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八月三十日
それから、
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昼下がりと呼ぶには少し遅くて、夕暮れと呼ぶにはまだ早い、そんな中途半端な時間に、僕たちは閑散とした住宅地を歩いていた。傾きかけた炎陽の眩しさが、絶えずアスファルトの上を焼く。
そこに浮き出る影を、小さなサンダルが踏んでいた。それは少女のものだった。
歩幅は短い。歩調は軽い。握る右手の感触は柔和で、少しだけ暑かった。履物の裏に沁みるはずの熱さは、それほど感じていないのに。悦に入っているせいだ、というならば、きっとそうなのだろう。二人とも、同じ感情をしていた。なんとなく、そんな確信が脳裏をよぎる。
どこからか聞こえる蝉時雨の音色が、空気に反響して融けていく。二人分の靴音も、舗道に硬く鳴り響いていた。声を出すのは、なんだか気まずい。けれどこの沈黙を続けているのも、居心地が悪いような気がした。告白する時は、なんでもなかったのに。こうも意識の変化が現れるものなのか、と、少しだけ感心した。
でも、だからこそお互いに、こうした二十センチの距離感で、わけもなく押し黙っているのだろう。彼女の面持ちを一瞥するのも、今となっては気恥ずかしい。
──線路沿いの空を見る。白昼の時みたく、紺青ではなくなっていた。どこか薄ぼけた藍白で、落陽の茜が、階調を彩るように融けている。何処からか、こちらに向かってくる烏が、二羽とも優雅に羽ばたいて、少し先の電線に、そっと止まった。そこまで目線で追いながら、僕はまた、妙に気まずくなる。右手の感触だけは鮮明に感じているから、それも相まって、余計に。
「ねぇ」と告げたあやめに、烏の啼き声が重なる。一瞬だけ拍子抜けしたらしい彼女は、僕よりも気まずそうに顔を逸らして、視線を彷徨させた。その仕草がなんだか面白いから、思わず笑みが零れてしまう。
拗ねたように目を合わせてくれない少女の面持ちは、ぼやけた晩夏の夏空でも、よく分かった。半透明の肌に紅潮の色が射して、それがまた、斜陽の照るように、綺麗な色をしている。いつの間にか頭上には、あの烏が、僕たち二人を電線の上から見下ろしていた。
「……恋人になると、何が変わるのかな。関係性の違いだけ?」
視界の先にいる烏を見つめながら、あやめは独り言のように呟く。それは僕にだけ聞こえていれば充分だった。
「好き同士なら、恋人にならなくても一緒だよね。恋人にしかできないことがあるのかな。好き同士じゃできないことって、なんだろ……」
そう言いながら、彼女の歩調はやや遅まっていた。ふと僕も考え込む。
「告白って、好き同士の最終確認なんじゃない。お互いに好きってことが分かったから、今までの関係じゃできないことが、できるようになるとか」
「……キスしたり、えっちなことしたり?」
「びっくりするから、いきなりそういうこと言わないで……」
内容としては、間違っていないのだろう。けれどまさか、彼女の口からそんな言葉が出ると思っていなかった僕は、目に見えて動揺した。と胸を衝かれたように肩が跳ねたのを、照れ隠しに苦笑する。
烏が遠くで、また啼いた。悪戯っぽく頬を緩ませるあやめの面持ちが、どこか相通じているようで、憎らしい。それなのに可愛らしく思えてしまうのだから、やはり僕は、昔から変わっていなかった。
「でも、彩織ちゃんの家にお泊りはしたいな。どうせ見えないからいいもんね」
「なんか言い出しそうな気はしてたけどさ……。僕の気苦労も知らないで」
「家族の人がいるから、私のことはかまってられない?」
「そりゃあね。だから二階なら、隣の部屋には小夜しかいないよ」
「ふーん……。二人は私のこと知ってるの?」
「小夜だけに話した。僕と遊んでるのも分かってるから、毎晩『今日はどうだった?』って訊いてくるんだ。あやめちゃんのこと、見えないけど気にしてる」
「そうなんだ。やっぱり小夜ちゃん優しいねっ」
えへへ、と笑うあやめの横顔を見て、僕はほんの少しだけ、胸の内に何かが突っかかるのを感じた。けれど、それをすぐに振り払う。今はただ、目前にいる少女のことだけを、考えていたかった。浮ついているから余計に、そうとしか、感じることができなくなっているのかもしれない。恋は盲目なんて、よく言ったものだ。
──恋をして盲目になるのなら、恋さえしなければ、盲目になることもないのだろうか。彼女はどちらを選ぶだろうと、そんな、くだらないことを思う。
「ねぇ、彩織ちゃん、行ってもいい?」
右腕が引っぱられて、ちょっとだけ苦しくなる。あやめにしがみつかれたのだろう、と気が付くのにも、それほど時間はかからなかった。締まりのない顔になりそうなのを我慢しいしい、小さく笑いながら、僕は答える。
「いいけど、あんまり変なことしないでね。僕が変に思われるんだから。パーチクリンになっちゃう」
「……パーチクリン?」
「うん、パーチクリン」
