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最終話
鏡鑑の夏と、曼珠沙華
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──僕の夏休みは、それで終わった。なんとなく居心地が悪くなって、逃げるように実家へ戻った。路傍の曼珠沙華は満開だったはずなのに、それでもいつの間にか、枯れていった。
他より遅れて学校に行った。授業中はずっと、小説のことばかり考えていた。やがて期末試験の時期になっても、勉強する気にはならなくて──ちょうどその頃、冒頭を書き始めた。
あれだけ熱心に綴ったはずの日記帳は、一度も開く気分にならなかった。九月五日、実家に帰る途中の、誰もいないバスのなかで、茫然としながら書いたのだけは覚えている。
僕とあやめは二度、夏を繰り返した。そして僕だけは、三度目の夏を繰り返している。四年越しの再会を、懐かしむように──或いは、椎奈あやめという少女そのものを、供養するように。あの日に交わした口約束に従ったまま、冬を越して、春を迎えて、初夏を喜んだ。
進級した先の環境に慣れた頃、僕はようやく、まともに一作品を書き上げた。あと必要だったのは、去年から時間が止まったままの、あの村に戻るだけの、覚悟そのものだった──。
◇
『彩織ちゃん、今年の夏休みはいつ来るん?』
夏休みの時期になって、小夜から連絡が来た。それまでにも何回か会ったりはした。その時に連絡先を交換して、お互いに近況報告をするようになって──まるで、あやめのいない寂しさを紛らわすような、或いは彼女の言いつけを守っているような、そんな付き合いだった。
自分でも驚くほど、小夜には素直になれた。小夜にしか言えないことが多かった。
村に戻るのが怖い理由。それは、自分が今でも、心のどこかで夢を見ているから。あやめはもういないという、その現実を直視するのが怖いから。自分にとって村に戻るということは、あやめに会うことと同じだから。それから目を背けるために、一年間を過ごしてきた。
ただ、それと同じくらい、彼女に伝えたいこともあった。書き上げられた小説のこと。進級した先でも、上手くやれている学校の話。小夜とはしっかり仲良くしているという証明。
そんな僕の背中を押すように、連絡の内容は続く。
『一緒に、あやめちゃんのお墓参り、行こう』
◇
少しだけ小ぶりなスーツケースに着替えを詰めて、けれど、意外に荷物はかさばらなかった。夏休みの課題と、あとは貴重品。肩にかけたトートバッグには、日記帳とペンと諸々が入っているだけ。去年から一度も開いていないのに、けれど、持っていくべきだと、そう思ったから。
──誰も乗っていない電車の車内は、寒すぎるほどに冷房が効いていた。扉にいちばん近い角席に座りながら、表面が冷えた手すりを握りつつ、延々と左右に揺られ続ける。窓の向こうには青々とした田んぼと山ばかりで、あとは、紺青の夏空と入道雲が、ひたすら眩しかった。
鬱陶しい吊り革と、褪せた広告に目が滑る。その傍らで、見慣れた景色が近づいていく。思わず席を立ち上がって、じっと窓の向こうを見た。村の外れ、高台のところに、家が一つ。そう思う間に、すぐ踏切を過ぎた。住宅地。駅舎の屋根。ブレーキが掛かって、よろめく。
「あっ」
プラットフォームに人影が見えた。スーツケースを力任せに引きながら、開きかけの扉に合わせて歩き始める。少女は僕に気付くと、よれたシャツで汗を拭いながら手を振ってきた。
「やっほー、元気やった?」
「うん。わざわざ迎えに来てくれたの?」
「そうっ。暑いんに一人で歩きたかないやろ」
小夜はそう笑うと、ポケットから出した塩分チャージのタブレットを分けてくれる。ホットパンツ姿にサンダルを履いたままというのも、相変わらず変わっていない。燦々と降り注ぐ炎陽の暑さにはお似合いで、この感覚も久しぶりだと、無性に懐かしいような気がした。
「……酸っぱ。こんなに酸っぱかったっけ」
「意外とそんなもんやよ。たまに食べるとさっ」
「待合室で冷房と扇風機回ってるから、ちょっと涼んでかん?」と言われて、僕はそのまま駅舎に入る。去年とは打って変わって、馬鹿みたいに冷えていた。陽が射さない窓硝子の向こうは相変わらず誰もいないけど、蛍光灯も、冷房も、扇風機も、みんな稼働している。
「あやめちゃんと来た時は、暑い暑いって文句言われたのにな……」
「ふふっ、今なら絶対に『すずしーっ!』って騒ぐで」
小夜と顔を見合わせて笑いながら、あやめと一緒に座った、プラスチック製の青椅子に腰掛ける。ふと壁を見ると、あのローカル線の広告ポスターはまだ残っていた。『夏休みの過ごし方。』とだけ書かれたそれに、『お似合いだね』と笑った、あの屈託のない笑顔がよぎる。
「……それ、去年も持ってた日記帳?」
小夜はトートバッグのなかを覗き込みながら、少しだけ驚いたように眉を上げた。まぁね、と答えて、ずっと開かずにいたそれを手に取る。見るだけでも記憶が鮮明に思い返せるから、とにかく目のつかないところに押し込んでいた。だけど、今回も持っていきたくなった。
「ウチが見てもいい?」
「小夜になら、いいよ」
こんなもの、あやめと彼女以外には見せられない。かといって、ずっと取っておくのもおかしい気がするし、逆に、処理するのもはばかられた。これを思い出に昇華することができない限り、ずっとこのままなのだろう。そんな僕の隣で、小夜は懐かしむようにページを開く。
「……そういや、あやめちゃん、目ぇ見えなかったんやっけ」
「うん。見えるようになったのが、成仏する五日前」
「なんでわざわざ教えてくれたん? 黙ってても良かったやん」
横目で僕を見ながら、小夜は探り込むように問いかけてきた。
