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九月二日

プラトニック、と言ったけど、

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目覚めてすぐに、それは昨夜の答え合わせだと思った。正直、あまり思い返したくない話、ではあるのだけれど、でも、そう感じた。『好きになる気持ちと比例していくみたいに』、症状が進んでいく。あやめが聞かせてくれた本音が、あの安堵の笑みが本物だったのだと確信できて、少しだけ嬉しくなる。いま、僕に抱きついて離れない彼女の姿が、そう語っていた。

 薄い曙光の眩しさが、いつも通りの、あの開きっぱなしの窓から射し込んでくる。それが瞳を焼いてきて、普段なら遮ってくれるはずのあやめの姿は、一瞬、いるかも分からないほどに淡く、透けていた。今にも消えてしまいそうな儚さが、それでもやはり、綺麗だった。

 お互いの吐息がかかるほどに距離が近くて、重さで痺れた腕をゆっくりと持ち上げながら、その黒い髪を優しく撫でる。暑苦しいのか、少しだけ汗で貼り付いていた。でも、手触りの良さは変わらない。わずかに早まる鼓動を感じつつ、僕は一人で笑みを洩らす。

 ……どうすれば、あやめのことを安心させてやれるだろう。今までと同じように、では、たぶん駄目だ。恋人としての付き合い方。それが彼女の唯一の願いだったのだから、それを叶えてやれるのは、やはり、僕しかいない。この数日、なんとか一緒に暮らしているけれど──せめて今日くらいは、何も恥ずかしがらずに、純粋に楽しんでいたいなと、そんなことを思った。

「早く起きてほしいなぁ……。そうしたら長い時間、一緒にいられるのにな……なんてね」

 耳元で囁いて、でも恥ずかしくなって、すぐに顔を離す。直前の決意、既に崩壊らしい。

 ……あやめが起きるまで、もう少しだけ、一緒に寝ていようかな。

 目を閉じる。

 吐息が聞こえる。

 だんだんと離れていく意識に従いながら、僕はまた、眠りに落ちた──。

 



 次に目が覚めたのは、あやめの寝起きの声が聞こえた時だった。子供が洩らすような、そんな声。自分が思うよりもすんなりと意識が覚醒して、焦点の合わない目を彼女のほうに向けた。

「……彩織ちゃん、起きた?」

「うん。あやめちゃんの声で起きた」

「私、そんなにうるさくない……」

 不満げに言いながら、いつの間にか抱きついていた僕の腕に顔を寄せてくる。少しだけドキリとしたけれど、恥ずかしがるな、恥ずかしがるな、と、心のなかで何度も繰り返した。

「ぐずってるあやめちゃん、子供みたいで可愛いね」

「……子供じゃなくて、おねーさんだもん」

 あやめがお姉さんって、あまり想像できないな。でも無邪気な性格だから、どうせ年下とも一緒になって遊ぶ子だと思う。寝起きはこうやってぐずってるけど、まぁ、ご愛嬌かな。

 数分して目が覚めてきたのか、組んでいた僕の腕から手を離しつつ、そっと起き上がる。

 それから一通り自分の身体を眺め回すと、一瞬だけ顔が曇って、でもすぐに笑い出した。

「私、彩織ちゃんのこと、好きすぎかも」

「……うん、思った。昨夜言ってたこと、分かった気がする」

「今までも我慢してなかったけど、今日はもっと我慢しないから」

「いいよ、あやめちゃんの言うことならなんでも聞く」

「……キスしてって言ったら、してくれるの?」

「……いい、よ」

 起き上がりながら告げた、たどたどしい僕の答えに、あやめはその透明感でも分かるほど、頬に紅潮の色を差していった。自分が言ったんでしょ、と追撃してみると、本気で恥ずかしかったのか、僕と目を合わせてくれなくなった。冗談なら冗談だけにしてほしいよ。

「……されるのは嫌だけど、するのはいいよ。じゃなきゃ私、今にでも消えちゃうよ」

 それは困るなぁ、と照れ隠しに笑いながら、どうしたものかと思案する。ここは僕から踏み込むべきだと思ったのに、まさか自分が待ちの立場になるとは。これも逆に恥ずかしい。

