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八月三十日

厭世家

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「──どんな想いで、君は死んだの」


我ながら、突拍子なことを言っていると思った。その詰問が、今のこの状況に不似合いであることも、自覚する以上に自覚していた。それでも、訊かずにはいられないのだ。死してなお、盲目という名の暗澹あんたんたる呪詛じゅそに苛まれて、果てはそれが解けつつある──よくよく考えてみれば、生前のことが影響しているのではないかと思い至るのも、自然だった。

あやめはその問いを聞いて、しばらく拍子抜けしたように目をしばたかかせている。そうして僕から腕を解くと、やや決まりが悪そうに床へと視線を落とした。雲間にかげったか、磨硝子すりがらす越しの日差しも融けて、先のような仄暗さを取り戻しつつある。けれど彼女に見た透明の色だけは、今はもう、何も変わらなかった。


「……私ね、好きな人がいたんだ。初恋の人」


過去を懐かしむように、あやめは物悲しげに目を細める。それは僕が一度も彼女の口から聞いたことがなかった、色恋の話らしい。静静とした口調で言葉を紡いでいく目前の少女に、自分はただ、小さく頷くだけだった。


「でも、あんまり会うことも話すこともなくてね。その代わり、会った時はたくさんお話してたんだよ。他愛のない世間話みたいな感じだけど、それでも良かったんだ。もちろん、この村で一緒に遊んだりもしたの。色々なところに回って、色々な遊びをして──」


あやめの声色は、先の態度と一転するように弾んでいた。そうして矢庭に立ち上がると、悠然とした足取りで居間に向かっていく。薄明かりに降られている背姿に、僕も続いた。日差しが彼女を突き抜けて、少し暖かい。


「一緒にいると、とても楽しくてね。お話してても、遊んでても、何をしてても楽しかったんだ。他の嫌なことなんて、全部、忘れられるくらいにさ。だから私は、その人と一緒にいられたらいいなって、そう思ってた。まだ好きとか恋とか、分からない頃のお話」


それから示し合わせたように、二人は少しだけ温まっている縁側に腰をかけた。彼女はそこから見える景色──坂道のアスファルトだとか、木立の合間に見える神社の境内だとか、田畑だとか──を、懐かしそうな、或いは眩しそうな面持ちをして、見遣みやっている。


「……ちょっと違う話をするとね、私、学校で浮いてたんだ。大人しいから馴染めなかったとか、そういうのじゃなくて──たぶん、皆が近寄れなかったのかなって思う。私の家って、お父さんが病気がちであまり外に出れなかったじゃない? お母さんも出稼ぎで帰ってこないから、変な家だって思われてたんだよ、きっと。……それは、仕方ないけどさ」


「でも」と彼女は磊落らいらくに笑った。


「でも、それで皆と馴染めなくて嫌な思いをしても、ここに帰れば家族がいたし、その初恋の人とも、たまにだけど一緒に話せた。皆のことなんて気にしないで、家族やその人の前でだけは、楽しくいようって思ったんだ」


昨夜、小夜から聞いた話を思い出す。椎奈家はその家庭状況から、村の周囲に疎まれていたこと。あやめも、もちろんそうであったこと。けれど、これは──そんな事実の裡面りめんに潜んだ、彼女自身の心理そのものだった。


「私の小学校時代は、学校の思い出なんて、そんなになかったんだよ。ただ、夏休みとかの思い出だけは、いっぱい残ってる。毎年どこか似たような感じなのに、微妙に違くてね。……例えば五年生の夏休みの時には、その人のことを、好きになったりとかもした」


彼女は小さくはにかんで、雲間に覗く青天井を仰ぎながら、頬に紅潮の色を差している。それから爛々としたその瞳で、僕を見詰めた。情景がみな、反転して澄み渡っていた。


「友達の少ない私でも、なんとなく分かったの。一緒にいて楽しいし、落ち着くし、なんだか離れたくないなぁって、そう思ったんだ。友達に対する好きとかじゃなくてね、ちょっと、胸が苦しくなるような、そういう感情。これが恋で、恋情なんだな、って──在り来りなことしか言えないけど、そうなの」