「大した理由じゃないよ。ただ、あやめちゃんに言われたんだ。僕が書く小説のヒロインをあの子にしたいって言った時、『脚色しないで』って……。だから、小夜にも本当のことは言っておこうってさ。こういうことがあったんだって、一応、知ってもらいたかっただけだよ」
「……彩織ちゃんも辛いはずなんにさ、それをしっかり書いて、ウチにもちゃんと教えてくれて。あやめちゃんもあやめちゃんで、真っ直ぐな生き方してて……凄いなぁ、本当」
「その原稿もさ、今日、ちゃんと持ってきたんだよ。あやめちゃんに読ませてあげようって。あとで小夜にも読んでほしい。そのために、夏休みの早いうちから泊まりに来たんだもん」
「そういうことなら、楽しみにしとくわ。まずはお墓参りが先やけどな」
小さく笑って、小夜はまた日記帳に視線を落とす。八月三十一日。九月一日。二日。三日。四日。何を書いたかは、だいたい覚えていた。白いページのところどころに、乾いた涙の跡がある。彼女はそこから途切れた後ろのページをめくると、「白紙なんや」と呟いた。
「……あれ、待って、なんかあるやん」
「なにが?」
「いや、本当に後ろのほう。書いてある」
そう言って日記帳を手渡される。咄嗟に息が詰まるような感覚と、早鐘を打ち始めた心臓が痛いのも自覚しながら、汗ばんだ肌に沁みる冷気の、その冷たさを煩わしく思う。ページをつまんだ指の腹は、嫌な湿気に包まれていた。丸みを帯びた染みが、また一つ、そこに増える。
『彩織ちゃんへ。いつこの文を読むか分からないけど、書きたいと思ったから書いたよ。今は九月三日の夜。彩織ちゃんが寝たあとに、こっそり書いてるの。なんか悪いことしてる感じっ。』
「いつの間に……」
自然と続きに視線が向く。読みたくないような、読みたいような──とにかく、緊張とも恐れとも取れない何かに苛まれて、これがきっと、現実に向き合うための覚悟だというなら、しっかり受け入れようと思った。戻ってきたからには、清算しなければ終われないのだから。
『八月二十五日。彩織ちゃんと四年ぶりに会った。目が見えないなかで、ずっと退屈してた。生きてるのに、夢に逃げてるなんて、って思ってた。それでもやっと、好きな人に会えたのが、すごくうれしかった。でも、びっくりしたよ。目が見えないこと、バレちゃ困るもんね。』
『彩織ちゃんと会ったら、なんだか夏休みが始まるみたいな気がした。結局、私が死んでることも、目が見えないこともバレちゃったけどね。けど、彩織ちゃんは優しいから、私のことを心配してくれた。色を分けるって言ってくれた。なんのことかよく分からなかったけど、運命みたいな再会で、楽しいことが始まるんだろうなって思った。昔みたいな夏休みになるなって。』
『目が見えなくても、何も変わらなかったよ。彩織ちゃんがみんな教えてくれたから。だから、安心できた。昔みたいに、好きだなって、素直に思えた。明日は何をしようかなって考えて、楽しみに夢を見て、それがうれしかったの。昔は好きだって言えないままだったから、この夏のどっかで言いたいなって。でもやっぱり、女の子だから、言ってもらいたかったんだよ。』
──それは、あやめの独白だった。知っていることも、知らないことも、とにかく思いの丈を書き綴ったような、そんな文章。等身大の彼女の想いが、そこにびっしりと詰まっていた。
『お互い好き同士なのは分かってたよね。言うまでもなかったんだと思う。でもやっぱり、ちゃんと告白してもらえた時は、嬉しかったよ。夢が叶ったみたいな気がしてさっ。だけど、いいことばっかじゃなかったね。彩織ちゃんのおかげで目が見えるようになったけど、いきなり透明にもなっちゃったから、正直、本当に怖かった。あの時は困らせちゃって、ごめんね。』
何も言わないまま、小夜がそっと席を外す。硬い床を遠ざかっていく足音と、冷房の低い唸り声を聴きながら、僕は去年の、忘れもできない光景をフラッシュバックさせていた。額から眦に落ちる汗が滲みて、その痛さよりも、涙を流したほうが、感傷的なような気がした。
『恋は盲目っていうけど、きっと、そうだったんだよ。自分勝手な私への罰だね。でも、悪いことばっかじゃなかったから、神様にはありがとうって思ってるんだ。ワガママだったけど、そんな私のことを大好きでいてくれた彩織ちゃんのことは、私も大好きだよっ。数日だけど一緒に暮らせて、お風呂入って、たくさんお話して、寝て、ぜいたくな夏休みになったからね。』
『夢に逃げようとした私のことを、引き止めてくれてありがとう。あの時は本当に、それがいいんだって思ってた。でも、バカやっちゃったなって反省してる。おかげさまでスッキリして、ちゃんと明日のお別れを迎えられそうだから。彩織ちゃんがいるから、我慢できるよ。私は絶対に泣かないって決めたんだ。そしたら、彩織ちゃんが悲しくなっちゃうもんねっ。』
泣きたいわけじゃない。泣きそうなわけでもない。ただ、知らず涙が眦に溜まるくらいには、感傷的になった。去年の、ちょうどあの時の心情を思い返しているようで──あやめの口から、その告白をされていることが、やはり、時間が経っても、辛いことに変わりはなかった。
指の腹で水滴を拭う。擦り合わせて消していく。扇風機の風がそこに沁みて、冷たかった。彼女の筆跡に温もりが残っているような気がして、それをそっと撫でてみる。指先で追った文章の先に、微かに丸い染みがあった。一つじゃなくて、いくつも、雨粒のように落ちている。
『明日、また言うけど、ここでもいっぱい言っとくね。昔から彩織ちゃんが大好きだし、今も大好きだよ。こんな私に優しくしてくれたとこも、しっかり向き合ってくれたとこも、いちずでいてくれるとこも、みんな大好き。もしかしたら、はずかしくて面と向かって言えないかもしれないから。文章で許してね。あと、泣かないって決めたのに、泣いちゃってごめん。』