 あやめはじっと僕の目を見つめると、無言のまま、布団に手をついて押し黙っていた。その気まずさ、というよりも、張り裂けそうなほどうるさい心臓の鼓動を許しているのが、なんだか気恥ずかしくて、ときおり目を逸らさずにはいられないほど、羞恥心に襲われていた。

「……目だけつぶっててほしい」

 言われた通りに目をつぶる。いちいち段階を踏んでこんなことをするから、余計に恥ずかしくなるんだ。そう文句も言いたくなったけれど、喉の奥に堪えて我慢する。視覚がなくなったからだろうか、耳に届く音がやけに鋭敏に聞こえるような気がして──あやめの少し浅い呼吸とか、服と布団の衣擦れとか──そういうものがどこか蠱惑的な雰囲気を生み出していた。

 窓から射し込む、朝の柔らかな陽だまりに包まれて、けれどどこか暑苦しくて、焦らされているような、急かしたいような、そんな気持ち。うるさい心臓をかなぐり捨てることができれば、まだこの刹那的な瞬間も、耐えきれるのだろうと、そんなことを密かに思った。

「……いくよ?」

「……うん」

 掻き消えそうな声。何度目かの深呼吸と、衣擦れの音と、微かに聞こえてきそうな鼓動。目をつぶっていても気配は分かる。息は止めているのか、ときおり小さく喉が鳴っていた。

「──っ、ん……」

 少しだけ漏れた声が、至近距離で聞こえる。どこか淡くて温かい、けれど、すぐに消えてしまうもの。唇にほんの少し触れた、その柔らかい感触は、一瞬だけじゃなくて、しばらくそこに留まっていた。やがて離れても、余韻がまだ、触れた指に熱を帯びて残っている。

「えへへ……」

 離れていく顔にピントを合わせながら、はにかむ彼女の面持ちを呆然と眺めていた。日射しが射し込んで、それがあやめの身体を照らしていって、ただでさえ見えなくなりそうなものが、余計に、まるで空気そのものに融け消えてしまったような──。そのたびに心臓がひときわ強く鼓動する。すぐに安堵しても、拭えない心地の悪さ。温もりを感じたいはずなのに、どこか背筋が寒くて、わけも分からず泣いてしまいそうな気がした。それを隠そうと彼女に抱きつく。

「彩織ちゃん、甘えんぼさんだねぇ」

「……ん」

 一言くらい言いたかったのに、喉が締まって何も言えなかった。何を言おうとしたのかも、次の瞬間には、忘れてしまった。無言のまま抱き返してくれるその温もりは、ずっと変わらない。だからこそ、ふと見ても、目を凝らしても、はっきりと捉えられないことが辛くて、ほんの数日前までのあの記憶が、実体とともに陽炎のように消えてしまいそうな、そんな気がした。

「……今日くらい、彩織ちゃんと甘えたって、許されるもんね」

 水底で揺らめく、そんな静けさのような声だった。

 



「──暑くなってきたから、ラムネが飲みたいな」

 あやめがそう洩らしたのは、お互いに抱き合って、だんだんと募る蒸し暑さのなかで微睡んで、一時間近くが経った頃だった。とうに昇った陽が、畳を淡く照らしている。上気した頬と締まりのない顔で笑いながら、催促するように、額を僕の腕にこすりつけてきた。

「冷蔵庫で冷やしてるから、持ってこようか」

「うんっ。ついでにお外で飲もう?」

 乱れた前髪を直してやりながら、見失わないようにと固く手を繋ぐ。完全にお互いの自己満足でしかないけれど、こうしていれば、不安も何もかもがなくなるような気がした。

 形容しがたい嬉しさで笑ってしまいそうになるのを抑えながら、一人を装って階下に降りる。案の定、居間には小夜がいて、今日は珍しく課題をやっているらしい。祖父母は部屋だろう。

