上 下
25 / 28
九月三日

後悔と贖罪

しおりを挟む
     ──暑さゆえの過ちから、丸一日が経った。どことなく僕は、あやめと顔を合わせるのが恥ずかしいような気がして、けれども彼女は昨日からご機嫌そうに、僕の手を繋いだまま片時も離れない。あろうことか今日の昼食に小夜まで誘った。

 僕の部屋にある座卓を三人で囲みながら、今夏で何回目かの素麺を食べる。

「あやめちゃん、彩織ちゃんが優しいのは分かったから……。もう三回目やで、その話。なんや分からんけどウチはもう絶対に首は突っ込まないからな……! 聞くんが怖い……!」

「あー小夜、喋りながら素麺こぼさないで……。あやめちゃんは無視して構わないから」 

「えー!? そんなこと言うなら私もう寝ちゃうからねっ。ふーんだ。……ちらっ」

 あやめは演技ぶって敷きっぱなしの布団に飛び込むと、枕に顔を埋めながら僕のほうを見る。可愛いなぁと思いつつも小夜の前なので、いつも通り、平静を努めることにした。

「あやめちゃんね、いま拗ねたふりして僕のこと見て──あ、向こう向いちゃった。寝てるふりしてる。こういうところ可愛いよねー……。小夜にも見せてあげたいもん」

「彩織ちゃんも大概やなぁ……。二人してズブズブになって惚気けるん止めてくんない? ウチなんか通信制の学校で出会いなんてまったくないんやで? 分かるか彩織ちゃんっ」

 半ギレで座卓を叩かれた。少し怖い。あやめは顔だけこちらを向いて面白そうに笑うと、不意に欠伸を漏らしていた。

「……あやめちゃん、眠いんなら寝てもいいよ」

「んー……。彩織ちゃんといっぱい遊んだから、疲れちゃった」

  もう少しお話してたいんだけどなぁ、と眠そうに頬を緩ませながら、二度目の欠伸をして枕に顔を埋め直す。欲に正直だ。

「……あやめちゃん、おねむ?」

「うん、おねむ。寝かしてあげよう」

  二人で顔を揃えて笑いながら、夏の午後に射す陽光に降られて透き通った彼女の姿を、呆然と眺めていた。もともと開けていたのかさえ分からない窓から、青い匂いが立ち込めてくる。

  小夜は最後の素麺を食べ終わると、忍び足で布団の側まで歩み寄った。「頭、撫でてええ?」と小声で問いかけてきたのに笑いながら、僕も近寄って、頭はここだよと指で示してやる。

「……もう寝てる」

「起きない?」

「だと思うけどね」

「よしっ……」

  小夜からしたら、そこは何もない虚空のはずなのに。温度も匂いも感触も、伝わらないはずなのに。けれどもしっかり、触れられていた。ここにいると確信した、そんな手つきだから。

  今だけじゃない。あやめと話している時だってそうだ。お互いに見えているようなリアクションで、昔と何も変わらない態度で、ずっと笑い続けてくれた。だから、懐かしいのだ。

「……ごめん、彩織ちゃん。なんか、泣いちゃいそう」

「……うん、分かるよ」

  見えないはずのあやめを見つめる小夜の面持ちは──悲痛というには言い過ぎで、寂しげと言うには弱すぎる。額の汗に張り付いた前髪よりも、眦から頬を伝う紅涙が横髪を巻き込んで、小さな雫を付けて、そこを写真のように、眠っている少女が、小さく映っていた。

「っ、やっぱり……無理や。どんだけあやめちゃんが許してくれても、ウチが死なせちゃったって……後悔しかできん……。戻れたらいいんになって、最近、思ってて……」

「……僕たち、あやめちゃんがいなくなってさ、どんな思いで過ごせばいいんだろうね。忘れることなんてできないし、自分を許そうとも思えない。なんとか自分を納得させられたところで、僕はもう、あやめちゃん以外、考えられないもん。このまま暮らしてて、いいのかなって」

