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第一章
やっぱり、残念
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午後二時に差し掛かった頃、僕たちは冷房だけが効いている無人の集会所で、涼をとっていた。日に焼けてすり減った畳敷きの、その四畳半の小上がりに、四人ぶんの座布団が並んでいる。磨硝子には、燦々と照りつける日射しが透けていた。模様のひとつひとつが陰影を伴って、何色だかもよく分からない光が、乱反射している。
「十人近くあたったのに、駄目なんですねぇ……。マスターの初恋の人って、他に宛てはないんですか?」
「これで島にいるやつの心当たりは全員だ。ここまでやって見つからないなら、島を出てるやつなのかもな」
「島を出てるとなると、会うんは難しいなぁ……。心当たりのある人に、連絡するくらいはできるやろうけど」
ヤカンから注いだセルフサービスの麦茶は、少しだけ常温に近かった。二杯目になるそれを飲みながら、白波たちの話を無言で聞く。冷房の風が、首筋に冷たく沁みていった。さっき、親指の腹で汗を拭ったところだ。血の気が引く時のような、あの、嫌な感覚に似ている。
「マスター、残念ですね……」
「まぁね。時間も経ってるし、仕方ないもん」
「……諦められる、んですか?」
少しだけ意外そうに目を見開いて、白波は僕を見つめる。圭牙と凪も、無言のまま、こちらに視線を寄越していた。冷房の駆動音だけが、四畳半の静寂を掻き消している。またもやグラスに口を付けながら、僕は続けた。
「所詮、遠い昔の初恋だからね。いま、とても好きな人がいたとして……その人を探しても探しても見つけられなかったら、ちょっと、残念。時間って、そういうものだよ。できれば会いたいけど、それが無理だったら、どうせ昔のことだって割り切れる。元々、想定はしてた」
──というのは、僕なりの見栄なのだろうか。話すごとに胸が締め付けられていくような、嫌な感覚がする。無自覚の強がりに、心が耐えられていないのだろうか。いや、でも、仕方がないはずだ。会えないものは、会えない。僕だって、子供じゃない。それくらいは分かる。
けれど、結局──さっきからこうして踏ん切りをつけようとしているはずなのに、なぜか、白波のことが頭から離れなかった。白波は彼女に、とても似ている。たったそれだけのことが、否、それほどのことだからこそ、だろうか。冷静に考えれば、候補にすらも入らないような彼女のことを、必要以上に特別視してしまっている。
畳に視線を落としている彼女の顔を、横目で一瞥した。僕はこの少女に、きっと、初めて会った時から、初恋のあの人を、どこかに重ねていたのかもしれない。それで、知らず知らずのうちに、無駄な意識をしていたのだろう。だから、ありもしない可能性を、平然と考えるようになった。名前も知らない初恋の相手と、バーチャル・ヒューマノイドの白波とは、完全に別人だ。
「ふー……」
冷静になって、少しだけ踏ん切りがつく。胸臆にとぐろを巻いていた、蛇のような心地の悪さも、いつの間にかほとんど消え失せている。一種の悪しき緊張感から解放されたのか、勢い喉が渇いてきた。グラスの残りを一気に飲み干して、三杯目。水の跳ねる音が耳に涼しい。
──頬杖をついて、思わず、声が洩れる。
「やっぱり、残念だなぁ……」
「はぁーっ? ふふっ……なんや夏月、未練タラタラやん! 自分で言っといて笑ってるの分かってるんか?」
「わっ、びっくりした……」
凪は座卓に手をついて、勢いそのまま立ち上がった。グラスのなかを満たした麦茶が、一瞬だけ、透明な壁を這って高波になる。その名残が、小さく揺らめいていた。霞むように淡い光の影を、卓の上に落としている。
「いや、でも……ほら、ね?」
「分かる……いや、分かるけど! ウチやってそれくらい分かるけど!! あれだけ『心の整理はつきました』みたいなこと言っといて自分の考え曲げんなや……」
