14 / 35
第二章
最後の夏休み
しおりを挟む
「それじゃあ、しゅっぱーつ!」
威勢よく声を上げて、白波は右腕を空に掲げる。彼女と一緒に行く朝の散歩も、日課となりつつあった。四宮家を出てから、緩やかに下るアスファルトを道なりに進む。
今日は少し、潮風の勢いが強かった。頬を撫でて、髪の合間を抜けていく、それが残した爽涼の気を肌に感じながら、やかましい夏の眩しさを上目に見た。
──自分が十数年間、片恋に想い続けてきた相手が、まさかこの島で出会ったばかりの、バーチャル・ヒューマノイドだったなんて。しかも、祖父の遺産で、あろうことか、余命一ヶ月の、ヒューマノイドとしてはポンコツで、家事なんかとても任せておけないような、少女。
僕たちは昔、幾度かの夏休みで顔を合わせていた。けれどそれを、お互いに忘れていただけ。今はちゃんと、思い出せている。記憶の奥底に褪せてしまったセピア色なんかではなくて、色彩鮮やかに蘇る思い出として。
『過去』を振り返った僕と白波の関係は、なんとなく、曖昧なものになったような気がした。単なるマスターとヒューマノイドとしての主従関係ではなくて、幼少期の幼馴染であり、言うなれば、現在の友人でもあり、身内でもあり──しかし、かつて片想いしていただけの、恋人にまでは至らない、曖昧な関係。そう感じている。
初恋の相手と過ごす日常、そこに昔のような好意が湧いてくる──かは、自分のことながらよく分からない。好きか嫌いかでいえば、もちろん、好き。けれどそれを、異性に対する恋情と決めつけるのも、いささか早計に思えた。これは所詮、身内に対するものと似ている。
「ねぇ、マスター。今日は何をしますか?」
「白波は、何がしたい?」
「えっ? えぇー……? 質問に質問で返すんですかぁ」
あからさまな困り顔で、彼女は一度、二度、と瞬きをした。純白の髪が、ガードレール越しに見える群青色の海に、よく映えている。日射しの白い眩しさが燦燦と照りつけて、アスファルトに薄ぼけた影を映していた。
これが最後の夏休みなんだから、楽しんだ者勝ちだよ──そう言おうとして、僕は咄嗟に口を噤む。背筋のあたりに、悪寒が走ったような気がした。一瞬だけ感じた心地の悪い冷たさの、その余韻が段々と引いていく。脈拍が一気に速度を上げて、少しだけ目眩がした。
……この島に来て、白波の口から余命のことを言われた時は、ショックこそ受けても、さほど気にはしていなかったのに。なぜだか今になってようやく、彼女の余命というものが、生身の人間の死と同等に感じられた。それを意識するとやはり、胸のあたりが重苦しい。軽い吐き気すらも覚えそうだ。白波への想いがそうさせるのだとしたら、僕は相当、自分に都合の良い人間だろう。
「……いや」
「……?」
頭を振る僕に、白波は怪訝な顔をする。ときおり目蓋の上に落ちる枝葉の影が、陽光の眩しさを際立たせていた。二人分の靴音が硬く響いて、いつの間にか、掲示板の見える通りまで来てしまったらしい。「今日はちょっと、遠回りしてみよう」とだけ、付け加える。無性に、考えごとをする時間が欲しくなった。それだけだ。
「白波の余命は、あと一ヶ月くらいだよね」
「はい」
「昔、僕と一緒にいたことも、思い出したもんね」
「はいっ」
屈託のない、いつものような笑みで、彼女は笑う。それは本当にいつも通りの──事実をもとに受け答えをしているような、淡白な回答だった。こういうところは、どこかヒューマノイドらしさを感じる。自分の寿命に固執していないことも、最初から分かりきっていた。
ふと頭上を見上げると、四方に伸びていく電線が、昊天に線を引いたように映っている。視界の向こうに掛かる真白い入道雲と、足元にある横断歩道の白色は、少し似ていた。塗装の掠れたそれを踏みながら、僕と白波はまた、下り坂の狭い路地を歩いていく。見上げるほどに高い、苔の張り付いた丸石造りの石垣と、錆の浮いた落下防止のフェンス──奥のカーブミラーが低く見えた。