  小夜の拭った涙が、布団に染みを付けていく。その跡はもう、二度と取れないような気がした。純粋な罪悪感と後悔が、きっとそこに秘められているから。目元を吹く風が、嫌に冷たい。

「……ウチさ、通信制の高校に行ったって話したやん。あれね、なんでかっていうと、人が嫌いになったからなんさ。ここの同級生みたいなやつとまた一緒になりたくなかったし、もう面倒臭いし、怖いから、付き合いもしたくなかったんよ。だから……うん、そんだけの話」

 作り笑いの笑みが、小夜の顔に貼り付いている。きっと理由があるのだろうと、触れずにおいたのだけれど──案の定、という感じだった。何も言えなくて、ただ無言で頷く。

「あやめちゃんは、たぶん、ウチに彩織ちゃんのこと任せると思うんさ」

「……なんで? どういうこと?」

「お互いに、昔から知ってる友達で、彩織ちゃんの親戚やから。あやめちゃんもきっと気付いとるよ、自分がいなくなったあと、彩織ちゃんがどうなるかっていうんはさ。だからきっと、あとのサポートはウチに任せると思うんだ。同じ穴のムジナ……とまでは、言わんけど」

「……ぶっちゃけ、頼るかなんて分からないよ。小夜は、それでいいの?」

「嫌なわけやないけど……それが、責任と贖罪ってもんやろ」

 涙を拭って、困ったように笑う。「それに」と続けた。

「他の人間なんかよりも、彩織ちゃんのほうが、信用できるから」

「……そっか」

  ありがとう、と言うのは、なんだか違う気がした。僕が偉いわけじゃない。相対的に、そう感じざるを得ないだけなのだ。

  ──会話はそこで切れて、代わりに軽風が吹き込んでいく。髪を張り付かせた汗が涼しくて、けれど、寂しい。紛らわすようにあやめの頭を撫でてやると、それだけで少し、落ち着いた。

「僕ね、昨日、あやめちゃんに言われたんだ。私のことは忘れて、今すぐ実家に帰ってほしい、って。……なんのことだと思ったよ。でも、今なら、その理由が分かる気がしてさ」

「……あやめちゃんが、そんなこと言ったん?」

「うん、僕もショックだった。でも、嘘だってすぐに分かったから。そんなこと言うような子じゃないし、騙されないよ。結局、優しすぎるから──少しでも希望のあるほうを考えちゃう」

  彼女が僕に向けている恋情の強さに比例して、症状は進んでいく。死んでからもずっと、僕のことを覚えていた。簡単には断ち切れないはずなのに、それを本気で、一度でも断とうとしたのは、あれは一種の愛と、優しさと、覚悟だったのだろう。

「……好きな人のことを、完全に清算できるかなんて、分からないよ。だったらいっそのこと、成仏しないまま別れて、心のなかでまだ生きていることにして、夢にでも逃げればいい。僕だってそう言ったかもしれないし、あやめちゃんは、言った」

  でも、違った。それは苦肉の策でしかなくて、彼女の姿が僕にしか見えないその理由を考えれば、そんなことをしている場合でもなかった。四年越しの後悔と覚悟を清算しなければならない。それがきっと、僕たちに課せられた贖罪なのだろう。

「彩織ちゃんは、強いね」

  あやめの頭を撫でながら、洩らすように、小夜が呟く。

「ウチはもう、逃げた側の人間やから。あやめちゃんが自殺したあの夏から、ずっと目を背けて生きてきたようなもんやし。……でも、彩織ちゃんは、偉いよ。ウチとは違う、っ、から……」

「……泣かないでいいんだよ。小夜だって、できることはやったじゃん。しっかりあやめちゃんに謝れて、許してもらった。それでいいんだよ。僕はまだ、役目を残してるだけだから。早いか遅いか、それだけの違いでさ。小夜が気にすることないよ」

  堪えるように目をつぶって、そこから溢れた涙がまた、布団の上に染みを作っていく。何度も首を横に振るのが痛々しくて、けれど、あれは本心だから、慰めでもなんでもなかった。