「おー、彩織ちゃん起きたん。おはよ」

「おはよう。課題やってるんだ」

「ウチな、気付いたんよ。本気出せば早いってこと」

「もう夏休み終わってるけどね」

 小夜ちゃんは気まぐれだなぁ、と笑うあやめに合わせて僕も笑いながら、冷蔵庫からビニール袋ごとラムネ瓶を取り出す。「ちょっと散歩行ってくるね」とだけ言うと、彼女はそれだけであやめと一緒にいると察したのか、「彩織ちゃんのこと大好きやなぁ、ほんとに」と笑った。

「私がいなくなっても、彩織ちゃんのこと取っちゃダメだよ」

「……小夜はあやめちゃんがいなくなったら、僕のこと狙ったりしないよね?」

「へっ……? いや、そんなことできんもん。あやめちゃんの彩織ちゃんやろ」

「だってさ。良かったね、小夜が変な趣味とか持ってなくて」

「……あやめちゃんが言ったんかそれ。突然なに言うんかと思った」

 本当だよね、と苦笑しながら、手のひらの感触とともに隣を見る。意地悪そうに頬を緩ませたその姿が可愛らしくて、ラムネ瓶が袋のなかでぶつかり合う音も、この透明感に似ていた。

「じゃあ、行ってくる。あやめちゃんのことは心配しないで」

「何も心配しとらんから、せいぜい怪しまれずにね」

 うん、と答えて、そのまま玄関を抜ける。歩くたびに、ラムネ瓶が音を立てる。隣の麦わら帽子が、ぽつりと洩らした。

「風鈴みたいだね」

涼しそうに目を細めた半透明の向こうに、真っ白い入道雲が立ち昇っている。晩夏、のはずなのに、盛夏にも見紛いそうなほど真っ青な空。寂しさなど微塵も感じない、あの入道雲。流石に蝉時雨は弱くなってきたような気もするけれど、焼けるようなアスファルトの暑さは変わらない。けれど、水路を流れる水の勢いは前よりも弱くて、それがなんだか、物足りないのだ。

「こっちの道ってことは、彩織ちゃん、神社に行くの? それとも川?」

「うん、神社と川。目が見えるようになってからは行ったことないでしょ」

「えへへ、気が利くなぁ……。涼しいし一石二鳥だねっ」

 向日葵にも似た、満面の笑み。けれどそれは、眩しすぎる日射しのせいで、本当に白飛びしてしまっていて──やはり一瞬だけ、反応が遅れてしまう。仕方ない、という気持ちと、一種の罪悪感がせめぎ合うような、そんな感触を拭いたくて、また手を繋ぎ直した。

「わー、涼しー……」

境内に入ると、それまでの眩しさが嘘だったかのように日射しが抑えられる。枝葉の影から落ちる木漏れ日だけが石畳を照らしていて、それを避けて歩きながら、ふと隣を見た。

「ねぇねぇ彩織ちゃん、いま服とか扇いだら、すっごく涼しいんじゃない?」

「そりゃ涼しいけどさ……。あやめちゃん、そのワンピースで裾から扇ぐつもり?」

「……あっ、パンツのこと気にしてる? 恋人なのにぃ? えへへっ」

「だって見たことないもん、ドキドキするでしょ。そうじゃなくても目のやり場に困るよ」

「彩織ちゃんはシャイだなぁ……。やっぱり私とえっちなことしとく? いいよ?」

「反応に困るからそういうのやめて……。意識しちゃうと気まずいんだよ」

 今のままで充分、幸せ。そうは思いつつも、プラトニックって、恋人としてどうなのだろうか。たった一回きりの関係なら、そんなこと、しないほうがきっと、いいのだろうか。思いついたことを漠然と考える僕に対して、あやめは胸元を覗き込みながら、「白だっ」と笑っている。

「あっ、曼珠沙華」

 白だったり赤だったり、笑ったり驚いたり、本当に反応が豊かだ。参道の傍に何輪か集まって咲いているのを、あやめは立ち止まりながらじっと見つめている。軽風で落ちてくる木漏れ日に何度か目を細めながら、彼女はやがて、はにかむように笑いながら僕を見上げた。

