扉が目に入る。僕と彼女が使っている寝室だ。いつもと変わらない光景のはずなのに、どこか違和感がある。窓から射し込む光が、ベッドの上を示すように伸びていた。
「枕……?」
少しだけ雑に放られているブランケットよりも、なぜだかそっちに意識が向く。窓枠越しの日射しの陰影が目に眩しい。何気なく触れてみると、暖かくて、少しだけ湿っていた。
──それが何かを理解するよりも早く、胸が痛む。抱いた罪悪感を口に出せるほど強くて、気丈に振る舞っているようで、けれど恐らく、それ以上に彼女は、誤魔化している。弱い姿を僕に見せないように隠している。それが、白波なりの優しさなのだろう。
……この夏、彼女からほとんど弱音を聞かないのは、そういうことなのかもしれない。でも、それでいいのかと、ふと思った。部屋の向こうから聞こえる声が、意識を引き戻す。
「マスター、早く行きましょうっ」
「うん」と答えた声は、かすれていた。
◇
夕立のように降り続ける暑さの下、手を繋いで海の見える高台を歩く。ときおり吹く潮風が、密かな動悸を急かしていった。平坦な道ですら転びかける白波を危なっかしく思いながら、そのたびに手を引いて抱き留める。申し訳なさそうな顔でお礼を言う彼女の面持ちが、やはり、どこか悲痛で、その辛さを表には大きく出していないだけだと、そう思った。
「やっぱり、無理しない方がいいよ」
「いえ、大丈夫ですっ。いつものことです」
「……でも、辛そうだから」
僕の声に、彼女の指先が少しだけ反応する。それから深呼吸のように瞬きをした。
「私は……別に、大丈夫ですよっ。元気百倍ですよ!」
作ったような笑顔で、彼女は繋いだ手を大きく掲げる。けれど、声は笑っていない。
「なんて言っても、お見通し、ですよね……」
……それは分かっているのに、どう言葉をかけていいかが分からない。何を言っても陳腐になる気がした。僕のために我慢している白波を前にして、僕は彼女のために、満足のいくことを何もしてやれてない。何をしていいかすらも、思いつかなかった。
「……辛かったら、辛いって言っていいんだよ。僕は……何もできないけど、でも、話を聞くくらいはできるから。僕が白波のマスターだから、それくらいは、させて」
彼女は無言で頷くと、白線に重なる枝葉の影を踏む。海風が頬を撫でて、口を開いた。
「……怖いんです。マスターに迷惑をかけちゃうことも、恋人同士でいるのを忘れちゃうことも。思い出した時に、一気に辛くなって……寿命が近いんだって、実感します。昔と違って何もできないのが、いちばん悔しいんです。仕方ない、んですけど……」
怖い。悔しい。普段の白波なら口にしないような言葉が、流水のように吐き出される。繋いだ手の感触は弱々しくて、消え入りそうな声だった。
「いつか、ヒューマノイドの寿命が、人間と並ぶ日が来ますかね……?」
「……分からない、ね」
でも、と僕は続ける。
「寿命を覚悟した上で、恋人になったんでしょ。どれだけ辛くても、寂しい思いをしても、思いっきり楽しみたいからさ。……だから、お互い様。白波は僕に、どうして欲しい?」
「……私の頼んだことに、嫌な顔ひとつせず、素直に聞いてほしい……です。抱っこと言えば抱っこ、お水を取ってと言えば黙ってお水を飲ませてください。そういうことです」
「……ヒューマノイドとマスターにしては、なんか逆だけど」
「ふふっ……。じゃあ、今から私が夏月さんのマスターになります」
そう笑う彼女の顔が、少しだけ晴れやかになったような気がした。
「だから私を、マスターの記憶のなかに、残してください。……お願いです」
僕と彼女が恋人であることを、スリープするたびに忘れてしまう。いつものスキンシップはなくて、単なるマスターとしか接してもらえない時間がある。無理やり思い出させた時の、白波の悲痛な表情を見るのが、とても辛い。
スリープ時間も伸びた。酷い時は半日ほど寝ている。眠気に耐えきれなさそうな面持ちでいてくれるだけ、人間らしくて、まだ良いほうなのだろう。
けれど、圭牙や凪の前では、気丈に振る舞わざるを得ない。余計な心配をかけないために。きっと、場の雰囲気をこれ以上なく乱してしまうだろうから。
──そんなことを思いながら、漠然と釣り糸を垂らしている。裏山のなかにある川辺は、頭上に茂る枝葉のおかげで涼しかった。……白波がいま、釣りの暇さに耐えきれず、立ったまま僕の腕のなかで密着していることを除けば。
「まーた腕のなかで寝とる……。この子、アンタのこと好きやなぁ」
「可愛いでしょ」
少し向こうからちょっかいを出した彼女に、僕は笑って返す。白波が起きた時のことを想像して、胸が鈍く痛んだ。『寝る』という言葉すら、聞きたくない。
もう何度目か分からないけれど、いつものように淡い期待をする。
──少し前のあの朝みたいに、白波が笑って目覚めてくれますように。
「夏月、引いとる引いとるっ」
「えっ、あっ……!」
その言葉で我に返って、竿を無理やり引き上げる。名前の分からない小魚が跳ねた拍子に、水滴ごと白波の頬に当たった。
「んぅ……」
顔をしかめて息を漏らす。たったそれだけのことが、怖い。心の隅にある淡い期待が、締め付けるように痛い心臓を強く拍動させていく。
「……あ、あれっ? 私、なんでマスターの……」
腕のなかにいる白波が、困惑した顔で僕を見る。それから伏し目がちに、
「あの……ごめんなさい、ここから出してもらっていいですか」
淡々と、けれど早口で。それすらも既に、遠く聞こえていた。……今日も、駄目だ。明日も、駄目? 渦巻くような思考とともに、いつもと同じ眩暈がする。
──こんな彼女に、僕は何ができる?