  手を伸ばしてやりたいけれど、触れてしまったら、なんだかあやめに申し訳ないような気がする。胸の奥が鋭く痛んで、何も言えないまま、小夜が落ち着くのをずっと待っていた。

  ──あやめの穏やかな寝顔だけが、唯一の安らぎだった。





「……」

  気がついたら、あやめの隣で僕も寝ていた。さっきよりも日が落ちて、射し込む斜陽の茜が眩しい。それに彩られた彼女はもう、目を凝らさなければ見えないほど淡くて、儚げで、それでもやはり、綺麗だった。どこからかまた、ふわりと、蚊取り線香の匂いがした。

「あやめちゃん」

「……んー」

「夕方だよ。起きて」

「起きる……」

  身をよじっても目は開けない。僕だけ先に立ち上がってから、そのまま腰をかがめて、彼女の身体をすくい上げた。想像していたよりも遥かに軽くて、一瞬だけ拍子抜けしてしまう。

「えっ、あっ……えっ……?」

「……あやめちゃん、軽いね」

「えっ……お姫様抱っこ……?」

  寝ぼけまなこを擦りながら、混乱したように僕を見る。そういえば、あやめを抱き上げたのは初めてかもしれない。思った以上に軽くて、華奢で、腕のなかにしっかり収まっていた。

「近くで見ると、もっと可愛いね」

「えへへっ……。なんか、赤ちゃんに戻ったみたい」

「だいぶ大きな赤ちゃんだね」

 ひとしきり笑って、その余韻が静寂に変わる。はっと現実に引き戻されたような、そんな嫌な感覚だった。今は何時だろうと取り繕うように時計を探しながら、四時くらいか、と呟く。

 ……例えばこれが、あやめが死ぬ直前の二年前だったら、その時に抱き上げることができていたら──今と同じこの感触で、この重さだったのだろうか。何も変わらないようで、何かが変わってしまっているかもしれない、そんな漠然とした恐怖が、脳裏によぎっていく。

「彩織ちゃんさ、夕方って、怖い?」

「……別に。なんで?」

「じゃあ、子供の時はどうだった?」

「怖いっていうか……寂しいかな」

 近くから見上げるあやめの身体に、抱きかかえた僕の手が透けている。それでも服は透けないんだな、なんて、そんな馬鹿なことを思った。寝起きでいくらか情緒が不安定かもしれない。

 彼女は「ふぅん」と呟いて、優しく僕の腕から降りると、そのまま窓際に立つ。

「ちょっと前に、夕暮れ時の踏切が怖いって話したの、覚えてるかな。薄暗くなって、綺麗なはずの曼珠沙華が不気味で、でも、お家に帰るには、我慢してあの道を通るしかないの」

 昔を懐かしむように、或いは斜陽の眩しさに目を細めるように、あやめは外を眺めた。

「……今日の夕暮れは、彩織ちゃんは、怖くない?」

「あやめちゃんがいてくれるなら、大丈夫だよ、きっと」

 わざと間髪入れずに答える。少しでも口ごもってしまったら、それが明確な肯定になってしまう気がして。それに、今だけは自分を誤魔化したかったから、そう答えた。彼女の言いたいことに気付いてしまったから、少しでも不安にさせまいと、そんな優しい嘘を吐く。

「明日も、一緒にお散歩、行きたいなっ」

「うん。あやめちゃんとなら、どこでも」

 どこかで聞いたような、或いはどこかで言ったような台詞だなと、そう思った。けれど上辺だけの取り繕いではなくて、衷心から絞り出した本音であることは、分かり切っていた──。

 



 あやめと一緒に居間を降りて、適当に夕食時まで待つ。いつの間にか叔父と叔母も仕事から帰ってきていて、祖父母は珍しく二人で台所に立っている。小夜はマイブームの早風呂らしい。

「……あ、降りてきとる。彩織ちゃん今から風呂入る?」

「じゃあ入ろっかな。ご飯までまだ時間あるし」

「うん。ぬるめのお湯にしといたから気持ちいいでー」

 隣にいるあやめと目を合わせながら、すれ違いざまの小夜に手を振って居間を後にする。何を言わなくても僕の後ろをついてくるのは昔からで、まるで、鳥の雛みたいだなと思った。