「お前、意外に男気あると思ったら、ねぇのな……」
二人に呆れられてしまった。まぁ、僕のせいだ。照れ隠しの苦笑をしながら、隣に座る白波を見る。彼女は何も言わずに、いつものような笑顔で笑い返してくれた。
溜息混じりで、凪はどこか不服そうに座り直す。その瞬間に何かを思いついたのか、やにわに「あっ!」と手を叩いて、またもや勢いそのままに立ち上がった。「いま座ったところだろ」と、すかさず圭牙が呟く。それを完全に無視して、彼女はお得意のお喋りを始めだした。
「だったらウチらが、夏月のしょうもないひび割れた恋心を治してやればいいやん! 初恋のお姉さんなんてすっかり忘れちゃって、ウチらと一緒に遊び倒そうよっ」
「……このクソあちぃのに外で遊ぶ気か。お子様かよ」
「流石に私も、暑いのは嫌いです……。今日は嫌です」
「うっ、一対二は卑怯やん……。夏月、夏月は!?」
「えっ? えっと、その……暑いのは、嫌、かな」
「うわぁぁぁ、一対三……! 負けたぁ……!」
座布団を頭に被りながら畳に突っ伏している。後頭部に結った二つのお団子が、その合間に覗いていた。それほど僕たちと遊びたかったのだろうか……。ちょっとした罪悪感が沸いてくる。個人的には、同級生と一緒にいることにも慣れたいし、白波が隣についてくれる限りは、やぶさかではない。ただ、今日は、少しだけ暑いのだ。
「えへへ、今度は凪のほうがうるさいですねぇ」
「うぇっ、白波に言われるとめちゃくちゃ傷付く……」
しょんぼりとした顔で体育座りになりながら、彼女は座布団を丸めて抱きしめた。「うー……」と苦悶の唸り声を上げながら、身体を前後左右に揺らしている。行動までうるさい。夏だし、あぁいうこともやりたくなるけど。
「でもマスター、この島だともう、遊ぶ以外に何もすることないですね。遺品整理は済みましたし、初恋の方は見つかりませんでしたし。やっぱり、凪みたいに子供心に返って、毎日ずっと遊ぶのがいいのかもです」
白波は圭牙たちを一瞥しながら、独り言のように言う。それからついでだと言わんばかりに、「あ、麦茶いただきますね」と、手元に置いていた僕のグラスを奪っ──いや、拝借……した……? どうしてわざわざ僕のを……?
「……白波、お前、それ夏月のだ」
「へっ……?」
ひとくち飲んだところで、圭牙が呆れ気味に言う。一瞬だけ目を丸くした白波は、今しがた口を付けたグラスと僕とを交互に見回して、やがて我に返ったように「あぁ!」と手を叩いた。納得したらしい。凪もいつの間にか顔を上げて、キョトンとした顔で白波を見ていた。
「これは、あれですねっ。自分のものと勘違いして、他人のものに手を出してしまったパターンです。そして今回の行動、私、知ってますよっ。データベースにこれを意味する言葉があります。『関節キス』ですっ! キスはもともと、恋人間でのスキンシップとして行われますが、私とマスターはそういう関係ではありませんので、いわゆる事故ってやつですねっ。ね、マスター!」
「笑ってないで、事故ならもっと申し訳なさそうにして……。なんでそんな平然としてるの。反省して」
「……やっぱコイツ、ポンコツだろ。寿命の近いヒューマノイドは、みんなポンコツになるって言うからな」
「アホにポンコツとか言われたくありませんっ! それに私、昔はもっともっともーっとお淑やかでぇ、すっごぉく綺麗な女の子だったんですよ? そんな姿、まだマスターにしか見せられないんですけどねっ。えへへ……」
僕を上目に見ながら、にへー、と、だらしない顔で笑っている。頬も口元もゆるゆるだ。とはいえ、言ってることはあながち嘘でもない。黙っていれば綺麗だし。
「マスター、ご入用があれば、この私になんなりとお申し付けくださいっ。できる限り頑張りますよ!」
「……料理も掃除もままならないのに?」
「はいっ、それ以外で!」
呆れてしまうほどに清々しい、屈託のない笑み。もはや、本人公認のポンコツヒューマノイドだ。「それでいいのか……」と、圭牙と凪が声を揃えている。