最後の一文のせいで、僕まで泣いてしまったのだから──本当に、今日は感傷的だ。
目元を腫らした涙も、炎陽の日射しのおかげですぐに乾いた。いったん雨宮家の玄関にスーツケースだけ置いて、僕は小夜と歩調を合わせながら、この夏の目的地へと向かう。ずっと空いている片手が寂しくて、けれど彼女にそんなことを言えるわけもなくて、不自然なように握りながら、アスファルトから立ち込める暑さに、これ以上ないほど辟易していた。
「じゃあ、小夜はずっと、あやめちゃんのお墓は知ってたんだ」
「まぁね。蛇足になるから言わんかったし、本人にも言えんかったけどさ」
「でも……地元にあるんじゃなくて、この村にあるのって、なんで?」
あやめの家へと続く道を右に折れながら、小夜は溌剌とした笑みを零す。さっきかぶった麦わら帽子は、どうやらあの子の真似らしい。これはこれで、違う雰囲気で、似合っていた。……片手にペットボトルを持って、タオルを首から下げているのは、ちょっとやりすぎだけど。
「あやめちゃんのお父さんが、ずっとここで静養してたやん? それにあやめちゃんも、十年ちょいはここにいたわけやからさ。ここが故郷やって変わらんもん。今は親子で仲良しやろっ」
「村のみんなは、反対しなかったんだ? お墓を立てたいっていうのは」
「んー、まぁ……話はあったらしいで。ぶっちゃけ言うと、ちょい離れたとこにあるんよ」
やっぱりそうなんだ、と思いながら、真正面に伸びる一本道を見据える。舗装の崩れかけたアスファルトと、夏空を隔てる電線と──紺青に映える、青々とした裏山の存在感は、昔からちっとも変わらない。あの石造りの鳥居をくぐる頃には、懐かしい蝉時雨の音がした。
「神社のお隣に墓地があるんよ。椎奈家のお墓は、そこのちょい先なんさ」
小夜はそう言って、裾で汗を拭う。そのまま肌を見せながら、服を勢いよく扇いでいた。
「僕しか見てないからいいけどさ、女の子っぽくないからやめなよ、あやめちゃん」
「……あやめちゃんやないし。雨宮小夜やから」
「……ごめん、普通に間違えた。なんていうか、あやめちゃんがよくやってたから」
「身体は覚えてるってやつなんかなぁ……。そこまで愛されてて、幸せもんやねぇ」
恥ずかしさを取り繕うように笑いながら、それでも本音みたいに、溜息混じり。ときおり視界を遮る木々の梢に、蝉の抜け殻が留まっていた。去年もきっと、あやめと見た気がする。
「ウチら、昔よくここで遊んでたね。隠れんぼしたり、お賽銭探しとかしたり」
拝殿の見える境内に差し掛かると、懐かしそうに小夜が呟く。
「大きくなっちゃったんね、三人ともさ」
そうだね、と顔を見合わせて、また笑った。懐かしいのか、寂しいのかは、よく分からない。
こっち、と小夜に誘導されるまま進む。石畳の舗装は少し荒くなって、森の色は深くなった。いくつも並ぶ墓石を横目にやり過ごしつつ、木漏れ日を踏まないように進んでいく。それは木々の合間を抜けるような道で、整備は本当に最低限だと、そう言われているみたいだった。
「──ここやね。あやめちゃんと、お父さんのお墓」
それは、少しだけ開けた場所だった。元々そうなっていたというよりは、開拓したんだろうな、とすぐに分かった。墓石そのものは普通と変わらないのに、辺りはやけに木々が茂って、軽風のおかげで涼しかったから。地面に落ちる影が、全体を薄暗く見せていた。
「さ、彩織ちゃんの出番やで。せっかく来たんやから、これくらいやりぃな」
茫然としていた僕を引き戻すように、小夜は首にかけていたタオルを渡してくる。
「お墓、洗ってやんないん? お父さんもおるんやし、失礼しちゃダメやでっ」
「いや、普通にそういうスタイルなんかと思った……。そのためだったんだ」
「そうやよ。ほら、ウチが水かけとくから軽く拭いちゃえ」
ペットボトルの口を開けて、焼けた墓石に落としていく。指の腹で少し触れると、お湯みたいに温かくなっていた。こうやって人のお墓を洗ったことなんて、今まであったろうか。本当なら何か語りかけでもするのだろうけど、微妙に気まずくて、ただ無言で没頭していた。
墓石の裏を見ると、本当にあやめの名前が書いてある。死んだんだ、という落胆のようなものが、夏の暑さとともに、身体にのしかかってくるみたいだった。去年だって、肉体的には死んでいたはずなのに。とっくに、このお墓に入っていたはずなのに。ただ──いわゆる魂とかいうものだけは、やり過ごした未練を、叶えようと叶えようと、踏みとどまったのだろう。
「……小夜は、あやめちゃんが死んでから、お墓参り行ってた?」
「そりゃあ……行かないわけないやん。去年やって、彩織ちゃんが帰ってから行ったで」
「そっか、ありがとう。これからは、僕も毎年、お墓参りに来なきゃだね」
あらかた拭きあげて、待ってましたとばかりに小夜が残りの水をかける。それを横目に見ながら、僕はトートバッグの中から、行きがけに用意しておいた花を取り出した。花立てには雨水がいくらか溜まっていて、ちょうど良かった、と安堵しいしい、綺麗に活けてやる。
「あれっ、彩織ちゃんそれ……そんなん持ってきてたん?」
「そうだよ、曼珠沙華。あやめちゃんが好きだったから、絶対にこれって決めてた」
「……そういや、いっつも曼珠沙華の髪飾り着けてたんね」
無言で頷く。黙っていると、色々なことが思い出されてくる。悲しいものだけれど、懐かしい記憶だった。それでいて生ぬるいような、変に温かい記憶でもある。お墓参りで少しだけ心の整理がついたのか、予想していたよりは、だいぶ穏やかな気分でいられているらしい。