「……白波は、自分の寿命について、どう思ってる?」
「寿命……ですか」
彼女の声が、石垣の合間に沁みていくようだった。壁一面に張り付いた苔と、蔓草と、鬱蒼とした木々に囲まれながら、右手に折れていく緩やかなカーブを曲がる。そこを抜け切って次のカーブミラーが見えてきた頃に、白波は小さく呟いた──ように聞こえた。潮風が枝葉を揺らしたその騒めきに、掻き消されたのかもしれない。
「特に、なんとも思っていません。それは私だけではなく、ヒューマノイド全てに与えられた、絶対の宿命ですので。だから、私もそれに従うだけですね」
「……そう」
そこからは、ずっと無言だった。右手に連なるアパートや民家、軒先の木々を横目に、先の長い、緩やかな下り道を進んでいく。やがてその民家も、鬱蒼と茂った蔓草と木立に隠されていった。下りきるところまで下りていくと、青青とした土草の匂いに紛れて、海の匂いもする。広大な太平洋を遮るものは、何も無かった。道なりに伸びていくガードレールが、鮮やかに白い。
右手は、まだまだ下り坂が続いていた。あの一本道をそのまま進んでいけば、やがて桟橋に着く。左手には、ちょっとした東屋──ベンチと屋根が備わっているだけの、簡素な休憩スペースとでもいえばいいのだろうか──が建ててあった。何がなしに、そこへ向かう。落下防止用の柵に手をつきながら、あたりを眺めてみた。ここも高台だけあって、見晴らしはかなりのものだ。
夏という名前のインクがあったなら、きっとそれは、こんな感じの群青色なのだろう。潮風に靡いて、波間の揺らめきがよく見える。海中に沈んだ港の名残──堤防やテトラポット、そこに射し込む陽光の白、目蓋を焼いていく眩しさが、いかにも夏らしい気がした。どこか退廃的で、けれどもその美しさに、見蕩れてしまっていた。
水位を上げた海面のせいで、護岸用のコンクリートに打ち付ける波の音が、よく聞こえる。泡沫のように弾けては消えていく白波の儚さが、脳裏をよぎった。肌に感じる蒸し暑さも、潮の匂いが消していく。燦燦と降る炎陽の視線を浴びて、入道雲は眩さを増していた。
「……夏、ですね」
僕の隣で景色を眺めていた白波が、小さく零す。考えていることは同じなんだな、と、不意に思った。
「ねぇ、マスター。私、やりたいことができました。……我儘ですけど、聞いてもらっていいですか?」
「いいよ、なんでも。白波のしたいことをやろう」
彼女は小さく頷くと、それから何度か深呼吸をした。嬉しさを押し殺したような、けれども隠しきれていない笑みが、目元を綻ばせている。いつものように笑ってほしい気がしたけれど、これもこれで、ありかもしれない。白波はやがて、その群青色の瞳で、僕を見上げた。
「──これが最後の夏休みなので、せめて、この夏休みを楽しく過ごせたら嬉しいです」
だって、と彼女は続ける。
「今の私は、昔よりもずっとずっと、自由ですから」
威勢よく声を上げて、白波は右腕を空に掲げる。彼女と一緒に行く朝の散歩も、日課となりつつあった。四宮家を出てから、緩やかに下るアスファルトを道なりに進む。
今日は少し、潮風の勢いが強かった。頬を撫でて、髪の合間を抜けていく、それが残した爽涼の気を肌に感じながら、やかましい夏の眩しさを上目に見た。
──自分が十数年間、片恋に想い続けてきた相手が、まさかこの島で出会ったばかりの、バーチャル・ヒューマノイドだったなんて。しかも、祖父の遺産で、あろうことか、余命一ヶ月の、ヒューマノイドとしてはポンコツで、家事なんかとても任せておけないような、少女。
僕たちは昔、幾度かの夏休みで顔を合わせていた。けれどそれを、お互いに忘れていただけ。今はちゃんと、思い出せている。記憶の奥底に褪せてしまったセピア色なんかではなくて、色彩鮮やかに蘇る思い出として。