「……それなら」
「はいっ」
「お買い物、行かない?」
「……今、ですか?」
「うん」
僕が頷くと、白波はやや思案げに視線を落とす。それから意を決したように瞬きをすると、すぐに顔を上げた。
「暑いので、まだ嫌ですっ」
遠慮も何もない、満面の笑顔だった。
「十人近くあたったのに、駄目なんですねぇ……。マスターの初恋の人って、他に宛てはないんですか?」
「これで島にいるやつの心当たりは全員だ。ここまでやって見つからないなら、島を出てるやつなのかもな」
「島を出てるとなると、会うんは難しいなぁ……。心当たりのある人に、連絡するくらいはできるやろうけど」
ヤカンから注いだセルフサービスの麦茶は、少しだけ常温に近かった。二杯目になるそれを飲みながら、白波たちの話を無言で聞く。冷房の風が、首筋に冷たく沁みていった。さっき、親指の腹で汗を拭ったところだ。血の気が引く時のような、あの、嫌な感覚に似ている。
「マスター、残念ですね……」
「まぁね。時間も経ってるし、仕方ないもん」
「……諦められる、んですか?」
少しだけ意外そうに目を見開いて、白波は僕を見つめる。圭牙と凪も、無言のまま、こちらに視線を寄越していた。冷房の駆動音だけが、四畳半の静寂を掻き消している。またもやグラスに口を付けながら、僕は続けた。
「所詮、遠い昔の初恋だからね。いま、とても好きな人がいたとして……その人を探しても探しても見つけられなかったら、ちょっと、残念。時間って、そういうものだよ。できれば会いたいけど、それが無理だったら、どうせ昔のことだって割り切れる。元々、想定はしてた」
──というのは、僕なりの見栄なのだろうか。話すごとに胸が締め付けられていくような、嫌な感覚がする。無自覚の強がりに、心が耐えられていないのだろうか。いや、でも、仕方がないはずだ。会えないものは、会えない。僕だって、子供じゃない。それくらいは分かる。
けれど、結局──さっきからこうして踏ん切りをつけようとしているはずなのに、なぜか、白波のことが頭から離れなかった。白波は彼女に、とても似ている。たったそれだけのことが、否、それほどのことだからこそ、だろうか。冷静に考えれば、候補にすらも入らないような彼女のことを、必要以上に特別視してしまっている。
畳に視線を落としている彼女の顔を、横目で一瞥した。僕はこの少女に、きっと、初めて会った時から、初恋のあの人を、どこかに重ねていたのかもしれない。それで、知らず知らずのうちに、無駄な意識をしていたのだろう。だから、ありもしない可能性を、平然と考えるようになった。名前も知らない初恋の相手と、バーチャル・ヒューマノイドの白波とは、完全に別人だ。
「ふー……」
冷静になって、少しだけ踏ん切りがつく。胸臆にとぐろを巻いていた、蛇のような心地の悪さも、いつの間にかほとんど消え失せている。一種の悪しき緊張感から解放されたのか、勢い喉が渇いてきた。グラスの残りを一気に飲み干して、三杯目。水の跳ねる音が耳に涼しい。
──頬杖をついて、思わず、声が洩れる。
「やっぱり、残念だなぁ……」
「はぁーっ? ふふっ……なんや夏月、未練タラタラやん! 自分で言っといて笑ってるの分かってるんか?」
「わっ、びっくりした……」
凪は座卓に手をついて、勢いそのまま立ち上がった。グラスのなかを満たした麦茶が、一瞬だけ、透明な壁を這って高波になる。その名残が、小さく揺らめいていた。霞むように淡い光の影を、卓の上に落としている。
「いや、でも……ほら、ね?」
「分かる……いや、分かるけど! ウチやってそれくらい分かるけど!! あれだけ『心の整理はつきました』みたいなこと言っといて自分の考え曲げんなや……」
「お前、意外に男気あると思ったら、ねぇのな……」
二人に呆れられてしまった。まぁ、僕のせいだ。照れ隠しの苦笑をしながら、隣に座る白波を見る。彼女は何も言わずに、いつものような笑顔で笑い返してくれた。