「……なんか、あやめちゃんに色々と話したいことはあるけど、上手くまとまらないね。一年ぶりだから、ちょっと気まずい。あやめちゃんは多分、すっごく喜んでると思うけど」
何から話そうか。そう笑って、まずはトートバッグの中から原稿用紙を取り出す。
「小説の話、覚えてるかな。あやめちゃんをヒロインにしたやつでさ。……最後の最後に、大好きな人のことを忘れたくないから、って、言ったよね。もちろん、忘れることなんてないんだけど──おかげさまで、いい備忘録ができたなって、そう思ってるんだ。楽しかったことも、辛かったことも、全部、言われた通りに仕上げておいたよ。ゆっくり読んでいいから」
備忘録といったって、ちゃんと小説にしたから、百ページ以上はある。あやめが小説なんて読むイメージはないけれど、きっと僕の作品だから、無理してでも読んでくれるだろう。分厚いそれをクリアファイルに挟んで、墓石に立てかけるように、そっと手渡す。
「今日はね、小夜と来たんだ。お墓の場所を教えてくれたから、お盆になったらここに戻って、一緒にお墓参りするよ。これから夏休みだし、終わるまではこの村にいるつもり」
「終わるまで、って……せめてあやめちゃんの命日まで待ってやんないん?」
「あー……。そのほうがいいか。二年連続で夏休み明けに登校しないのもあれだけどね」
「学校とあやめちゃん、どっちが大事なんやって話やんか。ねぇ?」
僕の服の袖を掴みながら、小夜は少しだけムキになったようにあやめへと語りかける。彼女ならきっと、どう言うだろうか。『彩織ちゃんは私のこと、大好きだもんねぇ』なんて、ちょっとした圧でもかけてくれるだろうか。たぶん今は、きっと、面白そうに笑っている。
「あっ、そうだ。学校のことも話しとこっかな。この間ね、期末テストが終わったんだよ。そしたらさ、現代文の成績が学年一位でさ。これは言いたいなって思ってたんだ」
「えっ嘘、彩織ちゃんそんなに成績良かったん!?」
「あやめちゃんに色を分けただけのことはあるなって思ったね」
「いや、普通に凄いわ……。夏休みの宿題、ちょっと教えてくれん?」
「……授業聞いてれば大丈夫って、そんなこと言ってたくせに?」
えへへ、と、あやめみたいな笑い方。そこにどこか面影を感じて、懐かしいというよりも、安心できた。寂しくはない。そこにいると分かりきっているから、まったく。
「……まぁ、なんていうかさ。あやめちゃんは僕のこと心配してるかもしれないけど、なんだかんだ上手くやれてるよ。だからこれからも、見守ってくれると嬉しいな。さっきも言ったけど、夏休みには絶対、この村に戻るから。寂しい思いはさせないから。安心してね」
「そうやよ。なんかあったら、彩織ちゃんの面倒はウチが見るって決めてんもん。だから、あんまり気にせんといて見守ってくれるだけで嬉しいわ。彩織ちゃんとも昔っから仲良くしてるんだし、ウチも……まぁ、色々と頼れることがあったら頼るようにするもんな」
あやめがいなくても、できるように。迷惑をかけないように。心配させないように。僕と小夜の関係を断たないようにすることが、彼女の意志そのものだから──結局この先、どこまでいくのかは分からないけれど、とりあえず今は、変わらずにいようと思った。
「二人とも、いま高校二年生だけどさ。ぶっちゃけ卒業したら何しようって、あんまり考えてない。僕は大学に行くかもしれないし、小夜だって町に下りるかもしれないじゃん。ただ、そういう時の足並みっていうか、距離感は、近いところに収めといたほうがいいなって」
「うん。ぶっちゃけ、そのほうがウチも助かるんよ。親以外に頼れるんって、彩織ちゃんくらいのもんやから。仲ええし歳も同じやし、ウチら三人とも昔からそんな感じやったね」
そう言って、顔を見合わせながら笑う。頭上を遮る木々の枝葉が、眩い木漏れ日を落としていく。遠く近くを鳴く蝉時雨と、肌を撫でる夏の軽風。どこかから来た白い蝶が、そっと、あの赤い曼珠沙華の花びらに止まった。少し小ぶりで、可愛らしい、たった一匹の。
ひょいとしゃがんで、近くから眺める。逃げない。ただ優雅に羽を動かして、夏の日陰に涼んでいるようで、面白いほどに落ち着いていた。そっと手を伸ばす。触覚が微かに動いて、やがて、僕の指先へと歩み寄っていく。純白の蝶。あやめみたいだと、そう思った。
「真っ白くて、ちっこくて、あやめちゃんみたいやな」
「ね、可愛い。……あ、飛んでっちゃった」
さっきまでのんびりしていたのに、今度は別のほうへと向かっていく。そういう気分屋なところも、ますます似ていた。あれがあやめちゃんなのかもね、と、ふと頭によぎる。
「じゃあ、僕もそろそろ帰ろうかな。暑くなってきたし、喉も乾いたし」
「んー、そうするか……。ウチもう暑くてやんなっちゃうわ」
「うん、そういうことで。じゃあね、あやめちゃん。また来るから」
「ウチも気が向いたら行くから、そん時はまたよろしくなっ」
服を扇ぎ始めた小夜を横目に、軽く手を振ってから背中を向ける。不思議と名残惜しさはなかった。この村にいるという余裕のおかげだろうか。言いたいことを伝えられた、その充足感からだろうか。とにかくそれよりも、他の何かに満ち足りているような、そんな気分だ。
「……今年も、また夏かぁ」
「そんなら、ラムネでも買いに行く?」
「賛成。今日みたいに暑い日は、きっと美味しいよ」
大きく頷く小夜に、あの無邪気なあやめの姿を重ね合わせる。木々の合間から見えた紺青は、昔と何も変わっていない。ただひたすらに大きくて、高くて、青かった。そこに映える純白の入道雲も、遙か遠くを流れていく飛行機雲も、そのすべてが夏らしくて──だからこんな日は、無性にラムネが飲みたくなるのだと、彼女の言葉を思い返しながら汗を拭う。
