【書籍発売中】バーン・ホワイトウェイブ ─夏の終わりに消滅した、花のような彼女─

水無月彩椰

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第二章

今日の予定、明日の予定

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なんとなく有耶無耶になって終わらせた草むしりも、帰りがけに見れば、そこそこ綺麗になっていた。それから四人は、白波を先頭にして宛てもなく歩く。ずっと続いていくのは、緩やかな下り坂。右手の少し向こうに郵便局が見えて、曲がり角のところに、駐在所がある道。

 お昼時というには、まだ早すぎる時間だった。目線よりもやや下に見える群青色の海面は、立ち昇る純白の入道雲を、淡く反射させている。やがて道幅が広がって、ガードレールが急なカーブを描いていった。桟橋へと続くあの一本道を、僕たち四人は談笑しいしい歩いていく。


「──あっ、マスター! あれですよっ」


 横並びに歩いているなかで、彼女はそこからひとつ抜け出した。緩やかな坂ばいになっているアスファルトを、小さな足が踏んでいく。身体ごと振り返った白波の指さす先には、数日前に見た桟橋が、あの急勾配の向こうに、ぽつねんと、小さく佇んでいるきりだった。


「相変わらずの坂だね……」

「私がマスターをお迎えに行った時も、やっとの思いでここを下って、必死に澄まし顔しながら上りましたからね……。二人で手を繋いだあの日が懐かしいです……」


 白波はそう言って、頬に手を添えながら恍惚の笑み。これが最近の傾向とはいえ──と呆れていると、凪と圭牙に、肘で脇腹をどつかれた。『初日からやることやってんな……』みたいな顔で見ないでほしい。誤解だってば。


「記憶の捏造じゃん、それ……」

「あっ、バレました? えへへっ」


 可愛らしくはにかみながら、白波は僕へと手を伸ばす。いきなり向けられたそれに、少しだけ身体が強ばった。白魚のように綺麗な肌を、夏の陽光が照らしている。


「でもやっぱり、おてて、繋ぎましょうよっ! 転んだら危ないですよ? ……特に、私が。痛いのは嫌です。こんな坂、私がつまづいたら、一気にこけちゃいますよ?」


 それはいかにも真っ当な、彼女らしい理由だった。差し出された手を見て、妙に身構えている自分を思うと、どこか、馬鹿馬鹿しい気持ちになる。苦笑混じりに取り返した右手の感触は、人肌程度の温もりがした。なぜだか無性に気恥ずかしくなって、誤魔化すように笑う。

 にやけ顔を隠そうともしない圭牙と凪を横目に見ながら、僕と白波は、慎重に歩を踏み出した。この坂だ、万が一にも彼女が持ち前のポンコツぶりを発揮させたとなれば、それはそれは非常に面倒臭いことになるわけで。


「……絶対に転ばないでよ」

「あっ、それってフリですか? マスターっていつからお笑い芸人になったんですかぁー? えへへっ……」


 何が面白いのかはまったく分からないけれど、ご機嫌そうな白波に歩調を揃えて、僕は歩く。歩幅二歩ぶん後ろでは、「ウチらも手ぇ繋ごかっ」と言った凪が、圭牙に頭を叩かれていた。そこそこ軽快な良い音がした。あれがきっと、幼馴染の距離感なのだろう。微笑ましい。

 四人で横並びになって、元のように歩く。掠れた白線を踏みながら、階段を降りる時のように、慎重に、足を踏み出していく。坂のせいで、前へ前へと身体が押しやられてしまいそうだ。いっそこのまま勢い任せにして、一気に坂を下っていくのも、面白いのかもしれない──そう考えてしまうのは、もはや小学生並みの発想だろう。


「おい、凪」

「なに」

「ポンコツの手ぇ繋げ」


 圭牙の言葉に首を傾げながら、凪は目を瞬かせて白波の方を見る。無言のまま頷く彼女の面持ちは、僕が見慣れた、あの優しい笑顔だ。伸ばしかけた凪の手に、着物のたもとが少しだけ触れる。お互いに指先を絡めていた。


「よし」

「……へっ? わっ──!」


 圭牙に腕を掴まれて、途端に凪が素っ頓狂な声を上げる。さっきは露骨に嫌がっていたのに、どうして──と思った矢先、いきなり身体が引っ張られた。咄嗟のことで踏ん張りも効かないまま、なぜか先頭を駆け出した圭牙の背中を必死に追う。この速さではもう止まれない。


「ちょちょちょちょっ……! お前はなにやっとん!?」

「圭牙ぁ、早すぎますってぇ……!」

「ちょっ、止まって……」


 腕を引かれながら急勾配を駆け下りる。途中で踏ん張ろうとしたけれど、すぐに無理だと悟った。額の汗が前髪に張り付いて、吹き付ける潮風は爽涼の気をはらんでいる。一気に拍動するその音を聞く余裕もないまま、僕たちは先頭を走る圭牙に腕を引かれ続けた。立ち止まれない。かといってこのまま走り続ければ海に落ちる。


「アンタっ……頭イカれた小学生か!? 落ちるで!」

「楽しいからいいだろ、このまま落ちるぜっ!」

「おぉー……なんだか楽しくなってきましたっ!」

「白波の阿呆っ、そんなこと言ってる場合やない……!」


 そうこう言っているうちに桟橋が近付いてきた。上からずっと走ってきたせいで足が痛い。落ちても上がれるくらいの高さだから、この際もう落ちてしまってもいいんじゃないか、なんて考えが頭をよぎる。落ちる? 踏みとどまる? 木組みの床を踏みかけて、ようやく決めた。


