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八月三十日

四年越しの恋情

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淡い色彩が、この一面に広がっている。紺青の夏空も、真っ白い入道雲も、あそこに霞んでいる陽炎も──全てがみな、泡沫のように掻き消えてしまいそうで、儚い色をしていた。薄ぼやけた世界の中を、いま僕はいる。

家の門を出て、まだ覚えきれていない道を、冒険のようにひたすらに進む。青々とした稲田が、日差しを受けて一面に眩しかった。水路を忙しなく泳いでいく水の音が、どこか遠くを静かに木霊こだましている。その匂いが薫風くんぷうに混じって、少し生ぬるいような気がした。

踏切の前を通り過ぎて、道なりに行き止まる。木々が小さな壁のようになっていて、アスファルトの道路をき止めていた──と思いきや、どうやら、まだ右手に続いているらしい。視線が上に伸びていくのは、その先が坂ばいになっているからだろう。向こうには、何があるのだろうか。そう思った。

額に滲む汗を人差し指の腹で拭いながら、雑草の青臭さが残る長い坂道を歩いていく。悠然となびく影法師が、ときおり涼やかな風を送ってきた。その影法師を踏みながら、僕は頭上を見上げる。枝葉の合間からは青天井が覗いていて、その青も、やけに青い気がした。

途端に、炎陽の白い眩しさが僕を包み込んでいく。日差しが爛燦らんさんと瞳に射し込んで、思わず目蓋を固く閉じようとした──ところに、その白い眩しさの向こう側に、僕は何かを見付けた気がした。眩むように白い白を見詰めながら、あれは何だろうと思案にふける。


「……あっ」


柔らかな、それでいて涼やかな、玲瓏れいろうな硝子玉のように澄んだ声が、辺りに染みていく。
 ──そこには、少女がいた。縁側に腰掛けながら、燦燦さんさんと降り注ぐ日差しから逃げるように、麦わら帽子をかむっている。真っ白いワンピースを風に靡かせて、僕を見ていた。まるで物語の一ページのような、そんな気がした。

たったそれだけのことなのに、どうして、ここまで懐かしいのだろう。胸の奥が郷愁めいたものに締め付けられて、涙が出てしまいそうなほどに、この少女を愛しく思っていた。僕は──そうだ、僕は、彼女のことを知っている。この景色も、遥か昔に見たことがある。朧気な頭でさえも、そう直覚した。


「……飲む?」


一度は口付けて、それから少女が差し出したものが、カランコロンと涼やかに鳴る。真夏の陽光に爛々と煌めいて、その眩しさに僕は──いつの間にか、目を覚ましていた。見慣れた部屋の天井が、或いは障子越しの曙光しょこうが、こちらを凝然と見詰めている。曖昧な意識の中で、目尻に生ぬるいものを感じた。

──これは、僕の初恋の原石だ。胸の内の、その底の底に埋もれていたはずの記憶を、こうして見せつけられていたのだ。それは懐かしくて、気恥ずかしくて、それでもやはり愛おしい、捨てることのできない記憶そのものだった。きっと僕は今でも、否、昔からずっと、あやめのことが、好きなのだろう。

何がなしに、手を布団の中で揉んでみる。それから、つい今しがた見た夢を、あの原石と見比べてみた。やはり、ほとんど──というより全てが、記憶そのままのものだった。だからこそ、否が応にも思い出させられる。僕が彼女に向けていた恋情の、その細部まで。

けれども幼少期の初恋ほど当てにならないものもない。自分自身、あれは本当に初恋だったのか──と、僅かながら思ったこともある。敢えて言うならば、きっと、一目惚れだったのかもしれない。冒険をした先に、物語にでも出てきそうな少女がいたという、たったそれだけの、少し不思議な出来事。そうして夏を経るたびに、仲を深めていっただけ。

その内に僕は、椎奈あやめという少女の魅力を、子供ながらに感じていたのだろう。無邪気で可憐なところだとか、ときおり見せる屈託のない笑みだとか──とにかく彼女の明るいところが好きで、一緒にいると自分も楽しくなれるから、いつも二人で遊んでいた。恋情は自覚していたけれど、きっと、二人でいることの方が大切だったのかもしれない。