「っへへ、あのね……。曼珠沙華、前よりもずっと鮮やかな色してる。そしたら今ね、気が付いたんだ。昨日よりも色が見えるなぁって。あまりに自然すぎて、気付いてなかった」

 馬鹿馬鹿しくて面白いねぇ、と喉を鳴らすあやめがとても愛おしくて、辛いとか悲しいとか、そういう気持ちにもならなかった。ただ、自分のことのように嬉しいというか、ようやく四年越しに、自分を見てもらえたような気持ちになれた。良かったね、と、心から言えた。

 



「やっぱり暑い日は、ラムネが美味しいねっ」

「……なんか、前も聞いた気がする、そのセリフ」

「そうっ。あれは駄菓子屋さんでラムネを買った日のこと!」

「あ、その日ね。思い出した。神社の代わりに行ったよね」

 裸足になって足だけを水に浸しながら、適当に転がっている岩の上に腰掛けて、ラムネ瓶を傾ける。炭酸が喉を洗って、ビー玉越しに炎陽が射して、足の指先は、締まるようにくすぐったい。せせらぎの音を聞くともなく聞きながら、水面に落ちる枝葉の影を見つめていた。

「あやめちゃん、昔みたいに水遊びしないの?」

「えー……? そこまで子供じゃないよ。こうしてるだけで充分かなって」

「大人になっちゃったなぁ……。昔は服びしょびしょにして帰ってたのに」

「余裕ってやつだよ、彩織ちゃん。目の前にお菓子があっても耐えられるのが大人」

「……袋のなかにカルパスあったけど、食べる?」

「食べるっ」

 やっぱり、いつまで経っても子供だ。こういうところは、四年前から何も変わっていない。それがあやめのいいところだし、愛嬌がある、というのは、昔から分かり切っているけどね。

 半分近くまで飲んだラムネ瓶を、陽に透かしてみる。ビー玉がカランコロンと音を立てて、水底から見上げた水面のような揺らめきが、岩の表面に落ちていた。まるで、夏の落とし物。

「彩織ちゃん、ゴミ」

「うん」

 包装を袋のなかに捨てる。小動物みたいに食べているあやめを隣で見ながら、相変わらず真新しいことは一つもなくて、昔と同じことをなぞっているなと、そう感じた。いつになっても、何年経っても、去年の夏休みの繰り返し。それでも飽きないんだから、変なものだ。

 実際のところ、やはり、一緒にいられるだけで充分なのだろう。何をするかなんて関係なくて、ただ一緒にいて、何回も聞いたような話をする。そこがお互いの安息の地だから。

「ラムネ、飲み終わったらさ、岩に叩きつけて割ってもいい?」

「……危ないから止めときなよ」

「離れたところから、ぽーんってさ。ビー玉が取りたいのっ」

 ビー玉。またビー玉だ。この間は、ビー玉は取らなかったんだっけ。だったら今日くらいは、ちょっと遊んでみるのも悪くないかな。そんなことを思いながら、残りを一気に飲み干す。

「あー、頭がキンキンする……」

「そういう時はね、冷たいものをおでこにくっつけるといいんだよ」

「つめたっ……」

 飲み始めよりは少しだけぬるくなったラムネ瓶を、あやめは僕の額に押し付ける。「どう?」といたずらっぽく笑うその顔に気が取られて、次の瞬間には何も気にならなかった。

「あやめちゃんの笑う顔のほうが可愛いから、すぐ治った」

「えー、嘘ばっかり……。私のこと大好き──ひゃっ……!」

 お返し、と笑いながら、僕も同じようにやり返す。満更でもなさそうだ。

「えへへ……。そんなことするなら、逆にくっついちゃうもんねぇ」

「あっついよ……。あやめちゃんのほうが甘えんぼさんじゃない?」

「そういうこと言うと、瓶で彩織ちゃんのこと叩いちゃうからねっ」

 演技じみた彼女の怒り顔を横目に、僕は手を繋ぎ直して川の浅瀬に立つ。空になったラムネ瓶を片手に持ちながら、「ビー玉。取りたいなら、どこで投げる?」と問いかけた。

「んー……。えいっ」

「ちょっ……」

  少し離れた岩に向かって適当に投げつける。ぱりん、という小気味よい音とともに、すぐに底へ沈んでいった。あやめはそれを見るなり嬉しそうに笑うと、僕の手を引いて駆け寄る。