そうして僕は、花立てに挿した真っ赤な曼珠沙華を振り返って、もう一度また、あそこに白い蝶が止まっているのを見た。動かないで、ただじっと、そこに留まっている気がした。
──だって、曼珠沙華は、あやめちゃんの好きな花だから。
他より遅れて学校に行った。授業中はずっと、小説のことばかり考えていた。やがて期末試験の時期になっても、勉強する気にはならなくて──ちょうどその頃、冒頭を書き始めた。
あれだけ熱心に綴ったはずの日記帳は、一度も開く気分にならなかった。九月五日、実家に帰る途中の、誰もいないバスのなかで、茫然としながら書いたのだけは覚えている。
僕とあやめは二度、夏を繰り返した。そして僕だけは、三度目の夏を繰り返している。四年越しの再会を、懐かしむように──或いは、椎奈あやめという少女そのものを、供養するように。あの日に交わした口約束に従ったまま、冬を越して、春を迎えて、初夏を喜んだ。
進級した先の環境に慣れた頃、僕はようやく、まともに一作品を書き上げた。あと必要だったのは、去年から時間が止まったままの、あの村に戻るだけの、覚悟そのものだった──。
◇
『彩織ちゃん、今年の夏休みはいつ来るん?』
夏休みの時期になって、小夜から連絡が来た。それまでにも何回か会ったりはした。その時に連絡先を交換して、お互いに近況報告をするようになって──まるで、あやめのいない寂しさを紛らわすような、或いは彼女の言いつけを守っているような、そんな付き合いだった。
自分でも驚くほど、小夜には素直になれた。小夜にしか言えないことが多かった。
村に戻るのが怖い理由。それは、自分が今でも、心のどこかで夢を見ているから。あやめはもういないという、その現実を直視するのが怖いから。自分にとって村に戻るということは、あやめに会うことと同じだから。それから目を背けるために、一年間を過ごしてきた。
ただ、それと同じくらい、彼女に伝えたいこともあった。書き上げられた小説のこと。進級した先でも、上手くやれている学校の話。小夜とはしっかり仲良くしているという証明。
そんな僕の背中を押すように、連絡の内容は続く。
『一緒に、あやめちゃんのお墓参り、行こう』
◇
少しだけ小ぶりなスーツケースに着替えを詰めて、けれど、意外に荷物はかさばらなかった。夏休みの課題と、あとは貴重品。肩にかけたトートバッグには、日記帳とペンと諸々が入っているだけ。去年から一度も開いていないのに、けれど、持っていくべきだと、そう思ったから。
──誰も乗っていない電車の車内は、寒すぎるほどに冷房が効いていた。扉にいちばん近い角席に座りながら、表面が冷えた手すりを握りつつ、延々と左右に揺られ続ける。窓の向こうには青々とした田んぼと山ばかりで、あとは、紺青の夏空と入道雲が、ひたすら眩しかった。
鬱陶しい吊り革と、褪せた広告に目が滑る。その傍らで、見慣れた景色が近づいていく。思わず席を立ち上がって、じっと窓の向こうを見た。村の外れ、高台のところに、家が一つ。そう思う間に、すぐ踏切を過ぎた。住宅地。駅舎の屋根。ブレーキが掛かって、よろめく。
「あっ」
プラットフォームに人影が見えた。スーツケースを力任せに引きながら、開きかけの扉に合わせて歩き始める。少女は僕に気付くと、よれたシャツで汗を拭いながら手を振ってきた。
「やっほー、元気やった?」
「うん。わざわざ迎えに来てくれたの?」
「そうっ。暑いんに一人で歩きたかないやろ」
小夜はそう笑うと、ポケットから出した塩分チャージのタブレットを分けてくれる。ホットパンツ姿にサンダルを履いたままというのも、相変わらず変わっていない。燦々と降り注ぐ炎陽の暑さにはお似合いで、この感覚も久しぶりだと、無性に懐かしいような気がした。
「……酸っぱ。こんなに酸っぱかったっけ」
「意外とそんなもんやよ。たまに食べるとさっ」
「待合室で冷房と扇風機回ってるから、ちょっと涼んでかん?」と言われて、僕はそのまま駅舎に入る。去年とは打って変わって、馬鹿みたいに冷えていた。陽が射さない窓硝子の向こうは相変わらず誰もいないけど、蛍光灯も、冷房も、扇風機も、みんな稼働している。
「あやめちゃんと来た時は、暑い暑いって文句言われたのにな……」
「ふふっ、今なら絶対に『すずしーっ!』って騒ぐで」
小夜と顔を見合わせて笑いながら、あやめと一緒に座った、プラスチック製の青椅子に腰掛ける。ふと壁を見ると、あのローカル線の広告ポスターはまだ残っていた。『夏休みの過ごし方。』とだけ書かれたそれに、『お似合いだね』と笑った、あの屈託のない笑顔がよぎる。
「……それ、去年も持ってた日記帳?」
小夜はトートバッグのなかを覗き込みながら、少しだけ驚いたように眉を上げた。まぁね、と答えて、ずっと開かずにいたそれを手に取る。見るだけでも記憶が鮮明に思い返せるから、とにかく目のつかないところに押し込んでいた。だけど、今回も持っていきたくなった。
「ウチが見てもいい?」
「小夜になら、いいよ」
こんなもの、あやめと彼女以外には見せられない。かといって、ずっと取っておくのもおかしい気がするし、逆に、処理するのもはばかられた。これを思い出に昇華することができない限り、ずっとこのままなのだろう。そんな僕の隣で、小夜は懐かしむようにページを開く。
「……そういや、あやめちゃん、目ぇ見えなかったんやっけ」
「うん。見えるようになったのが、成仏する五日前」
「なんでわざわざ教えてくれたん? 黙ってても良かったやん」
横目で僕を見ながら、小夜は探り込むように問いかけてきた。
「大した理由じゃないよ。ただ、あやめちゃんに言われたんだ。僕が書く小説のヒロインをあの子にしたいって言った時、『脚色しないで』って……。だから、小夜にも本当のことは言っておこうってさ。こういうことがあったんだって、一応、知ってもらいたかっただけだよ」
