【書籍発売中】バーン・ホワイトウェイブ ─夏の終わりに消滅した、花のような彼女─

水無月彩椰

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第三章

仮初の関係、負うべき責任

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──白波の姿が見えないかを確認して、四宮家の前を小走りで通り過ぎる。暑さでふらついているのをなんとか我慢しながら、今の自分に残された唯一のオアシスへと向かった。

 集会所の扉を開ける。つきっぱなしの冷房の風が、薄膜を張る汗にひんやりと触れた。誰もいないそこを独占しようと、畳敷きの小上がりに寝転がる。座卓に置かれたセルフサービスの麦茶を思い出したようにあおって、それからまた、わずかない草の匂いに目を閉じた。

「……」

 こうやって一人でいる時ほど、辛いものはない。考えていることが筒抜けで、誤魔化そうにも誤魔化せなくて、自分が悪い、ということを、否が応にも認めさせられる。つまらない意地のために謝れないでいる僕自身が、どれだけ馬鹿馬鹿しいかを、直視させられる。それでもすぐに動こうとしないのは、まだまだ子供なのだろう。動く気も起きない。

 なんともいえない室内の心地よさに微睡んでいると、誰かが入ってくる気配がした。

「こんな真っ昼間から涼しいとこで寝てるったぁ、若ぇのにいい趣味してら……」

 含み笑いのような声が聞こえて、思わずそっちを向く。農作業中らしいおじいさんだった。

「誰かと思やぁ聡史んとこの孫か。いつもの女の子はどうした? 泣かしたか? へへ……」

 冗談に決まっているのに、隠しごとがバレたような気になる。

「や、泣かしちゃないですっ。今日はたまたま、僕だけ……」

「ほぉん。まぁ男だら一人になりてぇ時もあるわな。あんな可愛い子と一緒ならな」

「おじいちゃん、それセクハラっていうんですよ」

「知らん、麦茶くれ。それ飲むためだけに来たんだわ」

 苦笑しながら注いでやる。一気に飲み干すと、満足気な顔で本当に帰ってしまった。ほんの一分程度。こんなこともあるか、と思いながら、また寝転がって目をつむる。

それからずっと、冷房の音しか聞こえない室内で、目蓋の裏を眺めていた。十分、二十分は優に過ぎて、だんだんと意識が急転直下を繰り返す。遠くの方で、また扉の開く音がした。

「あっつ……」

 絞り出すような声。もはや誰だか分からない。無視しながら、また意識を別に向ける。

 ……けれど、なぜか落ち着かない。誰かの前で寝ようとしているせいだろうか。喉も乾いてきたし、ひとまず起き上がろう、と、目を開け──たところで、反射的にのけぞる。

「わっ……!」

「ひゃっ……⁉ いや、人の顔を見といて驚くとかないやろ……」

「……人の寝顔を眺めるのもそれはそれでないでしょ」

間近で見えた凪の顔が、一瞬だけ脳裏に焼き付いた。妙な恥ずかしさでドギマギする。

彼女は苦笑しながら溜息を吐くと、座敷に上がって足を崩した。

「っていうか、夏月が一人でおるん珍しいんな。白波はどしたん?」

「白波は……別に。家にいる」

「ふーん。いつも一緒にくっついてるんに、そんなこともあるんやね」

「まぁ」

 適当にごまかそうと麦茶を飲む。無言で手を伸ばしてきた彼女のぶんも、一緒に注いでやった。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。喉を冷やしたその余韻が、真夏の昼には心地よい。

「圭牙は?」

「モデルガンの整備」

「へぇ」

「……」

「……」

 無言。なんだか気まずい。ただでさえ白波のことで気まずいのに。

 それを察しているのか、凪も変に気を遣っているようだった。ときおり目線が合う。

「なぁ」

「うん」

「気分転換に、散歩でも行く?」

──商店で奢ってもらったラムネを飲みながら、あてもなく二人で歩く。隣に白波じゃない誰かがいるのは、とても違和感があった。その違和感も無理やり、炭酸で流し込む。けれど暑さが消えるはずもなくて、郵便局の庇の下に逃げながら、二人揃ってしゃがみこんだ。