溜息混じりで、凪はどこか不服そうに座り直す。その瞬間に何かを思いついたのか、やにわに「あっ!」と手を叩いて、またもや勢いそのままに立ち上がった。「いま座ったところだろ」と、すかさず圭牙が呟く。それを完全に無視して、彼女はお得意のお喋りを始めだした。
「だったらウチらが、夏月のしょうもないひび割れた恋心を治してやればいいやん! 初恋のお姉さんなんてすっかり忘れちゃって、ウチらと一緒に遊び倒そうよっ」
「……このクソあちぃのに外で遊ぶ気か。お子様かよ」
「流石に私も、暑いのは嫌いです……。今日は嫌です」
「うっ、一対二は卑怯やん……。夏月、夏月は!?」
「えっ? えっと、その……暑いのは、嫌、かな」
「うわぁぁぁ、一対三……! 負けたぁ……!」
座布団を頭に被りながら畳に突っ伏している。後頭部に結った二つのお団子が、その合間に覗いていた。それほど僕たちと遊びたかったのだろうか……。ちょっとした罪悪感が沸いてくる。個人的には、同級生と一緒にいることにも慣れたいし、白波が隣についてくれる限りは、やぶさかではない。ただ、今日は、少しだけ暑いのだ。
「えへへ、今度は凪のほうがうるさいですねぇ」
「うぇっ、白波に言われるとめちゃくちゃ傷付く……」
しょんぼりとした顔で体育座りになりながら、彼女は座布団を丸めて抱きしめた。「うー……」と苦悶の唸り声を上げながら、身体を前後左右に揺らしている。行動までうるさい。夏だし、あぁいうこともやりたくなるけど。
「でもマスター、この島だともう、遊ぶ以外に何もすることないですね。遺品整理は済みましたし、初恋の方は見つかりませんでしたし。やっぱり、凪みたいに子供心に返って、毎日ずっと遊ぶのがいいのかもです」
白波は圭牙たちを一瞥しながら、独り言のように言う。それからついでだと言わんばかりに、「あ、麦茶いただきますね」と、手元に置いていた僕のグラスを奪っ──いや、拝借……した……? どうしてわざわざ僕のを……?
「……白波、お前、それ夏月のだ」
「へっ……?」
ひとくち飲んだところで、圭牙が呆れ気味に言う。一瞬だけ目を丸くした白波は、今しがた口を付けたグラスと僕とを交互に見回して、やがて我に返ったように「あぁ!」と手を叩いた。納得したらしい。凪もいつの間にか顔を上げて、キョトンとした顔で白波を見ていた。
「これは、あれですねっ。自分のものと勘違いして、他人のものに手を出してしまったパターンです。そして今回の行動、私、知ってますよっ。データベースにこれを意味する言葉があります。『関節キス』ですっ! キスはもともと、恋人間でのスキンシップとして行われますが、私とマスターはそういう関係ではありませんので、いわゆる事故ってやつですねっ。ね、マスター!」
「笑ってないで、事故ならもっと申し訳なさそうにして……。なんでそんな平然としてるの。反省して」
「……やっぱコイツ、ポンコツだろ。寿命の近いヒューマノイドは、みんなポンコツになるって言うからな」
「アホにポンコツとか言われたくありませんっ! それに私、昔はもっともっともーっとお淑やかでぇ、すっごぉく綺麗な女の子だったんですよ? そんな姿、まだマスターにしか見せられないんですけどねっ。えへへ……」
僕を上目に見ながら、にへー、と、だらしない顔で笑っている。頬も口元もゆるゆるだ。とはいえ、言ってることはあながち嘘でもない。黙っていれば綺麗だし。
「マスター、ご入用があれば、この私になんなりとお申し付けくださいっ。できる限り頑張りますよ!」
「……料理も掃除もままならないのに?」
「はいっ、それ以外で!」
呆れてしまうほどに清々しい、屈託のない笑み。もはや、本人公認のポンコツヒューマノイドだ。「それでいいのか……」と、圭牙と凪が声を揃えている。
「……それなら」
「はいっ」
「お買い物、行かない?」
「……今、ですか?」
「うん」
僕が頷くと、白波はやや思案げに視線を落とす。それから意を決したように瞬きをすると、すぐに顔を上げた。
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