『過去』を振り返った僕と白波の関係は、なんとなく、曖昧なものになったような気がした。単なるマスターとヒューマノイドとしての主従関係ではなくて、幼少期の幼馴染であり、言うなれば、現在の友人でもあり、身内でもあり──しかし、かつて片想いしていただけの、恋人にまでは至らない、曖昧な関係。そう感じている。
初恋の相手と過ごす日常、そこに昔のような好意が湧いてくる──かは、自分のことながらよく分からない。好きか嫌いかでいえば、もちろん、好き。けれどそれを、異性に対する恋情と決めつけるのも、いささか早計に思えた。これは所詮、身内に対するものと似ている。
「ねぇ、マスター。今日は何をしますか?」
「白波は、何がしたい?」
「えっ? えぇー……? 質問に質問で返すんですかぁ」
あからさまな困り顔で、彼女は一度、二度、と瞬きをした。純白の髪が、ガードレール越しに見える群青色の海に、よく映えている。日射しの白い眩しさが燦燦と照りつけて、アスファルトに薄ぼけた影を映していた。
これが最後の夏休みなんだから、楽しんだ者勝ちだよ──そう言おうとして、僕は咄嗟に口を噤む。背筋のあたりに、悪寒が走ったような気がした。一瞬だけ感じた心地の悪い冷たさの、その余韻が段々と引いていく。脈拍が一気に速度を上げて、少しだけ目眩がした。
……この島に来て、白波の口から余命のことを言われた時は、ショックこそ受けても、さほど気にはしていなかったのに。なぜだか今になってようやく、彼女の余命というものが、生身の人間の死と同等に感じられた。それを意識するとやはり、胸のあたりが重苦しい。軽い吐き気すらも覚えそうだ。白波への想いがそうさせるのだとしたら、僕は相当、自分に都合の良い人間だろう。
「……いや」
「……?」
頭を振る僕に、白波は怪訝な顔をする。ときおり目蓋の上に落ちる枝葉の影が、陽光の眩しさを際立たせていた。二人分の靴音が硬く響いて、いつの間にか、掲示板の見える通りまで来てしまったらしい。「今日はちょっと、遠回りしてみよう」とだけ、付け加える。無性に、考えごとをする時間が欲しくなった。それだけだ。
「白波の余命は、あと一ヶ月くらいだよね」
「はい」
「昔、僕と一緒にいたことも、思い出したもんね」
「はいっ」
屈託のない、いつものような笑みで、彼女は笑う。それは本当にいつも通りの──事実をもとに受け答えをしているような、淡白な回答だった。こういうところは、どこかヒューマノイドらしさを感じる。自分の寿命に固執していないことも、最初から分かりきっていた。
ふと頭上を見上げると、四方に伸びていく電線が、昊天に線を引いたように映っている。視界の向こうに掛かる真白い入道雲と、足元にある横断歩道の白色は、少し似ていた。塗装の掠れたそれを踏みながら、僕と白波はまた、下り坂の狭い路地を歩いていく。見上げるほどに高い、苔の張り付いた丸石造りの石垣と、錆の浮いた落下防止のフェンス──奥のカーブミラーが低く見えた。
「……白波は、自分の寿命について、どう思ってる?」
「寿命……ですか」
彼女の声が、石垣の合間に沁みていくようだった。壁一面に張り付いた苔と、蔓草と、鬱蒼とした木々に囲まれながら、右手に折れていく緩やかなカーブを曲がる。そこを抜け切って次のカーブミラーが見えてきた頃に、白波は小さく呟いた──ように聞こえた。潮風が枝葉を揺らしたその騒めきに、掻き消されたのかもしれない。
「特に、なんとも思っていません。それは私だけではなく、ヒューマノイド全てに与えられた、絶対の宿命ですので。だから、私もそれに従うだけですね」
「……そう」
そこからは、ずっと無言だった。右手に連なるアパートや民家、軒先の木々を横目に、先の長い、緩やかな下り道を進んでいく。やがてその民家も、鬱蒼と茂った蔓草と木立に隠されていった。下りきるところまで下りていくと、青青とした土草の匂いに紛れて、海の匂いもする。広大な太平洋を遮るものは、何も無かった。道なりに伸びていくガードレールが、鮮やかに白い。