 脱衣所に入るや否や、彼女は楽しそうに声を弾ませながら笑う。

「ねぇねぇ彩織ちゃん、ぬるめのお湯だってっ!」

「ね。気持ちよさそう」

「一緒にぎゅーってしながら入ろうね?」

「……まぁいっか。今更だし」

 苦笑しいしい服を脱ぐ。それくらいではもう、お互いに顔を背けることもなくなった。ここ数日でだいぶ慣れてきたというのか、恥ずかしいけれど、まぁ、という関係性にはなっている。

 とはいえやはり、女子の素肌が見えるのは落ち着かない。ましてや奔放なあやめのことだから、一度でも開放的になってしまうと、子供のようにはしゃぎだすわけで。少し困るかな。

「おーっ、なんか涼しいかも……!」

 フェイスタオルで前だけをぎりぎり隠しながら、彼女は一足先に浴室へと入っていく。小ぶりなお尻が丸見えだ。でもまぁ、僕も多少は慣れた。こちらはしっかりと腰にタオルを巻く。

 肌にまとわる熱気は、確かに少しぬるかった。換気扇が回っているし、窓が少し開いていることもあるのだろうけれど、張られたお湯に手で触れてみると、確かに心地よい温度だ。

「えへへ……暑い日にはこういうのもいいねぇ。それじゃあ、今日もお願いしますっ」

「あやめちゃん、人に洗ってもらうの好きだねー……。家族がそうだったの?」

「んー……別に。彩織ちゃんにやってもらえるから、ね? 意味があるわけでさ」

 椅子に座ったあやめが、首を回して僕を見ながらそう力説する。なんとなく分かる気もするなぁ、と相槌を打って、いつものようにシャワーで髪を濡らす。温度は少しぬるめにした。

「ひゃっ! っ、あははっ、ちょっと冷たい……!」

「慣れれば気持ちいいから、ちょっとだけ我慢ね」

「なんかそれっ……! えっちな意味に聞こえ──いてっ」

「人が真剣にやってあげてるのにさぁ……」

 含み笑いで軽く頭を叩きながら、僕はそのままシャンプーを泡立てる。マッサージするように指を動かしていって、リラックスしたあやめの顔を見るのが、ちょっとした楽しみだ。お風呂のときだけじゃなくて、寝る前のスキンシップとかにもやってるし。正直、癒しになる。

「はい、腕。大きく上げてくださーい」

「ばんざーい」

 流れるような手順でリンスまで終わらせる。手触りの良い髪を軽くまとめて、今度は身体を洗う体勢に入った。本人の強い希望で、僕の手で洗ってほしいらしい。数回目とはいえ恥ずかしいものだ。まぁ、最後には僕も洗ってもらうから、ぶっちゃけお互い様ではある。

「あやめちゃん、本当に肌すべすべだね」

「でしょでしょー。気持ちいい?」

「……あとで抱きしめさせてほしい」

「彩織ちゃん素直だなぁー……。えへへぇ」

  ボディーソープの甘い匂いが鼻を香る。泡が余計に手のひらを滑らせて、それがなおさら心地良さを増していた。適度な温かさと柔らかさに触れていたくて、同じところを何度も洗う。

「流すよ」

「うん。次は私ねっ」

  付いた泡を流しきらないまま、あやめは即座に立ち上がって僕を椅子に座らせる。足元にあるフェイスタオルは見ないふりをした。油断しすぎ……。僕じゃなかったらどうするんだろう。

「彩織ちゃん、冷たい?」

「ううん、大丈夫」

「じゃあ、頭いくねぇ」

  細っこい指先で掻き回すように撫でていく。優しいというよりは少し手荒で、加減を知らない子供らしさがそこにあった。同年代の幼馴染……のはずなのに、たまに親子と錯覚する。