上目に僕を見るあやめは、何故か不思議げに、その言葉を復唱する。丸くした目を何度か瞬かせて、それから矢庭に眦を下げると、おかしそうに吹き出した。
「……変なの」
そこに浮き出る影を、小さなサンダルが踏んでいた。それは少女のものだった。
歩幅は短い。歩調は軽い。握る右手の感触は柔和で、少しだけ暑かった。履物の裏に沁みるはずの熱さは、それほど感じていないのに。悦に入っているせいだ、というならば、きっとそうなのだろう。二人とも、同じ感情をしていた。なんとなく、そんな確信が脳裏をよぎる。
どこからか聞こえる蝉時雨の音色が、空気に反響して融けていく。二人分の靴音も、舗道に硬く鳴り響いていた。声を出すのは、なんだか気まずい。けれどこの沈黙を続けているのも、居心地が悪いような気がした。告白する時は、なんでもなかったのに。こうも意識の変化が現れるものなのか、と、少しだけ感心した。
でも、だからこそお互いに、こうした二十センチの距離感で、わけもなく押し黙っているのだろう。彼女の面持ちを一瞥するのも、今となっては気恥ずかしい。
──線路沿いの空を見る。白昼の時みたく、紺青ではなくなっていた。どこか薄ぼけた藍白で、落陽の茜が、階調を彩るように融けている。何処からか、こちらに向かってくる烏が、二羽とも優雅に羽ばたいて、少し先の電線に、そっと止まった。そこまで目線で追いながら、僕はまた、妙に気まずくなる。右手の感触だけは鮮明に感じているから、それも相まって、余計に。
「ねぇ」と告げたあやめに、烏の啼き声が重なる。一瞬だけ拍子抜けしたらしい彼女は、僕よりも気まずそうに顔を逸らして、視線を彷徨させた。その仕草がなんだか面白いから、思わず笑みが零れてしまう。
拗ねたように目を合わせてくれない少女の面持ちは、ぼやけた晩夏の夏空でも、よく分かった。半透明の肌に紅潮の色が射して、それがまた、斜陽の照るように、綺麗な色をしている。いつの間にか頭上には、あの烏が、僕たち二人を電線の上から見下ろしていた。
「……恋人になると、何が変わるのかな。関係性の違いだけ?」
視界の先にいる烏を見つめながら、あやめは独り言のように呟く。それは僕にだけ聞こえていれば充分だった。
「好き同士なら、恋人にならなくても一緒だよね。恋人にしかできないことがあるのかな。好き同士じゃできないことって、なんだろ……」
そう言いながら、彼女の歩調はやや遅まっていた。ふと僕も考え込む。
「告白って、好き同士の最終確認なんじゃない。お互いに好きってことが分かったから、今までの関係じゃできないことが、できるようになるとか」
「……キスしたり、えっちなことしたり?」
「びっくりするから、いきなりそういうこと言わないで……」
内容としては、間違っていないのだろう。けれどまさか、彼女の口からそんな言葉が出ると思っていなかった僕は、目に見えて動揺した。と胸を衝かれたように肩が跳ねたのを、照れ隠しに苦笑する。
烏が遠くで、また啼いた。悪戯っぽく頬を緩ませるあやめの面持ちが、どこか相通じているようで、憎らしい。それなのに可愛らしく思えてしまうのだから、やはり僕は、昔から変わっていなかった。
「でも、彩織ちゃんの家にお泊りはしたいな。どうせ見えないからいいもんね」
「なんか言い出しそうな気はしてたけどさ……。僕の気苦労も知らないで」
「家族の人がいるから、私のことはかまってられない?」
「そりゃあね。だから二階なら、隣の部屋には小夜しかいないよ」
「ふーん……。二人は私のこと知ってるの?」
「小夜だけに話した。僕と遊んでるのも分かってるから、毎晩『今日はどうだった?』って訊いてくるんだ。あやめちゃんのこと、見えないけど気にしてる」
「そうなんだ。やっぱり小夜ちゃん優しいねっ」
えへへ、と笑うあやめの横顔を見て、僕はほんの少しだけ、胸の内に何かが突っかかるのを感じた。けれど、それをすぐに振り払う。今はただ、目前にいる少女のことだけを、考えていたかった。浮ついているから余計に、そうとしか、感じることができなくなっているのかもしれない。恋は盲目なんて、よく言ったものだ。
──恋をして盲目になるのなら、恋さえしなければ、盲目になることもないのだろうか。彼女はどちらを選ぶだろうと、そんな、くだらないことを思う。
「ねぇ、彩織ちゃん、行ってもいい?」
右腕が引っぱられて、ちょっとだけ苦しくなる。あやめにしがみつかれたのだろう、と気が付くのにも、それほど時間はかからなかった。締まりのない顔になりそうなのを我慢しいしい、小さく笑いながら、僕は答える。
「いいけど、あんまり変なことしないでね。僕が変に思われるんだから。パーチクリンになっちゃう」
「……パーチクリン?」
「うん、パーチクリン」
上目に僕を見るあやめは、何故か不思議げに、その言葉を復唱する。丸くした目を何度か瞬かせて、それから矢庭に眦を下げると、おかしそうに吹き出した。
「……変なの」
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