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八月三十日

玲瓏透徹

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消えた──否、消えたというには語弊がある。ただ僕が瞬きをした一殺那の間に、あやめは縁側から立ち上がって、すぐ屋内へ戻っただけなのだろう。けれど、僕にはそれが、あからさまに不自然な挙動としか思えなかった。何かがおかしいと心臓が早鐘を打つ。咄嗟にそのまま、彼女の後を追いかけた。

履物と日記帳を散らかすのも厭わないで、縁側から居間に足を踏み入れる。そこには、いつものように布団が敷かれていた。けれど彼女の姿は見えない。代わりに、台所へと向かうらしい襖が開け放たれている。心地の悪い胸騒ぎをようよう静めようとしながらも、呼吸は少しも落ち着かなかった。大した日差しも差し込まないためか、仄暗くて薄ら寒い。


「……あやめちゃん、どうしたの。いる?」


台所は閑散として、同時に僕の声だけが密やかに、染み入るように、この部屋いっぱいを融け込んでいく。歩を進めるごとに床が軋んだ音を上げて、まだ朝方にも関わらず、背筋が夕冷えするような、そんな感じがした。吐息が漏れるのもはばかられるくらいだった。

三畳ほどの台所には、茶箪笥ちゃだんすと冷蔵庫しか置かれていない。その中身もやはり、幾らかは残したままになっている。磨硝子すりがらすから差し込む薄明かりだけを頼りに、そうした事情の一端でも窺うことはできた。けれども、彼女の姿は見えない。ここにはいないのだろうか──と思い思い、冷蔵庫と流し台の陰を覗き込む。その刹那に僕は、思わず息を呑んだ。


「──やっ! 見ちゃ嫌だっ!」


今までに聞いたことのないような金切り声を上げながら、あやめはその場にうずくまっている。埃が付くのも厭わずに壁に背を向けて、爪が食い込むほどに自分を掻き抱くようにして、そうして顔は伏せたまま、ひたすらに何かを拒絶しているようだった。こんな彼女の姿は初めて見る。僕は何をすれば良いのかすら分からないまま、ただ狼狽していた。

立ち込める埃臭さのなかに、噛み殺した嗚咽のようなものが、あやめの口元から不規則に漏れていく。それが小刻みに肩を震わせて、その度に鋭いものが、僕の胸臆きょうおくを抉っていった。詰まるような息苦しさに耐えながら、その場にしゃがみこんで彼女と目線を合わせる。とにかく今のままでは何も分からない。


「どうしたの。何があったか教えて」

「嫌だっ……。……っ、ひぐっ……怖い……」

「怖い? 怖いって──何が怖いの」


僕の問いかけに、あやめは小さく首を横に振った。答えたくないらしい。或いは、答えるだけの余裕ができていないのかもしれない。それでも彼女は、何かに脅えている──それが聞き出せただけでも、まずは良かった。誰にも聞こえないように、そっと溜息を吐く。

──それからもう一度あやめを見て、僕は不意に、何かしら違和感めいたものを覚えていた。ちょうど彼女は、流し台と冷蔵庫の隙間にうずくまって収まっている。そんな器用なことが、盲目なのにできるのだろうか。そもそも思い返してみれば、最初からおかしかった。僕を見た直後に逃げたこと。いつも移動には僕が手を引いていたのに、縁側からここまで、一人で動けたこと。あまつさえ、これだけ綺麗に、この隙間に収まっていること。

偶然とはとても思えなかった。それでも偶然としか思いようがなかった。何しろあやめは盲目のはずなのだから、そうとでも考えなければ、この雑多な思考に区切りが付けられないのだ。それでも──否、それだからこそ僕は、一抹の希望をそこに込めて、面と向かって訊かないではいられないのかもしれない。


「……ねぇ。もしかして、見えてる?」


と胸をかれたように、あやめは肩を跳ねさせた。それから緩慢とした動作で顔を上げると、泣き腫らした目尻のあたりを手の甲で拭っている。磨硝子越しに薄ぼけた日差しが反照して、彼女のその瞳に映っているのが、いやに綺麗だった。僕がそう感じるのとあやめが小さく頷くのとは、ほぼ同時だったらしい。


「……少し、だけ。でも……嫌だ。怖いよ……」


けれど彼女は僕の心境とは反するように、嗚咽混じりの声を漏らしながら、また顔を伏せる。目尻には段々と白露のようなたまが溢れて、いつしか紅涙が頬を伝って、床に小さな水溜まりができていた。曖昧な陽光もそこには煌めいて、場違いな存在感を発している。