──それなのに僕は、四年前の夏から、ここに来ることがなくなった。きっかけなんて、些細なことだった気がする。それが尾を引いて、学業が忙しいとか何とか理由を付けていくうちには、ここまで来てしまったのだ。

だからこの初恋も、知らず知らずのうちに、記憶の奥底へと仕舞われてしまったのだろう。それを今更になって思い出すのが、とても馬鹿馬鹿しく思えてくる。今年ではなくて、去年の夏でも、一昨年の夏でも、思い出しようはあったはずなのに──もしそうだとしたら、彼女は、死んでいなかったろうか。

いや、そんなものは結局、結果論から湧き起こった推量でしかない。結果は結果として、その結果なりに、事を動かすしか仕様はないのだ。だから僕は、今日もあやめのところに行く。真相を知った今、そうして恋情を思い出してしまった今、どうすれば良いのかは、まだ分かっていないけれど──それでも、僕にはそれしか、思い付く術がなかった。





雨催いの空が一面に広がっている。いつもの漠々ばくばくたる入道は見る影もなくて、ただ仄暗い曇天に融和したか、妙に物寂しい、しゃをかけたような様の薄鈍色が目に優しかった。それを仰ぐ稲田も心做こころなしか悄然しょうぜんとして、いつしかぺトリコールがアスファルトに匂っている。

湿っぽいのは、果たして僕の心持ちなのか、はたまたこのぺトリコールのせいなのかは判然としない。或いは、この二つがい交ぜになっているかもしれなかった。昔から歩き慣れた道でさえ、今日は一段と足が重い。一歩を踏み出すごとに、何故だか胸が締め付けられる。日記帳を持つ手も、少し力んでいた。

胸臆きょうおくを、もやのようなものが立ち込めていく。言いようのない何かが、胸の内を巣食っていく。怖い──そうだ、僕は、怖いのかもしれない。あやめの過去を知ってしまったことで、彼女に面と向かえる自信がなかった。あの屈託のない笑みの裡面りめんを、推し量ってしまいそうだった。そうして何より──彼女がいなくなってしまうような、そんな気がした。

歩調を早めたいのに、それができない。もしかしたら──という強迫観念にも似た類推が、僕の首元に手をかけ続けている。それでいて、歩調を遅めたいような気もしていた。けれど、はやる気持ちがそれを許してはくれない。そんなことをしているうちには、もう、いつもの坂道に差し掛かってしまっていた。

雑草の青臭さと土埃の煙臭さが、湿っぽい空気のせいで一段と立ち込めている。辺りの雑木林から聞こえるはずの蝉時雨も、今日はまばらに、遠く近くを泡沫のような曖昧さで浮かんでいた。後は朧気な陽だまりだけが、地面にようやく色を灯しているくらいだった。

舗装のせたアスファルトだけが、緩やかに続いていく。脈搏がそのたびに激しくなっていって、胸がやはり、締め付けられるように息苦しい。それでも彼女に会いたいと思うのは、これはもはや、僕があやめと一緒にいたいだけなのだろう──いや、いたいのだ。

そう断言した直後に、辺りの視界が晴れて、見慣れた景色が飛び込んでくる。民家の軒先には居間と繋がる縁台があって、そこに彼女は、いつもと変わらずに座っていた。ただ今日は、麦わら帽子を冠ってはいない。だから曼珠沙華の髪飾りが、遠目によく見えた。

ここが飽きるほど訪れた場所だからか、或いはあやめが普段通りだったことへの安堵からか、少しだけ気分が落ち着いてきたように感じる。それなら、後はいつも通りに声をかけるだけで十分だろう。そう思い思い、先程とは違って軽やかな一歩を踏み出す。砂利が靴の裏に擦れて、小さな音を立てた。その直前ほんの僅かに、あやめが僕を見た気がする。

──そうして立ち上がると、彼女は刹那に消えた。
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