「危ないよ、裸足じゃん」

「だいじょーぶっ。……ほら、取れた!」

  前かがみになって手を突っ込む。割れた硝子に触れないようにしながら、そっと水底で揺れているビー玉をつまみ上げた。

  ……それよりも、肩紐がゆるゆるのワンピースで前かがみになることとか、裾をまくらないでびしょ濡れにしていることとか、気付いてるのかな、あやめちゃんは。気付いてなさそう。

「良かったね。そういうとこ、やっぱり子供らしいよ」

「でも可愛いからいいんでしょ?」

「まぁね」

  照れ隠しに笑いながら、僕も適当な岩に瓶を投げつける。近寄って取ろうとしたら「危ないよ」なんて引き止められたけど、たぶん天然でやってるのだろうか。そこも愛嬌なのかな。

「ほら、取れた。お揃いだね」

「お揃い……! あとで名前とか書いとこっと」

「……なんで?」

「私との思い出ってことで! 捨てちゃダメだよ?」

「ふふっ、捨てないよ。ありがとう」

  お互いにビー玉を大事そうに握りしめながら、届かないものを得た子供のような嬉しさで笑う。けれどやることがなくなってしまって、足元で割れているラムネ瓶の欠片が、どこか物悲しいような、あの空蝉にも似た寂寥感を抱いていた。触れたら、もっと割れてしまいそうな。

「……あやめちゃん、いま何時?」

「えっ? 分かんない。お昼よりは前だよね」

「だったら、もう少しここで涼んでこう」

  歩くたびに波が立って、耳が涼しい。砂利の上で足だけ水に入れていると、相向かいにあやめが座ってきた。透けている景色もろとも抱きしめるような形で、なんだか妙な感覚だ。

「彩織ちゃん、暑くない?」

「水が気持ちいいからギリギリ暑くない」

「私はね、脱ぎたいくらいね、あっつい」

「……なんで僕のとこ来たの」

「……くっつきたいからに決まってるよねぇ」

  顔を近づけて、上目に僕を見ながら呆れたように笑う。透き通った瞳が細めた目の合間から見えて、可愛いなと思うよりも早く、そっと頭を撫でていた。本当に小動物みたいだ。

「今のあやめちゃん、猫っぽいね」

「にゃーん」

「……キスしてもいい?」

「……いい、よ?」

  不意を突かれたようなぎこちなさと、無言。そもそも僕が軽率だったな、なんて、そんな反省が頭によぎる。恥ずかしそうに目を逸らすあやめを前に、照れ隠しで、少し強く抱き直した。

「……しないの?」

「……人からはされたくないんじゃないの?」

「あー……。今は、いいかもしれないよ?」

「ふふっ、なにそれ」

  はにかむように笑った糸目が愛らしくて、やけくそ気味に唇を尖らせてくるから、少しだけ心臓が跳ねた。どうしようか、と一瞬だけ考える。閉じた目蓋が弱く震えているのを眺めながら、僕は透き通るその唇に、勢いそのまま口付けた。ほんの数秒でも、甘かった。

「……えへへ」

  余計に甘ったるい表情をして、あやめは笑いながら僕を見る。それから恥ずかしそうに首元へ手を回すと、顔を寄せて二度目のキスをした。さっきよりも少し長くて、息が詰まった。

  水音の静けさが、鼓動を際立たせる。至近距離で見つめる瞳の向こうに、泡沫と白波が現れている。自然と触れた彼女の頬は、確かに火照っていた。涼しいはずなのにな、と思った。

「──彩織ちゃんだから、もっとしてもいいよ」

涼しいはずなのに、帰る頃には、お互いの服も汗ばんでいた。

四年前とはまったく違う夏休みになった。
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