◇八月二十三日
白波の容態が悪化して、十日ほど経っている。だんだんと変化していく彼女を前に、僕は何もできていない。夏休みの惰性のまま、白飛びしたような毎日に摩耗されている。もどかしさ、無力感と焦燥感。うだるような夏の暑さが、それを増幅させていた。
「んんん……! はぁ……」
キッチンの片隅、僕の眼の前で、かき氷を作っている白波の声が聞こえる。自分で削ったのを食べたいというリクエストに応えてやったのだけれど、やはり厳しいようだ。身体能力の低下は自覚しているのか、悲しそうに、或いは悔しそうな表情をして、僕を見上げる。
「……手伝ってくれますか?」
「うん、いいよ」
昔ながらの手回し式。小さく感じる白波の手に、自分の手を重ね合わせる。少し力を込めると、涼やかな、氷の削れる小気味良い音がした。
「ありがとうございます」
ぎこちなく笑う彼女に「どういたしまして」と言いながら、いちご味のシロップを優しく手渡す。それをかけようとして、白波が小さな悲鳴を上げた。
「あっ……! ……ごめんなさい、かけすぎました」
「あはは……真っ赤じゃん」
「……はい」
「ふふっ、どうするのこれ……。かなり甘いよ」
「意地でも食べます」
他人行儀な口調で淡々と、けれど悔しそうに白波は呟く。そうして続けた。
「マスターはやっぱり、優しい人です。私がドジしても、怒らないで、一緒に笑ってくれますから……。優しい夏月さんが私のマスターで、良かったなって」
「……でも、僕は白波に、何もできてないよ」
「できてます。隣で、一緒に笑ってくれるだけで大丈夫です」
以前の白波とは違う優しい微笑が、胸のこわばりをほぐしていく。たったこれだけでも、それが彼女にしてやれることなら、せめて最後まで頑張ろうと思った。
今の自分が少しだけ、救われた気がした。
◇八月二十四日
そうしてまた、同じような朝を迎える。白波が起きたのはお昼すぎだった。慌てたような足音とともに、一度、二度、と、彼女が転ぶ音がする。随分と盛大に転んだものだね──と思っていると、白波は手足をさすりながら顔を見せた。
「あっ、マスター、おはようございます……! えへへ、寝坊しちゃって」
「別にいいよ。ごはん作ってあるから食べてね」
はにかみながらリビングに入ってくる彼女の声が、やけに弾んでいる。それに平然と答えてから、ソファに座っていた僕は、違和感の正体に一瞬で気が付いた。飛び上がるように席を立つと、何も考えずに彼女のことを抱きしめる
。
「えっ、えっ、いきなり抱きついてくるなんてどうしたんですか……⁉ どこか体調でも悪いですか? 嫌なこととかありました? えっと、えっと、あとは──」
混乱している白波の声が、以前の通りの彼女ということを証明していた。寝起きにこんなスキンシップを取ることが久々に感じる。ただひたすらに嬉しくて、愛おしくて、そんな高揚感に身を任せていた。顔が火照っていた。
「……大丈夫ですよ。ヒューマノイドは絶対に、マスターのことを忘れません」
透き通るような彼女の声。少しだけ間を置いて続けた「でも」は、どこか弱い。
「……でも、ごめんなさい。私とマスターの関係までは、覚えていられないんです。どれだけ大好きでも、思い出すたびに覚えていようと思っても、できなくて……。でも、今日は良かったです。大好きなマスターのこと、覚えてました。それがとっても嬉しくて、飛び起きて……。派手に転んじゃいましたけど」
控えめに笑うその裏に、混じる悲哀のようなもの。彼女のすべてが痛々しい。それでも僕は、せめて笑おうと努めた。それがせめてもの救いだから。
「……謝らなくていいよ。白波が気にすることないんだよ。忘れてたら、僕が思い出させてあげるから……それだけ。……悪いなんて、思わないで」
「……ありがとう、ございます」
それはまるで、彼女への気休めのような、継(つ)ぎ接(は)ぎみたいな言葉だった。けれど、僕の本音でもあった。我ながら、ありきたりで安っぽい言葉だな、と思う。
「マスターのこと、頼りにしてます」
白波は優しい子だ。同時に、少しでも夢を見させる、残酷な子だ。僕のできることなんて、たかが知れている。それなのに、たとえ嘘であろうと肯定してくれるそれは、嫌に気が利いて、人間らしい。そこがなにより、不気味でもあった。
「あと、ごはん、食べたいです」
「ふふっ、分かった」
顔を見合わせて笑いながら、さっそく食事の準備を始める。ソファに腰掛けようとした白波が、そこから滑り落ちた。あらかじめ作っておいた料理をテーブルに並べて、今日は食器を持つ手がおぼつかないから、少しだけ僕が食べさせたり。