「あっちいな……。散歩とか失敗やったかも」

「どう考えてもおかしいでしょ」

「そやね……。あはは」

 困ったような笑い顔に、建物の陰が淡く乗る。凪は頭のお団子に触れると、そのまましばらく離さなかった。落ち着きがないのは、やはり気を遣わせているからなのだろう。けれど僕自身、それを少しだけありがたく思っている。今日はこのまま乗り越えて、また後で、いつも通り──とか。……彼女の優しさに甘えるなんて、つくづく自分は最低だ。

「ラムネ、美味しいやろ」

「うん」

「お腹が空いたときは、炭酸で膨れるしな」

 指先に触れる硝子瓶の感触。少しだけ冷たくて、それが少しだけ、気持ち悪い。

 ……いや、気持ち悪いのは、自分のほう。このままで、いいのだろうか。目先のことから逃げて、現実逃避のためだけに無駄な話をして、白波に向き合うのは、いつになる?

 そうは思いながらも、まだ、動けないでいた。彼女に対峙するのがどこか怖くて、自然に話せなくなりそうで、それが嫌で、いつまでも尻込みしている。いっそのこと、凪が、僕のことを後押ししてくれればいいのに。そうすれば、行けるかもしれないのに──。

「……こんなんで気分転換になるなら、ええんやけどさ」

「……うん、ありがと」

 眩しそうに目を細めながら、凪が笑う。それがどこか無理しているように見えて、僕のほうが辛くなった。罪悪感、なのだろうか。直視できなくて、目を逸らす。入道雲が見えた。

 ……白波はあの入道雲に、どこか似ている。純白の色。奔放さ。夏空を彩る要素の一つで、いなければどこか物足りない、そんな存在。いてくれれば満足できる、そんな存在。

「ばーちゃん、こんちゃー」

 軽快な凪の声がする。ふと顔を向けると、買い物帰りらしいおばあさんが歩いてきた。

「なっちゃん、圭牙とおらんでその子と一緒なん珍しいがね」

「偶然ね、偶然。集会所でばったり会ってん」

「あぁそう。あんちゃんは、いつもの白い女の子とおらんのん?」

「まぁ……。今日はたまたま」

「なんや向こうの方でウロウロしてたで。あんちゃんのこと探してたんやないか」

「えっ……?」

 おばあさんはそう言って、集会所のほう、通りの向こう側を指さす。咄嗟にそちらを向いた。緩やかなカーブのその先を、見えるはずがないのに、しつこいほど凝視する。息が詰まって、肩が跳ねて、我に返ったような気がした。隣の凪が、無言で僕を見ている。

 ──逡巡する暇はなかった。ラムネ瓶の残りを一気に飲み干して、そのまま腰を上げる。彼女に無言で頷いてから、おばあさんにもお礼を言って、弾かれるようにその場を後にした。

歩いてきた道を遡りながら、必死に白波の姿を探す。体裁とかそんなのはどうでもよくて、身勝手な考えだけど、今はただ、彼女を一人にしておけなくなった。僕を追ってきたのなら、放ったままにしておきたくなかった。今更だけどそれが、僕の負うべき責任だと思った。

 商店を過ぎて、集会所の通りへ出る。白波の姿は見えない。そこを右手に曲がって、いつか彼女と歩いた、あの遠回りの道に入った。壁一面に張り付いた苔や蔓草が、青々とした匂いとともに爽涼の気を放つ。緩やかなカーブの先に、錆びかけのミラーが見えた。ここで白波に、寿命のことを聞いた。あそこにある東屋のところでは、白波のやりたいことを聞いた。

 彼女との思い出ばかりが見えて、肝心の本人は見つからない。高台から見下ろしたあの桟橋にも、人影は見えない。すぐに踵を返して、もと来た道を走る。炎天下を全力疾走。潮風がなびいて心地よいのに、感情はまったく治まらなかった。上り坂を気合いで乗り越えながら、今度は神社のほうへ向かう。まだ最近の話、二人きりで訪れた場所だ。

白波が転んだ階段を駆け上がりながら、勢いそのままに石段も駆け上がる。けれど彼女の姿は見えなくて、囃し立てるような、或いは煽るような蝉時雨が頭上から降り注いでいた。元気いっぱいに告げたあのお願いごとを思い出しながら、海に沈んだ港を眼下に見る。切るような呼吸は治まらなくて、肺から喉が粘っこいような気がした。暑さにふらつく身体をなんとか保たせながら、砂利のせいで滑りやすい石畳の上を、急ぎながらもゆっくりと戻る。