「……彩織ちゃんも辛いはずなんにさ、それをしっかり書いて、ウチにもちゃんと教えてくれて。あやめちゃんもあやめちゃんで、真っ直ぐな生き方してて……凄いなぁ、本当」
「その原稿もさ、今日、ちゃんと持ってきたんだよ。あやめちゃんに読ませてあげようって。あとで小夜にも読んでほしい。そのために、夏休みの早いうちから泊まりに来たんだもん」
「そういうことなら、楽しみにしとくわ。まずはお墓参りが先やけどな」
小さく笑って、小夜はまた日記帳に視線を落とす。八月三十一日。九月一日。二日。三日。四日。何を書いたかは、だいたい覚えていた。白いページのところどころに、乾いた涙の跡がある。彼女はそこから途切れた後ろのページをめくると、「白紙なんや」と呟いた。
「……あれ、待って、なんかあるやん」
「なにが?」
「いや、本当に後ろのほう。書いてある」
そう言って日記帳を手渡される。咄嗟に息が詰まるような感覚と、早鐘を打ち始めた心臓が痛いのも自覚しながら、汗ばんだ肌に沁みる冷気の、その冷たさを煩わしく思う。ページをつまんだ指の腹は、嫌な湿気に包まれていた。丸みを帯びた染みが、また一つ、そこに増える。
『彩織ちゃんへ。いつこの文を読むか分からないけど、書きたいと思ったから書いたよ。今は九月三日の夜。彩織ちゃんが寝たあとに、こっそり書いてるの。なんか悪いことしてる感じっ。』
「いつの間に……」
自然と続きに視線が向く。読みたくないような、読みたいような──とにかく、緊張とも恐れとも取れない何かに苛まれて、これがきっと、現実に向き合うための覚悟だというなら、しっかり受け入れようと思った。戻ってきたからには、清算しなければ終われないのだから。
『八月二十五日。彩織ちゃんと四年ぶりに会った。目が見えないなかで、ずっと退屈してた。生きてるのに、夢に逃げてるなんて、って思ってた。それでもやっと、好きな人に会えたのが、すごくうれしかった。でも、びっくりしたよ。目が見えないこと、バレちゃ困るもんね。』
『彩織ちゃんと会ったら、なんだか夏休みが始まるみたいな気がした。結局、私が死んでることも、目が見えないこともバレちゃったけどね。けど、彩織ちゃんは優しいから、私のことを心配してくれた。色を分けるって言ってくれた。なんのことかよく分からなかったけど、運命みたいな再会で、楽しいことが始まるんだろうなって思った。昔みたいな夏休みになるなって。』
『目が見えなくても、何も変わらなかったよ。彩織ちゃんがみんな教えてくれたから。だから、安心できた。昔みたいに、好きだなって、素直に思えた。明日は何をしようかなって考えて、楽しみに夢を見て、それがうれしかったの。昔は好きだって言えないままだったから、この夏のどっかで言いたいなって。でもやっぱり、女の子だから、言ってもらいたかったんだよ。』
──それは、あやめの独白だった。知っていることも、知らないことも、とにかく思いの丈を書き綴ったような、そんな文章。等身大の彼女の想いが、そこにびっしりと詰まっていた。
『お互い好き同士なのは分かってたよね。言うまでもなかったんだと思う。でもやっぱり、ちゃんと告白してもらえた時は、嬉しかったよ。夢が叶ったみたいな気がしてさっ。だけど、いいことばっかじゃなかったね。彩織ちゃんのおかげで目が見えるようになったけど、いきなり透明にもなっちゃったから、正直、本当に怖かった。あの時は困らせちゃって、ごめんね。』
何も言わないまま、小夜がそっと席を外す。硬い床を遠ざかっていく足音と、冷房の低い唸り声を聴きながら、僕は去年の、忘れもできない光景をフラッシュバックさせていた。額から眦に落ちる汗が滲みて、その痛さよりも、涙を流したほうが、感傷的なような気がした。
『恋は盲目っていうけど、きっと、そうだったんだよ。自分勝手な私への罰だね。でも、悪いことばっかじゃなかったから、神様にはありがとうって思ってるんだ。ワガママだったけど、そんな私のことを大好きでいてくれた彩織ちゃんのことは、私も大好きだよっ。数日だけど一緒に暮らせて、お風呂入って、たくさんお話して、寝て、ぜいたくな夏休みになったからね。』
『夢に逃げようとした私のことを、引き止めてくれてありがとう。あの時は本当に、それがいいんだって思ってた。でも、バカやっちゃったなって反省してる。おかげさまでスッキリして、ちゃんと明日のお別れを迎えられそうだから。彩織ちゃんがいるから、我慢できるよ。私は絶対に泣かないって決めたんだ。そしたら、彩織ちゃんが悲しくなっちゃうもんねっ。』
泣きたいわけじゃない。泣きそうなわけでもない。ただ、知らず涙が眦に溜まるくらいには、感傷的になった。去年の、ちょうどあの時の心情を思い返しているようで──あやめの口から、その告白をされていることが、やはり、時間が経っても、辛いことに変わりはなかった。
指の腹で水滴を拭う。擦り合わせて消していく。扇風機の風がそこに沁みて、冷たかった。彼女の筆跡に温もりが残っているような気がして、それをそっと撫でてみる。指先で追った文章の先に、微かに丸い染みがあった。一つじゃなくて、いくつも、雨粒のように落ちている。
『明日、また言うけど、ここでもいっぱい言っとくね。昔から彩織ちゃんが大好きだし、今も大好きだよ。こんな私に優しくしてくれたとこも、しっかり向き合ってくれたとこも、いちずでいてくれるとこも、みんな大好き。もしかしたら、はずかしくて面と向かって言えないかもしれないから。文章で許してね。あと、泣かないって決めたのに、泣いちゃってごめん。』
最後の一文のせいで、僕まで泣いてしまったのだから──本当に、今日は感傷的だ。