……すっぽんぽんなのを気にしないままのところとか。

「流すねっ。そしたらリンスやるからね」

「はぁい」

  流すのも豪快だ。水圧の強さを肌に感じながら苦笑する。

  「泡が出ない魔法のシャンプーだよっ。すごくヌルヌルするんだよっ」と言われて、頭をわしゃわしゃと掻き回された。謎に髪を立たせて遊ばれながら、いよいよボディーソープ。

「じゃあ彩織ちゃん、ばんざいしてね」

「はい」

「えへへ、素直だ……。洗うねー」

  ちょこんと立てた泡を僕の肩に乗せると、そこから手のひらで伸ばしていく。

自分が洗うのとはまた違う感覚だった。触られているという感じが大きい。

「これ、手で洗うより、私の身体で洗ったほうが早いのかな」

「……変なこと言わないで。ただでさえ裸なのに」

「へっ……? あ、タオル持ってなかった……」

  気付くのが遅い。

「でもまぁ、私、おっぱい小さいから。大丈夫っ」

「いや、そういう問題? 抵抗ないから大丈夫なの……?」

「大丈夫だよっ! 一緒に抱き合って寝てる仲じゃんっ」

「そういう問題じゃないですっ。タオル巻いてね」

「はぁー……」

 なんで溜息を吐かれなければいけないのだろうか。

 それでもあやめは楽しそうに笑うと、僕の身体に付いた泡を適当に流してから、勢いそのまま浴槽に飛び込んだ。無邪気な笑みと伸ばされた手が照明に透けて、湯気に隠れていく。

「えへへ、くっついちゃった」

 後を追って沈む僕に、彼女がぴたりと身を寄せた。浴槽に足を伸ばしながら、かろうじて見えているくらいの半透明を、逃さないように抱きしめる。それは確かに、温かかった。

「あやめちゃん、そのうち暑くなったから出る、って言うのに一票」

「ううん、違うよ。暑くなったからもう出よう? って誘うのが正解ですっ」

  屁理屈だなぁ、と笑いながら、もう少しだけ強く抱きしめる。彼女が隠しているのは身体の前だけ。水中越しにも素肌の感触はよく分かって、柔らかいな、としか思えなかった。

  それなのに透けているのがおかしくて、頭がこんがらがりそうになって、目をつぶりながら天井を仰ぐ。何も考えていないのに、眦がじわりと滲んで痛いような、そんな気がした。

「……彩織ちゃん」

「うん?」

「好きって言って。私のこと」

「なんで」

「言ってほしいから。私も言う」

  顔を上げて、上目遣いで僕を見る。はしゃぐような声でもなくて、沈みきった声でもなくて、ただひたすらに澄んだ、反響した、優しい声音だった。考えていることは、きっと同じだった。

「──昔っから大好きだよ、あやめちゃん」

「うん、私も、彩織ちゃんのこと大好き」

  一言二言、似たような言葉を、また繰り返す。それに意味はほとんどなくて、ただ、お互いの自己満足のような気がした。気恥ずかしさよりも勝る充足感が、手足の先を温めていく。

「……彩織ちゃんのなか、落ち着くなぁ」

「僕も、あやめちゃんを抱いてると、落ち着くよ」

「なんか、今年の夏は──いちばん仲良しだね。彩織ちゃんと会えて、恋人になれて、一緒にいられてるから。あの四年間を一気に取り返したみたいな、そんな感じがしてるんだ」

  そこまで続けて、あやめは気の抜けた欠伸を漏らす。身体が沈みかけるのを抱き直しながら、伝染した欠伸を噛み殺した。

「……そろそろ出る?」

  彼女に気を遣われたと気付いたのは、三秒後だった。




 
  眠くなったから部屋に行ってるね、という嘘は、みんなにはとっくに見抜かれているのだろうか。もはや何回目かの嘘か分からない。けれども騒がしい居間に寝転がっていたあやめの様子に、僕もあてられてしまった……というのが正直なところだ。夕食は少し、喉に詰まった。

  布団の上で猫のように丸くなっている彼女を横目に、僕は日記帳へと筆を走らせる。等身大の想いを書き綴って、結びの句点からペン先を離して、安堵の吐息とともにノートを閉じた。