「あとは……」

 まだ行っていない場所を思い出すよりも早く、身体が動いていた。階段を一個飛ばしで降りる。最後の一段につまずいて、大きく身体が傾いた。咄嗟に差し出した手のひらが、滲みるような熱さを帯びる。一瞬だけひやっとしたのも忘れて、すぐに立ち上がった。

脇目もふらず、四宮家を通り過ぎる。小学校を過ぎて、役場も過ぎて、いちばん最初に寝転がった、あの電柱のところまで来ていた。それでも白波の姿は見えなくて、言いようのない焦燥感のようなものが、僕の胸臆にくすぶっていく。足を前に出したいのに、これ以上、動けない。呼吸もほとんど絶え絶えで、喉は粘液に覆われていた。朦朧としてきた意識だけを自覚しながら、なんとか落ち着けようとその場に横たわる。夏空を目蓋で遮った。

「どこだ……」

自分から逃げておいて、どれだけ僕は我儘なんだろう。あぁ、でも、白波が消えてしまえば、それもできなくなるのか──なんて、ふと思った。存在した記録だけが記されて、あとはただ、思い出として残るだけ。それもいずれ、指の間から零れる水のように、消え失せてしまうのに。だからこの我儘も、今だけは許してほしかった。今だけ。今だけだから──。

「マスター……!」

 聞き馴染みのある声が聞こえた。少し向こうで、潮風に掻き消されがちで、いつもの声とは、少し感触が違うかもしれない。けれども確かに、彼女の声だった。僕がいま、いちばん探している相手だった。……それなのに、見るのが、顔を向けるのが、怖い。ゆっくりと、おぼつかない足音を聞くごとに、心臓が破裂しそうになる。やがて日射しを遮って、それは──白波は、僕の顔を覗き込んでいるらしい。しばらく無言のまま、目蓋の裏を見つめる。

「……なんで、わざわざ探しにきたの。こんなに暑いのに」

「だって、心配でしたから」

「ほっといてくれても、良かったのにさ」

 素直じゃない。素直になれない、わけでもない。なのに僕は、そう言ってしまった。彼女はいま、どんな顔をしているだろう。どんな顔で、僕を見ているのだろう。そんな不安が脳裏をよぎる。小さな深呼吸が聞こえて、それから、あの、懐かしくて優しい声がした。

「……ほっとけません。ずっと帰ってこないマスターを心配するのは、ダメでしょうか」

 それに、と白波は続ける。

「私は怒ってるわけでもなくて、悲しんでるわけでもないです。ただ、心配なので、マスターを探しに行っただけです。……だから、お顔、隠さなくても大丈夫ですよ」

 胸の内をすべて見透かされて、それは気まずいというよりも気恥ずかしいような、そんな心地がした。少しだけ心臓が跳ねたのを気取られないようにしながら、或いは目蓋の裏に溜まった涙を零さないようにしながら、僕は恐る恐る、目を開ける。群青色の夏空と、燦々と照る日射しを遮っているのは、紛れもない彼女そのものだった。逆光で、その面持ちはよく見えない。今朝と変わらない淡々とした声だけれど、笑っている。僕には確かにそう思えた。

「起きてください。アスファルト、熱いでしょう」

 差し出された手を掴もうか、一瞬だけ迷った。人肌程度に温かい──いや、真夏の暑熱にあてられて、気怠いほどだ。その温もりを手のひらに感じながら、焼けたアスファルトから立ち上がる。刺すような陽光が目に痛くて、手のひらを抜けていく風は涼しい。

「……なんか、ごめん」

「気にしなくていいです」

 白波は小さく笑うと、それと同じくらい小さく、溜息を吐いた。

「暑いですから、早く戻りましょうか」

「……そうだね」

 何事もなかったかのように、二人で行き先を合わせる。暑い暑いと手扇で顔を扇ぎながら、アスファルトに靴音を響かせていた。そんななかで、少しだけ嬉しくなる。

 淡々としているはずの白波が、ここまで僕のために動いてくれたこと。僕の思いを知ってか知らずか、それを許してくれたこと。こんな時だからこそ分かった一種の愛情めいたものが、今はこれ以上なく嬉しかった。滲む涙を、バレないように指の腹で拭う。

 ──ただ、空いている片手が、そのぶんとても、寂しく思えてしまっていた。
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