華奢きゃしゃな膝に手を当てがいながら、あやめは胸の内を淡々と語っていく。だけれど心做しか、瞳の色は煌めいているように見えた。


「私にとってその人は、本当に大切なお友達で、小さな頃から一緒にいる幼馴染で──それで、最初で最後の初恋の相手。それに気付いたのは、夏休みの終わり際だったけどね。だから、ちょっとだけ意識しながら、最後の日にお別れしたんだ。また今度ね、って」


涼やかな風が、髪の合間を通り抜けていく。頬を優しく撫でていく。あやめは少し乱れたそれを指で直すと、二の句を次ぐまでには、やや間が空いていた。やがて、晴れかけていた曇天の空模様のように、どこか物寂しそうな目付きをして、僕のことを見詰めてくる。


「──でも、その日から、会えなくなった。小学校を卒業しても、中学校に入っても、何度か夏休みを繰り返したのに、会えなくてね。忙しいのかなって思ってた。けど、そのうちまた会えるよね、って。……私は好きなその人に、中学生になった自分を見てほしかったんだ。それでお互いに、もう小学生じゃなくなっちゃったね、って、言いたかった」


胸の何処かが、少しだけ痛む。その痛みも刹那に引きつつあったのは、僕がそこから目を逸らそうとしているせいだろうか。それは、嫌だ。彼女が吐き出している本音に、自分は、向き合わなければいけないはずなのだ。


「だけど一度も会えないまま、中学校で最初の夏休みが終わっちゃったんだ。でも、また次の夏休みになったら会えるかなって、そう思ってた。だから来年まで頑張ろう、ってね。それで私、ちゃんと頑張ったんだよ。二年生になって、また夏休みが来て──」


鋭く、或いは鈍く、何かが胸のあたりを這いずり回っていく。直視しかけた罪悪感は、追い討ちをかけるかのように、また痛んだ。


「……ちょうど、その時期だったかな。実はね、この髪飾りが燃やされかけたの。おばあちゃんから貰った宝物で、学校にも着けてたから、皆もそれを知ってたんだよ。だから、嫌がらせにそういうことされたの。その時は、小夜ちゃんが助けてくれてね」


昨夜、彼女からこの話を聞いていなければ、僕はきっと、正気を保っていられなかったろう。一度でも聞いたそれさえ心地の良いものではなかったのに、あまつさえ二度目を、あやめの口から聞くことになる──居た堪れない以上に居た堪れない気持ちになっていた。


「でも、私が嫌がらせされたの、その時だけじゃないんだ。中学校で最初の夏休みが終わってから、ずっと続いてた。けど大したことじゃなかったし、無視してたんだよ。小夜ちゃんたちが遠目に心配してくれてたのは、もちろん知ってた。だからその時は、割り込んでまでしても、助けてくれたんだと思う」


飄々ひょうひょうと言い切る彼女を見て、軽風に悠々となびくその髪を見て、僕はこの少女──椎奈あやめが、いかに並の人間よりも強い心を持っていたのかを、目の当たりにした。けれどそれは、きっと彼女本来の性質ではないのだろう。この村が、眇々びょうびょうたる一少女の心を、それほどまでに変えさせてしまったのだろう。


「けどね、私──昔から分かってたんだ。自分が避けられるのも、嫌がらせされるのも、みんな家のせいなんだって。お父さんが病気で、お母さんは出稼ぎ。おじいちゃんもおばあちゃんも看病で、そんなに村の人との付き合いは良くないもん。それを悪く言うわけじゃないけど、でも、仕方ないよねって、子供ながらに思ってた。私にはもう、どうにも出来ないから、ずっとずっと、諦めてたんだ」