「──消えたく、ないっ……」


それは、殆ど悲鳴にも似たものだった。或いは喘ぎ声にも、嗚咽そのものにも似ている。けれど僕は、確かに彼女の本音を聞いたのだ。その意味は分からないけれど、確かに、あやめはそう呟いた。苦悶の声で、今まで見せたこともないような悲痛な面持ちをして、僕にも、他の誰でもない何かに、懇願した。

──刹那に、磨硝子の向こうが一層、淡みを帯びる。だから模様の一つ一つまでもが、陰影を伴って明瞭に見えた。朧気に揺れる木立の枝も、青々とした葉を悠然となびかせている。その日差しがいよいよ柔らかに、仄明るく、たった三畳をたちまち照らしていった。硝子越しにも分かる青天井の合間から、青い日差しがまたも射し込んでくる。それが少女の瞳に、いつしか眩しさを描き出していた。

その情景に、僕は思わず、息を呑むほど──或いは同時に、背筋が震懾しんしょうするほど見蕩れていたらしい。黒曜石の宝玉みたく透き通っている黒髪も、照り返す珠のように玲瓏透徹れいろうとうてつとした瞳の色も、半透明のそこに柔らかな日差しを受けている肌も、しゃのように透けて涼やかな純白のワンピースも──果ては彼女の存在そのものが、一つの玻璃はりと紛うほどに澄み渡っている。それだけが厭に婉美えんびで、他には、僕が言い表せるほどの適当な言葉が、どこをどう探しても、遂に見付からなかった。


「なんで──」


思わず驚嘆に目を見開く。有り得ない。こんなことが起こりうるはずがないのだ。あやめの身体が、透けている──なんて、そんなのは、僕の見間違いではないだろうか。そう思い思い、彼女の眉目良みめよ顔貌かおかたちを凝然と見詰める。けれど確かに、日差しはそこを淡く透き通っていた。麻痺しかけている頭で何が起きているのかを考えても、僕はただ無意味な狼狽を繰り返して、茫然とするきりだった。


「……分かんない。分かんないよ。怖い。ねぇ、私、これからどうなっちゃうの? このまま消えていっちゃうなんて、嫌だっ。私にはもう、彩織ちゃんしか、頼れないのに……」


咽喉の奥から滔滔とうとうと、遣る瀬無い彼女の思いだけが切実に吐き出されていく。紅涙に潤んで澄み切った瞳も、僕を映し返すほどに見詰めていた。──それなのに、何も出来ない。何をすれば彼女のためになるのかが分からない。気の回らない自分に嫌気が差してくる。

ほんの気休めでも、構わないのだろうか。彼女に束の間でも居場所を与えられれば、こんな僕でも、応えられたことにはなるのだろうか。それさえも、もはや分からなかった。分からないなら、あぁもう、仕方ない。とにかくやるしかないのだ。らばれ──。

──そのまま僕は、あやめの首元に腕を回した。少女の短躯は、加減さえ間違えれば瓦解してしまいそうで、迂闊に強く抱き締められない。けれど彼女の温もりまで消えてしまうのは、それは何だか、名残惜しいような気がした。これだけはせめて、残したかった。


「……大丈夫、大丈夫だよ。僕が一緒にいるから、安心して。だから、泣かないでいいの」


我ながら、何の根拠もない、上辺だけの陳腐ちんぷな言葉だと思った。けれども僕にはそれしか言えないのだし、あやめはそれにすがることしかできない。もっと他に、何かがあったのかもしれない──それも今では結果論だった。

鼓膜を震わせる断続的な吐息が、嗚咽に混じって耳元で聞こえてくる。彼女はただ小さく頷くと、そのまま黙然として、僕の腕に収まっていた。お互いに何も言わないまま、ただ温もりだけを頼りに、慰めにもならない慰めをし続けている。その中でさえ僕は、自分の心臓が早鐘を打っているのを感じていた。


「……どう、少し落ち着いた?」


あやめは小さく頷くと、消え入りそうな声で、「ありがとう」と零す。僕もそれに頷いてから、首元に回していた腕をそっと解いた。こんな状況でさえ少なからず意識していた自分の浅はかさに、少しだけ反吐が出る。その気まずさに顔を背けて、一瞥いちべつした彼女の瞳はやはり、どうしようもなく綺麗だった。