「あやめちゃん、眠い?」

「……ちょっとだけ」

 窓の向こうが暗くなったから、昼間よりも、彼女の姿がよく見えた。座卓の上には、数時間前に置いたばかりのラムネ瓶とビー玉が、静止しながら蛍光灯の白を煌々と映している。

「ねぇ、このビー玉さ、まだあやめちゃんの名前を書いてないよね」

「……あっ。書く。マジックどこ?」

「ほら、これ。持ってきといたから」

「えへへ……マジックで書くときってなんか緊張するなぁ」

 さっきまで眠たがっていたのが嘘のように、あやめは僕の隣に肩を寄せて座る。細い指先でペンを持ち、ビー玉を押さえながら、真剣な顔つきで筆先を硝子の上に滑らせていった。

 瞬きすらしない横顔が、黒い髪に透けて見える。目線がわずかに動くばかりで、これだけ集中している彼女の面持ちを、未だに僕は、あまり見たことがないような、そんな気がした。

「できたっ」

 小さな手に乗せた小さなビー玉に、崩れた字。たどたどしい筆致で、乱れていて、お世辞にも上手いとはいえないけれど──そこに込めた感情は、安堵の笑みとともに伝わってきた。

「彩織ちゃんも、書いて」

「えっ?」

「お守りにするから。お父さんに会った時に、自慢するの」

「……じゃあ、ちゃんと成仏できるお守りだね」

「うんっ」

 屈託のない笑みで、あやめは笑う。明日が彼女の命日だ。すべて清算して送り出すのが、僕の役目なのだから──そう、これでいい。父親に会えると、嬉しそうに話してくれているぶん、もう現世に未練はないのだろうなと思った。あとはもう、心の整理をつけておくだけだ。

 彼女から受け取ったペンを片手に、もう一つのビー玉を手繰り寄せる。硝子に歪んで映る二人の顔が、やはり、照明の白に掻き消されがちだった。爛々として、少し眩しい。

「……ごめん、手が震えちゃうから押さえてくれない?」

「もー、彩織ちゃんは緊張しいで甘えんぼだなぁ」

あやめは僕の背後に移ると、そこから身体を寄せて、包み込むように手を握る。首筋を撫でる毛先がくすぐったくて、けれどもなんとか我慢しながら、温かい感触に意識を向けた。

「大丈夫?」

「うん、おかげさまで」

 触れているだけで、落ち着くような気がした。それは今だけじゃなくて、昔から。 

「……書くね」

  彼女が息を呑む音も、よく聞こえる。軽く押さえられた優しさを運ぶように、少しだけ重い手でペン先を動かした。漢字で書くのは難しそうだから、あやめに合わせて、平仮名。

「どうかな」

「うん、いいかもねっ」

  お揃いだねぇ、と、二つのビー玉を手に笑う。これだけありふれた存在が宝物になるなんて、不思議な感じだ。とはいえ思い出と呼ぶには、あまりにも儚すぎる。それは子供の頃、大切にポケットに入れていた、あの蝉の抜け殻にも、どこか似ていた。

「……ねぇ、お布団、入ろ」

「ふふっ、集中したら疲れちゃった?」

「えへへ、そうかもしれないねぇ」

  ビー玉を動かないように座卓へ置くと、あやめはそのまま僕の膝の上へ寝転がる。甘えんぼなのはどっちだか、と笑いながら、梳くような手触りの髪越しに、頭を優しく撫でた。

「よっと」

「わっ……!?」

  しっかり抱き抱えながら、僕は立ち上がりざまに布団へと向かう。本当は膝枕をしてあげても良かったのだけれど、顔を見ていたら、無性にくっつきたくなった。それだけの話だ。

  寝転がらせて、手を絡める。目線が合うのも逸らさないまま、お互い少しはにかんで、なんとはなしに足も絡めた。お風呂に入っていた余韻なのか、肌はまだ微かに火照っていた。