雲間に覗く青天井も、いつの間にか見えなくなっている。その薄鈍色うすにびいろの曇天を仰いで、あやめは長い瞬きを一つした。生ぬるい風が、ぺトリコールを匂わせながら辺りを撫でていく。その横顔を僕は、悲痛な面持ちで見詰めていたに違いない。ふと、そう思った。


「だから、自分でも良くないことだって分かってたけど、言っちゃったの。もう二人に迷惑はかけたくないから、私のことは心配しなくて大丈夫──ってね。正直、強がりだったんだよ。でも、そうするしかなかった。そしたら私に残された最後の拠り所なんて、初恋の人だけしか、それ以外いなかったんだ。家族になんか、もう迷惑はかけられないもん」


木々の枝葉は夏風に靡いて、頬と髪とに、その指を添えていく。立ち込めてくる埃臭さも、あのぺトリコールと同じだった。もう少しで、降るのだろう。けれど、今の僕にそんなことを気にしている余裕というものは、ありはしない。眩暈めまいにも似た心地悪さと、嘔気おうきを催すほどの拍動が、その一つ一つでさえ、彼女の身体を震わしているように見える。


「今年の夏こそは来るかな、って、楽しみにしてた。いつも通り小夜ちゃん達とも遊んでたけど、やっぱり、どこか寂しかったんだと思う。昔の思い出ばかり考えてて、今のことなんて、あんまり。……けど、その頃になって、お父さんの調子が悪くなってきてね。ここから都市部の病院に移ったんだ。お母さんもあんまり帰ってこないようになって──」


彼女はただ、淡々と事実の吐露だけを続けていく。何もかもを知りきっている、それこそ諦観ていかんそのものを映し出したような面持ちに、僕はやはり、何も言えず、胸臆きょうおくを蝕む自責の念だけに、酷く痛めつけられたままだった。


「──でも、一回だけお見舞いに行ったの。心配いらないって、お父さんに言われた。だから、寂しいのも我慢して……頑張ったんだけどね。夏の終わりの、ちょうどこの時期に、死んじゃったんだよ。あれはきっと強がりで、なんか、少し似てるなぁって思った」


そう零して微笑を洩らす少女の横顔が、雨催あまもよいの曇天をうつしていた。それから、八面玲瓏と澄み渡る瞳にも、水面が微かに揺れている。雨の匂いも、いよいよ濃くなってきた。


「……私にとって、毎日の意味ってね、二つあったんだ。お父さんの病気が治ることと、初恋の人に会えること。けど、その一つは消えちゃった。あの人にも、この夏休みが終わったら、しばらく会えないかもしれない。でも、学校に行って、皆から疎まれる毎日はもっと嫌だなって。そんなことを考えてるうちに、家族葬も夏休みも終わっちゃって、私は結局、いつもみたいに学校に行って──」


雨風に吹かれながら、あやめの声は震えていた。今日だけで何度、この声を聞いたろうか。嗚咽おえつを噛み殺すような、細細と漏れ出たそれは殊更ことさら、僕の抱く罪悪感というものをやはり、刺激せずにはいられないらしい。


「──それも結局、続かなかったんだ。生きてる意味も分からないまま生きてくのも嫌で、だったらいっそ、お父さんに着いていこうかなって思った。だから、夏休みの終わった四日後に、私はここで自殺したんだよ」


彼女がいま見せている、その物悲しげな微笑は、果たしていったい、どんな色なのだろう。単なる懐古か、生前への諦観か、或いは自分自身への嘲謔ちょうぎゃくかもしれなかった。けれど僕には、その色は見えない。ただ透明の色のみを映した、あやめの姿だけを知っている。


「……ここらへんにはトリカブトが咲いててね、おじいちゃんには昔から触らないように言われてた。物凄い毒があるんだって。見ればすぐに分かったの。だから、探すのはそんなに手間じゃなくてね、誰も人がいない時がくれば、後はそれを待つだけだったんだ。その日は偶然、家族のみんなが買い物に行ってて──やるならここかなって、そう思った」