目元を腫らした涙も、炎陽の日射しのおかげですぐに乾いた。いったん雨宮家の玄関にスーツケースだけ置いて、僕は小夜と歩調を合わせながら、この夏の目的地へと向かう。ずっと空いている片手が寂しくて、けれど彼女にそんなことを言えるわけもなくて、不自然なように握りながら、アスファルトから立ち込める暑さに、これ以上ないほど辟易していた。
「じゃあ、小夜はずっと、あやめちゃんのお墓は知ってたんだ」
「まぁね。蛇足になるから言わんかったし、本人にも言えんかったけどさ」
「でも……地元にあるんじゃなくて、この村にあるのって、なんで?」
あやめの家へと続く道を右に折れながら、小夜は溌剌とした笑みを零す。さっきかぶった麦わら帽子は、どうやらあの子の真似らしい。これはこれで、違う雰囲気で、似合っていた。……片手にペットボトルを持って、タオルを首から下げているのは、ちょっとやりすぎだけど。
「あやめちゃんのお父さんが、ずっとここで静養してたやん? それにあやめちゃんも、十年ちょいはここにいたわけやからさ。ここが故郷やって変わらんもん。今は親子で仲良しやろっ」
「村のみんなは、反対しなかったんだ? お墓を立てたいっていうのは」
「んー、まぁ……話はあったらしいで。ぶっちゃけ言うと、ちょい離れたとこにあるんよ」
やっぱりそうなんだ、と思いながら、真正面に伸びる一本道を見据える。舗装の崩れかけたアスファルトと、夏空を隔てる電線と──紺青に映える、青々とした裏山の存在感は、昔からちっとも変わらない。あの石造りの鳥居をくぐる頃には、懐かしい蝉時雨の音がした。
「神社のお隣に墓地があるんよ。椎奈家のお墓は、そこのちょい先なんさ」
小夜はそう言って、裾で汗を拭う。そのまま肌を見せながら、服を勢いよく扇いでいた。
「僕しか見てないからいいけどさ、女の子っぽくないからやめなよ、あやめちゃん」
「……あやめちゃんやないし。雨宮小夜やから」
「……ごめん、普通に間違えた。なんていうか、あやめちゃんがよくやってたから」
「身体は覚えてるってやつなんかなぁ……。そこまで愛されてて、幸せもんやねぇ」
恥ずかしさを取り繕うように笑いながら、それでも本音みたいに、溜息混じり。ときおり視界を遮る木々の梢に、蝉の抜け殻が留まっていた。去年もきっと、あやめと見た気がする。
「ウチら、昔よくここで遊んでたね。隠れんぼしたり、お賽銭探しとかしたり」
拝殿の見える境内に差し掛かると、懐かしそうに小夜が呟く。
「大きくなっちゃったんね、三人ともさ」
そうだね、と顔を見合わせて、また笑った。懐かしいのか、寂しいのかは、よく分からない。
こっち、と小夜に誘導されるまま進む。石畳の舗装は少し荒くなって、森の色は深くなった。いくつも並ぶ墓石を横目にやり過ごしつつ、木漏れ日を踏まないように進んでいく。それは木々の合間を抜けるような道で、整備は本当に最低限だと、そう言われているみたいだった。
「──ここやね。あやめちゃんと、お父さんのお墓」
それは、少しだけ開けた場所だった。元々そうなっていたというよりは、開拓したんだろうな、とすぐに分かった。墓石そのものは普通と変わらないのに、辺りはやけに木々が茂って、軽風のおかげで涼しかったから。地面に落ちる影が、全体を薄暗く見せていた。
「さ、彩織ちゃんの出番やで。せっかく来たんやから、これくらいやりぃな」
茫然としていた僕を引き戻すように、小夜は首にかけていたタオルを渡してくる。
「お墓、洗ってやんないん? お父さんもおるんやし、失礼しちゃダメやでっ」
「いや、普通にそういうスタイルなんかと思った……。そのためだったんだ」
「そうやよ。ほら、ウチが水かけとくから軽く拭いちゃえ」
ペットボトルの口を開けて、焼けた墓石に落としていく。指の腹で少し触れると、お湯みたいに温かくなっていた。こうやって人のお墓を洗ったことなんて、今まであったろうか。本当なら何か語りかけでもするのだろうけど、微妙に気まずくて、ただ無言で没頭していた。
墓石の裏を見ると、本当にあやめの名前が書いてある。死んだんだ、という落胆のようなものが、夏の暑さとともに、身体にのしかかってくるみたいだった。去年だって、肉体的には死んでいたはずなのに。とっくに、このお墓に入っていたはずなのに。ただ──いわゆる魂とかいうものだけは、やり過ごした未練を、叶えようと叶えようと、踏みとどまったのだろう。
「……小夜は、あやめちゃんが死んでから、お墓参り行ってた?」
「そりゃあ……行かないわけないやん。去年やって、彩織ちゃんが帰ってから行ったで」
「そっか、ありがとう。これからは、僕も毎年、お墓参りに来なきゃだね」
あらかた拭きあげて、待ってましたとばかりに小夜が残りの水をかける。それを横目に見ながら、僕はトートバッグの中から、行きがけに用意しておいた花を取り出した。花立てには雨水がいくらか溜まっていて、ちょうど良かった、と安堵しいしい、綺麗に活けてやる。
「あれっ、彩織ちゃんそれ……そんなん持ってきてたん?」
「そうだよ、曼珠沙華。あやめちゃんが好きだったから、絶対にこれって決めてた」
「……そういや、いっつも曼珠沙華の髪飾り着けてたんね」
無言で頷く。黙っていると、色々なことが思い出されてくる。悲しいものだけれど、懐かしい記憶だった。それでいて生ぬるいような、変に温かい記憶でもある。お墓参りで少しだけ心の整理がついたのか、予想していたよりは、だいぶ穏やかな気分でいられているらしい。
「……なんか、あやめちゃんに色々と話したいことはあるけど、上手くまとまらないね。一年ぶりだから、ちょっと気まずい。あやめちゃんは多分、すっごく喜んでると思うけど」
何から話そうか。そう笑って、まずはトートバッグの中から原稿用紙を取り出す。