「……まだ九時にもなんないよ?」

「じゃあ、それまで抱きついてようか」

「彩織ちゃん、ぎゅーっしてるの好きだねぇ」

「……落ち着くんだよ、これ以上なく」

「でも、あっちいんだもん」

  そう言いながら、あやめは絡めていた手をほどいて、僕の背中に入れてくる。確かな温もりを持つそれが、柔らかさとともに背筋を優しく撫でていった。まるで陽だまりのようだ。

「彩織ちゃんの肌、ひんやりしてて気持ちいね」

「あやめちゃんはこんなに温かいのにさ」

「えへへ、くすぐったいから触っちゃ嫌だよ」

  手のひらを温めていく彼女の体温が、僕にはやはり心地よい。じっと触れているだけでも、意識が微睡んでいくようだった。睡魔が目蓋を押さえていって、それを必死に払い落とす。

「彩織ちゃんはもう、ドキドキしないの?」

「慣れたよ、流石にね」

「可愛いなって、思ってくれてる?」

「……そりゃあ、昔から」

  彼女は何も言わずに目を細めると、そのまま指先を絡めた。抵抗も反応もしない。それが自然とでも言うような、そんな、日常的な行動。ただ、胸の奥は、温かくなった。

「──んっ」

  ついばむように唇を尖らせて、あやめは不意に重ねてくる。悪戯をした子供のような、或いは蕩けたような笑みを洩らしながら、彼女は小さな歯を見せて、また指先に力を込める。

「あやめちゃん、もしかして、キスが好き?」

「んー……気分だよ、気分っ」

「僕の顔を見てたら、キスしたくなっちゃうってこと?」

  うん、と、迷いなく頷いた。キス……ではないけれど、無性にあやめを抱きしめたくなるのは、あれもきっと同じなのだろう。甘えられるし、甘やかせる。手を握るのも、たぶん一緒。

「……彩織ちゃんからは?」

  節操なく甘えてくる。一週間前の自分なら、きっと恥ずかしがって何もできなかっただろう。でも、変わった。変わらざるを得なかった。受け入れてくれたのは、他ならぬ彼女自身だ。

  目蓋を閉じて、顔を寄せる。唇が触れて、柔らかい感触がした。ぬるい吐息が漏れた。泡沫が、空気の海に浮かんでいった。

一秒では終わらない。三秒、五秒──胸の奥が苦しくなって、そのたびに頭上で泡が爆ぜていく。朦朧としかけた脳が、せめて息継ぎをしろと言ったから、泡沫はそのまま酸素を吸った。 「……これで、満足かな」

「……えへ、ボーッとしてきちゃった」

  困ったように二人で笑う。心臓が捕食に喘いでいる。絡めた指先の脈が、馬鹿みたいに早くなっている。回らない頭で、今はお互いに眠いんだ、ということだけを理解していた。

「彩織ちゃんさ、子供の頃……」

「うん?」

「寝る時、どんな歌を歌ってもらった?」

「……蝶々の歌。歌詞は覚えてないけど」

「蝶々?」

「うん。メロディはなんとなく覚えてる」

  そっか、と呟いて、あやめはそのまま目を閉じた。やがて口ずさんだメロディは、少し聴いただけでも分かる、適当なもので──僕の記憶にあるものではないけれど、でもどこか優しくて、温かくて、白い眩しさみたいに、懐かしいような気がした。

「えへへ、彩織ちゃん、おねむだねぇ」

  とん、とん、という規則的な感覚が、僕の意識を引きずり込んでいく。明日が最後なのだから、せめて今日くらいは夜更かししていたいのに。そんな想いも虚しく、いつの間にか寝てしまっていた。隣の気配は、ずっと動かないままだった──。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ラストグリーン

桜庭かなめ
恋愛
「つばさくん、だいすき」  蓮見翼は10年前に転校した少女・有村咲希の夢を何度も見ていた。それは幼なじみの朝霧明日香も同じだった。いつか咲希とまた会いたいと思い続けながらも会うことはなく、2人は高校3年生に。  しかし、夏の始まりに突如、咲希が翼と明日香のクラスに転入してきたのだ。そして、咲希は10年前と同じく、再会してすぐに翼に好きだと伝え頬にキスをした。それをきっかけに、彼らの物語が動き始める。  20世紀最後の年度に生まれた彼らの高校最後の夏は、平成最後の夏。  恋、進路、夢。そして、未来。様々なことに悩みながらも前へと進む甘く、切なく、そして爽やかな学園青春ラブストーリー。  ※完結しました!(2020.8.25)  ※お気に入り登録や感想をお待ちしています。

姉らぶるっ!!