「ほら、一気に飛べっ!」

「あーもう、しゃあないなっ!」

「大ジャンプですねっ……えいっ!」


 ──何が起きても、夏のせいにすればいい。圭牙の掛け声につられて、咄嗟に高く足を上げる。桟橋から爪先が離れた。潮風を身体ごと切っていく。浮遊感。海面は真夏の陽光に煌めいて、青かった。入道雲は白い。汗に吹き付ける風が涼しい。このまま飛べそうな気がした。

 地面を蹴った余韻がやがて、足の先から融けていく。絡めていた手の感触が、少しずつ指先から離れていく。流石にそうか、飛べはしない──けれど不思議と心地よい。爪先に沁みる海水の冷たさが、身体を覆っていった。いま僕たちは、どうやら海に飛び込んだらしい。

 ──呼吸が止まる。泡沫のような息が漏れる。瞑った目蓋の表面を、水と泡が撫でていく。浮かぶ髪と服の感触、指先が掻くその重さが、今はどこか心地よい。目蓋を開けると、目が滲みた。ほんの一瞬、しかしボヤけた情景に、僕は思わず息を呑む。水面に煌めく夏の白、あの爛々とした眩しさを、その手のなかに収めたくなった。どこか感じる懐かしさ。僕はきっと、覚えている。


「──っ、はぁ……!」


 何も分からないまま、勢いに任せて浮上した。酸素が肺を満たしていく。空気の綺麗さと新鮮さが、今はどこか分かるような気がした。しかしそれも、潮の匂いにだんだんと掻き消されがちになって、やがて波音に消えていく。肌につく髪を拭おうと、頭を思い切り振った。

 真夏の陽光は、眩しかった。瞳を焼くようなそれに、僕は思わず目を細める。さっき見た白い眩しさは、きっとこれに違いない。幼少期の思い出が一瞬だけ浮かんだような気がして、けれど、いつの間にか霧散した。


「──ねぇねぇ! マスター、これ楽しいですねっ!」


 全身びしょ濡れになって、それでも心から楽しそうに、白波は笑っていた。桟橋の近くを浮いているブイに掴まりながら、手の甲で目元の雫を拭っている。それからふと、その群青色の瞳で、果てしもなく広い空を見上げた。眩しそうに目を細めながら、また笑い声を洩らす。


「なんだか──夏休みって感じ、ですねっ」





 それから僕たちは桟橋に上がって、全身ずぶ濡れになったまま、炎天の下でずっと乾かし続けていた。連絡船は、朝と夕方の二便しかない。それをいいことに、元から誰も来ないところを、占領し続けていた。それはどこか秘密基地のようで、ちょっとした楽しさがある。


「……馬鹿みてぇに何かやるのも、意外と楽しいだろ」


 僕の隣で寝そべっていた圭牙が、陽の眩しさに目を細めながら呟いた。だから余計に、人相が悪く見える。少し向こうでお互いに髪を乾かしあっている凪と白波を横目に見てから、ひとまず彼の話に耳を傾けようとした。


「初めて会った時からは、少し変わったからな。そこそこ慣れてきたか? 凪も言ってたが、生意気になった」

「……別に生意気にはなってないけど、おかげさまで、ちょっと慣れた。最初は圭牙のこと、見た目が怖い人だと思ってた、けど……意外といいやつ。関心した」

「怖ぇやつほど優しいもんだ。覚えとけ」

「……ありがと」


 彼から目を逸らしながら、僕ははにかむ。波が打ち寄せて、その音だけが規則的に聞こえていた。泡沫のように、細やかに──この群青色の夏空へと吸い込まれていく。少し向こうに、入道雲。それは一種の虚無だった。


「明日はなにやるか、決めたか?」


 口元に笑みをたたえながら、圭牙は言う。とても楽しそうだな、と素直に思った。たとえ世界がどんな状況でも、夏休みは夏休み。そこはまったく変わらない。使い切れそうにもない時間を前にして、何をしようかとか、何がしたいかを考えるのが、いちばん楽しいのだろう。

 けれど夏休みはいつか終わる。当たり前の話だ。ずっと続くようにも錯覚してしまうけれど、一ヶ月なんて、案外すぐに浪費してしまう。そのなかでどれだけ有意義に、いわば思い出を積み重ねられるのか──。白波と過ごす最後の夏休みだからこそ、そんなことを考えた。


「……ん、まだ微妙」

「んじゃ、適当に考えるか。それがいちばん楽しいだろ」

「うん、そうかも」

「あぁ。決まったら明日、なんかのタイミングで言い出しゃいける」

「えへへっ、楽しみだね」


 頷いて、ふと思った。ここに来てから意外と、同級生とも話せるようになっている。白波がいてくれるおかげだ。ただ、なんとなく自分も、少しだけ大胆になったような気がした。のんびりとした空気感のなかで、都市部にいる時の僕を知る人はいない。だから、ちょっとした慣れのおかげで、多少なりとも上手く付き合えている。

 それになにより、純粋に楽しめている。そのことに気付いて、嬉しくなった。少し向こうではしゃいでいる凪と白波の声が、騒がしくも微笑ましい。そう思えるだけの心のゆとりは、できているのだろう。乾きかけの服の感触を肌に感じながら、日射しの眩しさに目を細める。


「明日、なにやるか知らねぇが、楽しみにしとけ」


 いちばん楽しそうな彼に、少し親近感を覚えた。
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