彼女はそのまま、ふと振り返って居間の方を覗く。空からの日差しが切れて薄暗い、けれども見慣れた光景が、それでも何故か、酷く重苦しいものに見えてしまって、仕様がなかった。畳の上に、かつてのあやめを幻視したような、そんな錯覚さえも抱いてしまう。


「トリカブトって、凄く綺麗な花なんだよ。薄紫の、烏帽子えぼしみたいな形をしててね。どこを触っても毒ばかりだけど、いちばん毒があるのは、根っこ。だから、曼珠沙華と同じだね。毒があるから、あんなに綺麗なんだよ」


彼女と、踏切に行った日を思い出す。あの時もあやめは、曼珠沙華を見詰めながら、そう言っていた。『それなら人間でも、綺麗な人は、どこかにきっと、毒とか刺があるのかな』とも。思えばそこで、彼女は自分の身の内を、暗に明かしていたのかもしれない。事実、黒いものは、持っていたのだから。だからこそ、あやめは──綺麗だったのだろう。


「それで、お勝手の包丁で、根っこを一口分だけ切ったの。花は勿体ないから、居間にあった花瓶に活けといたんだ。……だけど流石に、苦しんで死ぬのは怖かったから、お父さんが使ってた睡眠剤と合わせて、一緒に飲み込んだ。一緒って言っても、それが効き始めた頃に、根っこも飲んだっていうことだよ」


耳を塞ぎたくなるような生々しい話が、彼女の主観から滔々とうとうと吐き出されていく。居間を見詰めているその横顔に、向こうの木立が透けて見えた。或いはその居間にすら、あやめの幻影がぼうと浮かび現れてくるようだった。


「そこの畳に寝転がってるうちに、すぐに眠くなってきてね。自殺するんだっていう実感は、あまり無かった。ただ、昔のことがたくさん思い浮かんできて、それが走馬灯みたいだなっていうのは、覚えてる。家族との思い出とか、友達との思い出とか、そういうの。でも、結局は──あの初恋の人が、いちばん思い浮かんだんだ。私の心の拠り所は、最期の最期まで、ずっと、あの人だったんだよ」


泣きたいような、笑いたいような──そんな顔をして、彼女は僕の瞳を凝然ぎょうぜんと見詰めてくる。刹那に、雨風がこの一帯を吹き渡っていった。黒髪の先が肌を掠めて、砂利混じりの地面には、雨催いの侵略者が降り立っている。一滴の紅涙こうるいもまた、僕の手の甲に姿を現してから、生ぬるさを残して消えていった。


「──だからね、彩織ちゃん。本当は、生きてる時に言いたかったけど、もう、しょうがないよね。私は彩織ちゃんのことが、昔から大好きだった。今もまだ、好きなままだよ。今更、そんなことは言わないから──だからせめて、昔みたいに、一緒にいてほしい。私にはもう彩織ちゃんしか、頼れないから」


透明の色をした少女越しに、雨粒だか紅涙だかが、風に乗って飛んでくる。それが僕の瞳に映って、みるように痛い気がした。まなじりから伝うそれは、きっと──その正体は、僕だけが知っている。今はただ、そういうことにしておきたかった。呵責かしゃくの念だけが胸臆にとぐろを巻いて、眼光炯炯がんこうけいけいと睨み付けていた。

それでも僕は──否、それだからこそ僕は、あやめのことを、抱き締めずにはいられなかったのかもしれない。全てを澄み渡らせる透明の色を目の当たりにしながら、愛しい少女の、華奢な短躯を、やはり四年ぶんの罪悪感に苛まれつつも、掻き抱くようにしていた。その罪悪感を埋めたいがために、眦から漏れるそれを拭うことも、僕はもう、諦めた。
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