ローテーションのようなメニューに、代わり映えのない会話。それでもやはり、楽しい。こうした悪しき現実の変化も、また一つのスキンシップだった。
日常のワンシーンがこれほど愛しく思えるなんて、彼女と出会わなければ気付なかったかもしれない。そんなことを言うと、白波は嬉しそうに頷いた。
「ちょっと遅くなりましたが、朝のお散歩、行きますか?」
「暑くなるけど、いいの?」
「はいっ」
食べ終えた食器を洗浄機のなかに入れるや否や、待機していた彼女が咄嗟に立ち上がった。それからすぐに玄関の方へと走っていく──途中で、案の定、また転んだらしい。感覚がやや鈍っているのか、ほとんどケロっとしている。……素直には、喜べないかな。
「はしゃいじゃ駄目だよ、大人しくしなきゃ」
「えへへ……気を付けます」
玄関先で膝をついている白波に近寄ろうとしたところで、ふと、開きっぱなしの扉が目に入る。僕と彼女が使っている寝室だ。いつもと変わらない光景のはずなのに、どこか違和感がある。窓から射し込む光が、ベッドの上を示すように伸びていた。
「枕……?」
少しだけ雑に放られているブランケットよりも、なぜだかそっちに意識が向く。窓枠越しの日射しの陰影が目に眩しい。何気なく触れてみると、暖かくて、少しだけ湿っていた。
──それが何かを理解するよりも早く、胸が痛む。抱いた罪悪感を口に出せるほど強くて、気丈に振る舞っているようで、けれど恐らく、それ以上に彼女は、誤魔化している。弱い姿を僕に見せないように隠している。それが、白波なりの優しさなのだろう。
……この夏、彼女からほとんど弱音を聞かないのは、そういうことなのかもしれない。でも、それでいいのかと、ふと思った。部屋の向こうから聞こえる声が、意識を引き戻す。
「マスター、早く行きましょうっ」
「うん」と答えた声は、かすれていた。
◇
夕立のように降り続ける暑さの下、手を繋いで海の見える高台を歩く。ときおり吹く潮風が、密かな動悸を急かしていった。平坦な道ですら転びかける白波を危なっかしく思いながら、そのたびに手を引いて抱き留める。申し訳なさそうな顔でお礼を言う彼女の面持ちが、やはり、どこか悲痛で、その辛さを表には大きく出していないだけだと、そう思った。
「やっぱり、無理しない方がいいよ」
「いえ、大丈夫ですっ。いつものことです」
「……でも、辛そうだから」
僕の声に、彼女の指先が少しだけ反応する。それから深呼吸のように瞬きをした。
「私は……別に、大丈夫ですよっ。元気百倍ですよ!」
作ったような笑顔で、彼女は繋いだ手を大きく掲げる。けれど、声は笑っていない。
「なんて言っても、お見通し、ですよね……」
……それは分かっているのに、どう言葉をかけていいかが分からない。何を言っても陳腐になる気がした。僕のために我慢している白波を前にして、僕は彼女のために、満足のいくことを何もしてやれてない。何をしていいかすらも、思いつかなかった。
「……辛かったら、辛いって言っていいんだよ。僕は……何もできないけど、でも、話を聞くくらいはできるから。僕が白波のマスターだから、それくらいは、させて」
彼女は無言で頷くと、白線に重なる枝葉の影を踏む。海風が頬を撫でて、口を開いた。
「……怖いんです。マスターに迷惑をかけちゃうことも、恋人同士でいるのを忘れちゃうことも。思い出した時に、一気に辛くなって……寿命が近いんだって、実感します。昔と違って何もできないのが、いちばん悔しいんです。仕方ない、んですけど……」
怖い。悔しい。普段の白波なら口にしないような言葉が、流水のように吐き出される。繋いだ手の感触は弱々しくて、消え入りそうな声だった。
「いつか、ヒューマノイドの寿命が、人間と並ぶ日が来ますかね……?」
「……分からない、ね」
でも、と僕は続ける。
「寿命を覚悟した上で、恋人になったんでしょ。どれだけ辛くても、寂しい思いをしても、思いっきり楽しみたいからさ。……だから、お互い様。白波は僕に、どうして欲しい?」
「……私の頼んだことに、嫌な顔ひとつせず、素直に聞いてほしい……です。抱っこと言えば抱っこ、お水を取ってと言えば黙ってお水を飲ませてください。そういうことです」
「……ヒューマノイドとマスターにしては、なんか逆だけど」
「ふふっ……。じゃあ、今から私が夏月さんのマスターになります」
そう笑う彼女の顔が、少しだけ晴れやかになったような気がした。
「だから私を、マスターの記憶のなかに、残してください。……お願いです」
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