「小説の話、覚えてるかな。あやめちゃんをヒロインにしたやつでさ。……最後の最後に、大好きな人のことを忘れたくないから、って、言ったよね。もちろん、忘れることなんてないんだけど──おかげさまで、いい備忘録ができたなって、そう思ってるんだ。楽しかったことも、辛かったことも、全部、言われた通りに仕上げておいたよ。ゆっくり読んでいいから」
備忘録といったって、ちゃんと小説にしたから、百ページ以上はある。あやめが小説なんて読むイメージはないけれど、きっと僕の作品だから、無理してでも読んでくれるだろう。分厚いそれをクリアファイルに挟んで、墓石に立てかけるように、そっと手渡す。
「今日はね、小夜と来たんだ。お墓の場所を教えてくれたから、お盆になったらここに戻って、一緒にお墓参りするよ。これから夏休みだし、終わるまではこの村にいるつもり」
「終わるまで、って……せめてあやめちゃんの命日まで待ってやんないん?」
「あー……。そのほうがいいか。二年連続で夏休み明けに登校しないのもあれだけどね」
「学校とあやめちゃん、どっちが大事なんやって話やんか。ねぇ?」
僕の服の袖を掴みながら、小夜は少しだけムキになったようにあやめへと語りかける。彼女ならきっと、どう言うだろうか。『彩織ちゃんは私のこと、大好きだもんねぇ』なんて、ちょっとした圧でもかけてくれるだろうか。たぶん今は、きっと、面白そうに笑っている。
「あっ、そうだ。学校のことも話しとこっかな。この間ね、期末テストが終わったんだよ。そしたらさ、現代文の成績が学年一位でさ。これは言いたいなって思ってたんだ」
「えっ嘘、彩織ちゃんそんなに成績良かったん!?」
「あやめちゃんに色を分けただけのことはあるなって思ったね」
「いや、普通に凄いわ……。夏休みの宿題、ちょっと教えてくれん?」
「……授業聞いてれば大丈夫って、そんなこと言ってたくせに?」
えへへ、と、あやめみたいな笑い方。そこにどこか面影を感じて、懐かしいというよりも、安心できた。寂しくはない。そこにいると分かりきっているから、まったく。
「……まぁ、なんていうかさ。あやめちゃんは僕のこと心配してるかもしれないけど、なんだかんだ上手くやれてるよ。だからこれからも、見守ってくれると嬉しいな。さっきも言ったけど、夏休みには絶対、この村に戻るから。寂しい思いはさせないから。安心してね」
「そうやよ。なんかあったら、彩織ちゃんの面倒はウチが見るって決めてんもん。だから、あんまり気にせんといて見守ってくれるだけで嬉しいわ。彩織ちゃんとも昔っから仲良くしてるんだし、ウチも……まぁ、色々と頼れることがあったら頼るようにするもんな」
あやめがいなくても、できるように。迷惑をかけないように。心配させないように。僕と小夜の関係を断たないようにすることが、彼女の意志そのものだから──結局この先、どこまでいくのかは分からないけれど、とりあえず今は、変わらずにいようと思った。
「二人とも、いま高校二年生だけどさ。ぶっちゃけ卒業したら何しようって、あんまり考えてない。僕は大学に行くかもしれないし、小夜だって町に下りるかもしれないじゃん。ただ、そういう時の足並みっていうか、距離感は、近いところに収めといたほうがいいなって」
「うん。ぶっちゃけ、そのほうがウチも助かるんよ。親以外に頼れるんって、彩織ちゃんくらいのもんやから。仲ええし歳も同じやし、ウチら三人とも昔からそんな感じやったね」
そう言って、顔を見合わせながら笑う。頭上を遮る木々の枝葉が、眩い木漏れ日を落としていく。遠く近くを鳴く蝉時雨と、肌を撫でる夏の軽風。どこかから来た白い蝶が、そっと、あの赤い曼珠沙華の花びらに止まった。少し小ぶりで、可愛らしい、たった一匹の。
ひょいとしゃがんで、近くから眺める。逃げない。ただ優雅に羽を動かして、夏の日陰に涼んでいるようで、面白いほどに落ち着いていた。そっと手を伸ばす。触覚が微かに動いて、やがて、僕の指先へと歩み寄っていく。純白の蝶。あやめみたいだと、そう思った。
「真っ白くて、ちっこくて、あやめちゃんみたいやな」
「ね、可愛い。……あ、飛んでっちゃった」
さっきまでのんびりしていたのに、今度は別のほうへと向かっていく。そういう気分屋なところも、ますます似ていた。あれがあやめちゃんなのかもね、と、ふと頭によぎる。
「じゃあ、僕もそろそろ帰ろうかな。暑くなってきたし、喉も乾いたし」
「んー、そうするか……。ウチもう暑くてやんなっちゃうわ」
「うん、そういうことで。じゃあね、あやめちゃん。また来るから」
「ウチも気が向いたら行くから、そん時はまたよろしくなっ」
服を扇ぎ始めた小夜を横目に、軽く手を振ってから背中を向ける。不思議と名残惜しさはなかった。この村にいるという余裕のおかげだろうか。言いたいことを伝えられた、その充足感からだろうか。とにかくそれよりも、他の何かに満ち足りているような、そんな気分だ。
「……今年も、また夏かぁ」
「そんなら、ラムネでも買いに行く?」
「賛成。今日みたいに暑い日は、きっと美味しいよ」
大きく頷く小夜に、あの無邪気なあやめの姿を重ね合わせる。木々の合間から見えた紺青は、昔と何も変わっていない。ただひたすらに大きくて、高くて、青かった。そこに映える純白の入道雲も、遙か遠くを流れていく飛行機雲も、そのすべてが夏らしくて──だからこんな日は、無性にラムネが飲みたくなるのだと、彼女の言葉を思い返しながら汗を拭う。
そうして僕は、花立てに挿した真っ赤な曼珠沙華を振り返って、もう一度また、あそこに白い蝶が止まっているのを見た。動かないで、ただじっと、そこに留まっている気がした。
──だって、曼珠沙華は、あやめちゃんの好きな花だから。
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