右手は、まだまだ下り坂が続いていた。あの一本道をそのまま進んでいけば、やがて桟橋に着く。左手には、ちょっとした東屋──ベンチと屋根が備わっているだけの、簡素な休憩スペースとでもいえばいいのだろうか──が建ててあった。何がなしに、そこへ向かう。落下防止用の柵に手をつきながら、あたりを眺めてみた。ここも高台だけあって、見晴らしはかなりのものだ。
夏という名前のインクがあったなら、きっとそれは、こんな感じの群青色なのだろう。潮風に靡いて、波間の揺らめきがよく見える。海中に沈んだ港の名残──堤防やテトラポット、そこに射し込む陽光の白、目蓋を焼いていく眩しさが、いかにも夏らしい気がした。どこか退廃的で、けれどもその美しさに、見蕩れてしまっていた。
水位を上げた海面のせいで、護岸用のコンクリートに打ち付ける波の音が、よく聞こえる。泡沫のように弾けては消えていく白波の儚さが、脳裏をよぎった。肌に感じる蒸し暑さも、潮の匂いが消していく。燦燦と降る炎陽の視線を浴びて、入道雲は眩さを増していた。
「……夏、ですね」
僕の隣で景色を眺めていた白波が、小さく零す。考えていることは同じなんだな、と、不意に思った。
「ねぇ、マスター。私、やりたいことができました。……我儘ですけど、聞いてもらっていいですか?」
「いいよ、なんでも。白波のしたいことをやろう」
彼女は小さく頷くと、それから何度か深呼吸をした。嬉しさを押し殺したような、けれども隠しきれていない笑みが、目元を綻ばせている。いつものように笑ってほしい気がしたけれど、これもこれで、ありかもしれない。白波はやがて、その群青色の瞳で、僕を見上げた。
「──これが最後の夏休みなので、せめて、この夏休みを楽しく過ごせたら嬉しいです」
だって、と彼女は続ける。
「今の私は、昔よりもずっとずっと、自由ですから」
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness
碧井夢夏
ライト文芸
<第五回ライト文芸大賞 最終選考・奨励賞>
住宅街とオフィスビルが共存するとある下町にある定食屋「まなべ」。
看板娘の利津(りつ)は毎日忙しくお店を手伝っている。
最近隣にできたコーヒーショップ「The Coffee Stand Natsu」。
どうやら、店長は有名なクリエイティブ・ディレクターで、脱サラして始めたお店らしく……?
神の舌を持つ定食屋の娘×クリエイティブ界の神と呼ばれた男 2人の出会いはやがて下町を変えていく――?
定食屋とコーヒーショップ、時々美容室、を中心に繰り広げられる出会いと挫折の物語。
過激表現はありませんが、重めの過去が出ることがあります。
独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。
演じる家族
ことは
ライト文芸
永野未来(ながのみらい)、14歳。
大好きだったおばあちゃんが突然、いや、徐々に消えていった。
だが、彼女は甦った。
未来の双子の姉、春子として。
未来には、おばあちゃんがいない。
それが永野家の、ルールだ。
【表紙イラスト】ノーコピーライトガール様からお借りしました。
https://fromtheasia.com/illustration/nocopyrightgirl

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
今日はパンティー日和♡
ピュア
ライト文芸
いろんなシュチュエーションのパンチラやパンモロが楽しめる短編集✨
おまけではパンティー評論家となった世界線の崇道鳴志(*聖女戦士ピュアレディーに登場するキャラ)による、今日のパンティーのコーナーもあるよ💕
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる