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八月三十日
夏の色
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『「──夏の色って、何色なのかな」
路傍の薄茶けた泥に霞む、ひび割れた鈍色のアスファルトを踏みながら、あやめちゃんは僕を一瞥してそう零した。純白のワンピースと麦わら帽子が隣に並んで、それが目に眩しい。少女の色は、透き通って綺麗だった。
「彩織ちゃんは、どう思う?」
玲瓏たる黒曜石の眼差しが、僕を見詰める。夏の色、一体これは、何色なのだろう。昊天の紺青か、入道雲の純白か、黄昏の絳霄、あの茜は夏夕暮でなければ見られない。けれど僕にとっては、そのどれもが陳腐に思えてしまっている。奇を衒った返事がしたいわけではないのに、僕の答えは少し変わっていた。
「あやめ色、かなぁ」
「……あやめ色?」
復唱する彼女を横目に、空を見上げる。果てしもない無限の紺青には、驟雨の名残が混じっていて、爛燦と照る陽光が、入道雲の純白に融和していた。アスファルトから直に伝わる、滲むような熱さも、ときおり傍らを吹き抜けていく夏風のおかげで、それほど気にならない。むせ返るような草の匂いだった。
「なんで、あやめ色」
足元のサンダルに視線を落としながら、彼女はぶっきらぼうに言い捨てる。繋いだ手の、そのぬるい感触が、掌に擦れていった。幾度目かの夏風が首筋を撫でて冷ややかに、けれどもすぐ、日射しが燦々と降り注いでくる。所在不明の蝉時雨も、負けじと騒がしい。だからこそ僕も、それに掻き消されないようにした。いま精一杯の、想いの吐露だった。
「──僕にとっての夏は、あやめちゃんだから。これじゃ、理由にならないかな」
「ううん」と呟く彼女の声を、確かに聞いた。それだけで、充分な気持ちになれた。』
◇
──思えば僕は、三日前にも同じことをしていた。この街路灯に寄りかかって、同じように手記を綴っている。文量は、今日の方が遥かに多かった。左手は黒鉛で薄汚れているし、いつの間にか紙面には、雨跡のような汗の染みが残っている。これも数ヵ月後に見返す時は、黄ばんで小汚く見えるのだろう。
どこからともなく滲んでくる汗を、親指の腹で拭う。水滴の重さが乗る。シャープペンを持つ手が痛い。うだるような夏の暑さに辟易しながら、今朝の驟雨は何だったのだろうかと毒を吐いた。微かな水路の生ぬるい匂いにさえ、僕はもう、郷愁を感じる余裕がない。
「この踏切、やっぱりボロボロだね」
赤色灯の下に立ちながら、あやめはその硝子越しに炎陽の眼差しを浴びている。彼女の存在が地に影を落として、まだ大丈夫なのだと、どこかで安堵していた。黒と黄色の遮断桿は、やはり、ところどころ塗装が剥げていて、合間に覗く錆色が、雨ざらしの風情を物語っている。それを指先でなぞりながら、少女は懐かしそうに、ひとつ笑みを零した。
「電車は滅多に来ないから、この辺で彩織ちゃんとよく遊んでたよね。バッタ取り。水路の方にはタニシもいるし、田んぼだと──」
「カブトガニ……あれ、カブトエビだっけ?」
「──田んぼはカブトエビ、っておじいちゃんが言ってた気がする。カブトガニは……分かんないや。たぶん、どっちも同じだよっ」
あっけらかんと言い捨てて、あやめは寂れた踏切を越えていく。サンダルの裏に砂利の音を鳴らしながら、果てに見える山あいの、その向こうに霞む入道雲を追いかけているようだった。それほどなまでに、無邪気だった。紗のように透けた純白のワンピースを軽風に靡かせて、つられて遊んでいる黒髪も艶やかに、僕はそんな彼女の背姿を目で追っていた。水路の音と匂いが、段々と蔓延してくる。
「おー、水だ。まだ流れてるねぇ。……えへへっ、冷たい」
「あんまり近付くと落っこちるよ」
「大丈夫だよっ。これでも今は見えてるもんね」
控えて歩いていた僕は、水路の傍でしゃがみこんだ彼女を見下ろす。右手を躊躇なく突っ込んで、水の流れに逆らいながら飛沫を立てて遊んでいた。なんとも言えない蒸したような匂いがする。それは、雨上がりのペトリコールによく似ていた。生ぬるい、どこか埃っぽい、水のようで水ではないような匂いだ。もしかしたら、雑草の青青とした匂いかもしれないと、不意にそんなことを思う。
水路の壁には、褪せたような苔の跡が張り付いていた。泡沫かくあるべしといった風情の様で、どこからか引かれている流水が、辺りにぶつかっては融け消えてゆく。それと同時に、笹切れや藁くずのような葉が向こうから流れてくるのが見えた。水面は日射しに的皪として、ただひたすら目に眩しくて、白かった。夏の眩しさ──僕はこれを、知っている。いつか、確かに、見たことがある。そう直感すると同時に、ここで匂わないはずの、塩素の匂いを嗅いだ気がした。
「えいっ」
あやめの陽気な掛け声とともに、水飛沫が舞い散った。細やかな指先を離れたそれは、昊天の紺青に煌めいて、爽涼の気だけを残しながら、僕の頬にまとわりつく。張り付いたものを右手の甲で拭い取ると、少女は悪戯っぽく磊落に笑った。
「冷たい?」
「ちょっとだけ」
「気持ち良かった?」
「……まぁね」
「じゃあ私にもやって」
いつものように屈託のない、それこそ盛夏の向日葵のような笑顔で、あやめは昔と何も変わっていないまま──僕がそうすることを微塵も疑わないまま、たいそう楽しそうに、子供みたように、透明な目の色を爛漫と輝かせている。結局のところ僕は、昔から、そんな彼女のことが、何もかもを含めて好きだったのだ。今もそれは変わらない。変わりようがない。僕もあやめも、何も変わっていない。
日記帳を、割れたアスファルトの上に置く。彼女の隣にしゃがみこむと、その熱気と冷ややかな水路の温度が融け込んで、生ぬるさがいっそう増した。泡沫の弾け散るような水音だけが、辺りに響き渡っている。むせ返るような匂いも、どこからか朦朦と立ち込めていた。色々と綯い交ぜになったような、そんな匂いだ。
右手を手首まで水流に浸す。冷たいな、と素直に思った。指先に伝わる水の抵抗も、ときおり感じる枝葉のゴミも相まって、らしさが増している。途切れることのない水音の余韻に耳を澄ませていると、首筋を射す日射しの暑さが際立った。ひとつだけが冷たいのもなんだか気持ち悪くなってきて、僕はそのまま、酸素と熱気ほしさに手を引き上げる。水飛沫と水滴が、透明の色に煌めいていた。
「……いくよ?」
「うんっ」
「……えいっ」
あやめと同じ掛け声で、僕は隣の彼女に向けて、すぼませていた指先を開いた。水滴が離れていく感触がする。それは、ほんの微かな重さだけを残して、炎陽の白い眩しさに融け消えていくようだった。紺青の昊天と純白の入道雲を背後に、少女は嬉しそうにはしゃぎながら、真白いワンピースに作った染みも気にしないまま、眦を下げて、口元を綻ばせている。アスファルトが、透けて見えた。華奢な短躯も、水飛沫も、この笑みも、みな玲瓏たる様で夏空に降られている。
「ねぇ、彩織ちゃん」
弾むような彼女の声が、喜色をたたえて僕の耳に届く。
「次は駅、行ってみよう」
路傍の薄茶けた泥に霞む、ひび割れた鈍色のアスファルトを踏みながら、あやめちゃんは僕を一瞥してそう零した。純白のワンピースと麦わら帽子が隣に並んで、それが目に眩しい。少女の色は、透き通って綺麗だった。
「彩織ちゃんは、どう思う?」
玲瓏たる黒曜石の眼差しが、僕を見詰める。夏の色、一体これは、何色なのだろう。昊天の紺青か、入道雲の純白か、黄昏の絳霄、あの茜は夏夕暮でなければ見られない。けれど僕にとっては、そのどれもが陳腐に思えてしまっている。奇を衒った返事がしたいわけではないのに、僕の答えは少し変わっていた。
「あやめ色、かなぁ」
「……あやめ色?」
復唱する彼女を横目に、空を見上げる。果てしもない無限の紺青には、驟雨の名残が混じっていて、爛燦と照る陽光が、入道雲の純白に融和していた。アスファルトから直に伝わる、滲むような熱さも、ときおり傍らを吹き抜けていく夏風のおかげで、それほど気にならない。むせ返るような草の匂いだった。
「なんで、あやめ色」
足元のサンダルに視線を落としながら、彼女はぶっきらぼうに言い捨てる。繋いだ手の、そのぬるい感触が、掌に擦れていった。幾度目かの夏風が首筋を撫でて冷ややかに、けれどもすぐ、日射しが燦々と降り注いでくる。所在不明の蝉時雨も、負けじと騒がしい。だからこそ僕も、それに掻き消されないようにした。いま精一杯の、想いの吐露だった。
「──僕にとっての夏は、あやめちゃんだから。これじゃ、理由にならないかな」
「ううん」と呟く彼女の声を、確かに聞いた。それだけで、充分な気持ちになれた。』
◇
──思えば僕は、三日前にも同じことをしていた。この街路灯に寄りかかって、同じように手記を綴っている。文量は、今日の方が遥かに多かった。左手は黒鉛で薄汚れているし、いつの間にか紙面には、雨跡のような汗の染みが残っている。これも数ヵ月後に見返す時は、黄ばんで小汚く見えるのだろう。
どこからともなく滲んでくる汗を、親指の腹で拭う。水滴の重さが乗る。シャープペンを持つ手が痛い。うだるような夏の暑さに辟易しながら、今朝の驟雨は何だったのだろうかと毒を吐いた。微かな水路の生ぬるい匂いにさえ、僕はもう、郷愁を感じる余裕がない。
「この踏切、やっぱりボロボロだね」
赤色灯の下に立ちながら、あやめはその硝子越しに炎陽の眼差しを浴びている。彼女の存在が地に影を落として、まだ大丈夫なのだと、どこかで安堵していた。黒と黄色の遮断桿は、やはり、ところどころ塗装が剥げていて、合間に覗く錆色が、雨ざらしの風情を物語っている。それを指先でなぞりながら、少女は懐かしそうに、ひとつ笑みを零した。
「電車は滅多に来ないから、この辺で彩織ちゃんとよく遊んでたよね。バッタ取り。水路の方にはタニシもいるし、田んぼだと──」
「カブトガニ……あれ、カブトエビだっけ?」
「──田んぼはカブトエビ、っておじいちゃんが言ってた気がする。カブトガニは……分かんないや。たぶん、どっちも同じだよっ」
あっけらかんと言い捨てて、あやめは寂れた踏切を越えていく。サンダルの裏に砂利の音を鳴らしながら、果てに見える山あいの、その向こうに霞む入道雲を追いかけているようだった。それほどなまでに、無邪気だった。紗のように透けた純白のワンピースを軽風に靡かせて、つられて遊んでいる黒髪も艶やかに、僕はそんな彼女の背姿を目で追っていた。水路の音と匂いが、段々と蔓延してくる。
「おー、水だ。まだ流れてるねぇ。……えへへっ、冷たい」
「あんまり近付くと落っこちるよ」
「大丈夫だよっ。これでも今は見えてるもんね」
控えて歩いていた僕は、水路の傍でしゃがみこんだ彼女を見下ろす。右手を躊躇なく突っ込んで、水の流れに逆らいながら飛沫を立てて遊んでいた。なんとも言えない蒸したような匂いがする。それは、雨上がりのペトリコールによく似ていた。生ぬるい、どこか埃っぽい、水のようで水ではないような匂いだ。もしかしたら、雑草の青青とした匂いかもしれないと、不意にそんなことを思う。
水路の壁には、褪せたような苔の跡が張り付いていた。泡沫かくあるべしといった風情の様で、どこからか引かれている流水が、辺りにぶつかっては融け消えてゆく。それと同時に、笹切れや藁くずのような葉が向こうから流れてくるのが見えた。水面は日射しに的皪として、ただひたすら目に眩しくて、白かった。夏の眩しさ──僕はこれを、知っている。いつか、確かに、見たことがある。そう直感すると同時に、ここで匂わないはずの、塩素の匂いを嗅いだ気がした。
「えいっ」
あやめの陽気な掛け声とともに、水飛沫が舞い散った。細やかな指先を離れたそれは、昊天の紺青に煌めいて、爽涼の気だけを残しながら、僕の頬にまとわりつく。張り付いたものを右手の甲で拭い取ると、少女は悪戯っぽく磊落に笑った。
「冷たい?」
「ちょっとだけ」
「気持ち良かった?」
「……まぁね」
「じゃあ私にもやって」
いつものように屈託のない、それこそ盛夏の向日葵のような笑顔で、あやめは昔と何も変わっていないまま──僕がそうすることを微塵も疑わないまま、たいそう楽しそうに、子供みたように、透明な目の色を爛漫と輝かせている。結局のところ僕は、昔から、そんな彼女のことが、何もかもを含めて好きだったのだ。今もそれは変わらない。変わりようがない。僕もあやめも、何も変わっていない。
日記帳を、割れたアスファルトの上に置く。彼女の隣にしゃがみこむと、その熱気と冷ややかな水路の温度が融け込んで、生ぬるさがいっそう増した。泡沫の弾け散るような水音だけが、辺りに響き渡っている。むせ返るような匂いも、どこからか朦朦と立ち込めていた。色々と綯い交ぜになったような、そんな匂いだ。
右手を手首まで水流に浸す。冷たいな、と素直に思った。指先に伝わる水の抵抗も、ときおり感じる枝葉のゴミも相まって、らしさが増している。途切れることのない水音の余韻に耳を澄ませていると、首筋を射す日射しの暑さが際立った。ひとつだけが冷たいのもなんだか気持ち悪くなってきて、僕はそのまま、酸素と熱気ほしさに手を引き上げる。水飛沫と水滴が、透明の色に煌めいていた。
「……いくよ?」
「うんっ」
「……えいっ」
あやめと同じ掛け声で、僕は隣の彼女に向けて、すぼませていた指先を開いた。水滴が離れていく感触がする。それは、ほんの微かな重さだけを残して、炎陽の白い眩しさに融け消えていくようだった。紺青の昊天と純白の入道雲を背後に、少女は嬉しそうにはしゃぎながら、真白いワンピースに作った染みも気にしないまま、眦を下げて、口元を綻ばせている。アスファルトが、透けて見えた。華奢な短躯も、水飛沫も、この笑みも、みな玲瓏たる様で夏空に降られている。
「ねぇ、彩織ちゃん」
弾むような彼女の声が、喜色をたたえて僕の耳に届く。
「次は駅、行ってみよう」
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