藍染惣右介兵衛
青春
 俺には二人の容姿端麗な姉がいる。 自慢そうに聞こえただろうか?  それは少しばかり誤解だ。 この二人の姉、どちらも重大な欠陥があるのだ…… 次女の青山花穂は高校二年で生徒会長。 外見上はすべて完璧に見える花穂姉ちゃん…… 「花穂姉ちゃん! 下着でウロウロするのやめろよなっ!」 「んじゃ、裸ならいいってことねっ!」 ▼物語概要 【恋愛感情欠落、解離性健忘というトラウマを抱えながら、姉やヒロインに囲まれて成長していく話です】 47万字以上の大長編になります。(2020年11月現在) 【※不健全ラブコメの注意事項】  この作品は通常のラブコメより下品下劣この上なく、ドン引き、ドシモ、変態、マニアック、陰謀と陰毛渦巻くご都合主義のオンパレードです。  それをウリにして、ギャグなどをミックスした作品です。一話(1部分)1800~3000字と短く、四コマ漫画感覚で手軽に読めます。  全編47万字前後となります。読みごたえも初期より増し、ガッツリ読みたい方にもお勧めです。  また、執筆・原作・草案者が男性と女性両方なので、主人公が男にもかかわらず、男性目線からややずれている部分があります。 【元々、小説家になろうで連載していたものを大幅改訂して連載します】 【なろう版から一部、ストーリー展開と主要キャラの名前が変更になりました】 【2017年4月、本幕が完結しました】 序幕・本幕であらかたの謎が解け、メインヒロインが確定します。 【2018年1月、真幕を開始しました】 ここから読み始めると盛大なネタバレになります(汗)

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

校長先生の話が長い、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。 学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。 とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。 寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ? なぜ女子だけが前列に集められるのか? そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。 新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。 あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

その男、人の人生を狂わせるので注意が必要

いちごみるく
現代文学
「あいつに関わると、人生が狂わされる」 「密室で二人きりになるのが禁止になった」 「関わった人みんな好きになる…」 こんな伝説を残した男が、ある中学にいた。 見知らぬ小グレ集団、警察官、幼馴染の年上、担任教師、部活の後輩に顧問まで…… 関わる人すべてを夢中にさせ、頭の中を自分のことで支配させてしまう。 無意識に人を惹き込むその少年を、人は魔性の男と呼ぶ。 そんな彼に関わった人たちがどのように人生を壊していくのか…… 地位や年齢、性別は関係ない。 抱える悩みや劣等感を少し刺激されるだけで、人の人生は呆気なく崩れていく。 色んな人物が、ある一人の男によって人生をジワジワと壊していく様子をリアルに描いた物語。 嫉妬、自己顕示欲、愛情不足、孤立、虚言…… 現代に溢れる人間の醜い部分を自覚する者と自覚せずに目を背ける者…。 彼らの運命は、主人公・醍醐隼に翻弄される中で確実に分かれていく。 ※なお、筆者の拙作『あんなに堅物だった俺を、解してくれたお前の腕が』に出てくる人物たちがこの作品でもメインになります。ご興味があれば、そちらも是非! ※長い作品ですが、1話が300〜1500字程度です。少しずつ読んで頂くことも可能です!

泥々の川

フロイライン
恋愛
昭和四十九年大阪 中学三年の友谷袮留は、劣悪な家庭環境の中にありながら前向きに生きていた。 しかし、ろくでなしの父親誠の犠牲となり、ささやかな幸せさえも奪われてしまう。

処理中です...