不意に、あやめと視線が合う。それは硝子玉と紛うほどに澄み切った色で、柔らかな日差しを乱反射しながら僕を見詰めていた。その爛々らんらんとした瞳に、またも紅涙が溢れてくる。彼女は指の腹でそれを拭いとると、あの盛夏に咲く向日葵ひまわりにも似通った、今まで以上に屈託のない笑みをして、僕に笑いかけた。


「……やっと会えたね、彩織ちゃん」


小さな吐息にも似た彼女の声が、僕の拍動に掻き消されがちだったように思う。それを何だろうと思う暇もないままに、矢庭に、胸元が締め付けられるように苦しい──それが彼女に抱き締められたせいなのだと自覚するのには、あと数秒ほどの時間が必要だった。


「あの夏から、ずっと顔を見れてなかった。この夏も、きっと見れないと思ってたのに……でも、良かった。やっと見れた。本当に昔とぜんぜん変わらないままの顔なんだね。……えへへ、懐かしいな。嬉しい。大好き……」


僕の胸元に顔を埋めながら、あやめは嬉しさを隠そうともせずに抱き締めてくる。その気持ちが、今だからこそ何となく分かる気がした。余所者の自分だからこそ、彼女は気兼ねなく一緒にいることができて、素のままで振る舞えて──その関係はきっと、四年が空いたとしても、変わらないままなのだろう。


「……今朝の話をするとね、今日は、朝日が眩しくて起きたんだ。久しぶりの感覚なのに、自然に目が覚めたの。家の天井が見えて、懐かしいなぁって思いながら、欠伸あくびしてね」


そう言いつつ、あやめは僕の瞳を見詰めた。


「目が見えてるって気付いたのは、その時。……でも、何か違和感があった。色が付いてなくて、光とか物とかが、薄くぼんやりしている感じなの。だから完全に目が見えてるっていうわけじゃなくて、少し、見えてる」


「でもね」と、彼女は続けてはにかんだ。


「盲目になった理由は分からないし、今こうなってる理由も分からないけど──目が見えるようになったのは、きっと、彩織ちゃんのおかげだよ。彩織ちゃんが色を分けてくれたから、だから、こうして世界が見られるの」


澄み渡った彼女の瞳には、僕だけではなくて、ここにある何もかもが映り込んでいる。古めかしい模様のフローリングも、やや黒ずんだ天井も、あの磨硝子も、そこから射し込む陽光でさえ、全てが見えているのだろう。外に出れば、世界の一端すらも、きっと。


「……けど、ずっとおかしいと思ってた。なんで私は目が見えなくなったんだろうって。考えたけど、分かんなかったんだ。でも、たった一つだけ、思い付いたことがあるんだよ」


そう言って、彼女は物悲しそうに微笑む。それがどこか、諦観にも似ている気がした。


「もし、完全に目が見える時が来たら──それが、私の成仏する時じゃないのかなって。透明になってるのも、きっと、そうなのかもしれないね。だから、彩織ちゃんに知られたくなくて、怖くなって逃げちゃった。……今も、本当はまだ怖いよ。幽霊がここにいちゃいけないのは分かってるのに、でも、まだ──彩織ちゃんとは、別れたくないから」


あやめの行動が、全て腑に落ちてくる。僕を見て逃げたのも、『見ちゃ嫌だ』と言ったのも、『怖い』とか『消えたくない』というのも、みんな──そうした彼女の、嫌なほどに現実味のある類推によるものだったのだ。

それなら、彼女が盲目だったのにも、何か理由があるのだろう。その盲目が解けたのにも、同時に透明化が進行しつつあるのにも──同じく、何かしらの理由がある。そうしてそれは、きっと、あやめの生前に由来しているのではないか。そんなもう一つの類推が、たったいま、僕の脳裏を過ぎった。

けれどそれは、往々にして訊けなかったものだった。或いは自分自身が触れたくなくて、目を逸らしていたのかもしれない。彼女の真相にまた一つ近付くのを、心の何処かで忌避していたのかもしれない。そんなことを思いながら、締まるような息苦しさに絶える。


「……ねぇ、あやめちゃん」

「うん」

「訊きたいことがあるんだ」

「なに?」


淡々とした彼女のその声色は、どんな感情を内包しているのだろう。だからこそ、それが非常に躊躇われた。けれど、ここまで来たからには、もはや後戻りはできないのだろう。行くところまで行き着くような、そんな気がしていた。僕の声は、確実に震えていた。


「──どんな想いで、君は死んだの」


その言葉だけが、ここには不似合いだった。
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