13 / 28
八月三十日
四年越しの恋情
しおりを挟む
淡い色彩が、この一面に広がっている。紺青の夏空も、真っ白い入道雲も、あそこに霞んでいる陽炎も──全てがみな、泡沫のように掻き消えてしまいそうで、儚い色をしていた。薄ぼやけた世界の中を、いま僕はいる。
家の門を出て、まだ覚えきれていない道を、冒険のようにひたすらに進む。青々とした稲田が、日差しを受けて一面に眩しかった。水路を忙しなく泳いでいく水の音が、どこか遠くを静かに木霊している。その匂いが薫風に混じって、少し生ぬるいような気がした。
踏切の前を通り過ぎて、道なりに行き止まる。木々が小さな壁のようになっていて、アスファルトの道路を堰き止めていた──と思いきや、どうやら、まだ右手に続いているらしい。視線が上に伸びていくのは、その先が坂ばいになっているからだろう。向こうには、何があるのだろうか。そう思った。
額に滲む汗を人差し指の腹で拭いながら、雑草の青臭さが残る長い坂道を歩いていく。悠然と靡く影法師が、ときおり涼やかな風を送ってきた。その影法師を踏みながら、僕は頭上を見上げる。枝葉の合間からは青天井が覗いていて、その青も、やけに青い気がした。
途端に、炎陽の白い眩しさが僕を包み込んでいく。日差しが爛燦と瞳に射し込んで、思わず目蓋を固く閉じようとした──ところに、その白い眩しさの向こう側に、僕は何かを見付けた気がした。眩むように白い白を見詰めながら、あれは何だろうと思案に耽る。
「……あっ」
柔らかな、それでいて涼やかな、玲瓏な硝子玉のように澄んだ声が、辺りに染みていく。
──そこには、少女がいた。縁側に腰掛けながら、燦燦と降り注ぐ日差しから逃げるように、麦わら帽子を冠っている。真っ白いワンピースを風に靡かせて、僕を見ていた。まるで物語の一頁のような、そんな気がした。
たったそれだけのことなのに、どうして、ここまで懐かしいのだろう。胸の奥が郷愁めいたものに締め付けられて、涙が出てしまいそうなほどに、この少女を愛しく思っていた。僕は──そうだ、僕は、彼女のことを知っている。この景色も、遥か昔に見たことがある。朧気な頭でさえも、そう直覚した。
「……飲む?」
一度は口付けて、それから少女が差し出したものが、カランコロンと涼やかに鳴る。真夏の陽光に爛々と煌めいて、その眩しさに僕は──いつの間にか、目を覚ましていた。見慣れた部屋の天井が、或いは障子越しの曙光が、こちらを凝然と見詰めている。曖昧な意識の中で、目尻に生ぬるいものを感じた。
──これは、僕の初恋の原石だ。胸の内の、その底の底に埋もれていたはずの記憶を、こうして見せつけられていたのだ。それは懐かしくて、気恥ずかしくて、それでもやはり愛おしい、捨てることのできない記憶そのものだった。きっと僕は今でも、否、昔からずっと、あやめのことが、好きなのだろう。
何がなしに、手を布団の中で揉んでみる。それから、つい今しがた見た夢を、あの原石と見比べてみた。やはり、ほとんど──というより全てが、記憶そのままのものだった。だからこそ、否が応にも思い出させられる。僕が彼女に向けていた恋情の、その細部まで。
けれども幼少期の初恋ほど当てにならないものもない。自分自身、あれは本当に初恋だったのか──と、僅かながら思ったこともある。敢えて言うならば、きっと、一目惚れだったのかもしれない。冒険をした先に、物語にでも出てきそうな少女がいたという、たったそれだけの、少し不思議な出来事。そうして夏を経るたびに、仲を深めていっただけ。
その内に僕は、椎奈あやめという少女の魅力を、子供ながらに感じていたのだろう。無邪気で可憐なところだとか、ときおり見せる屈託のない笑みだとか──とにかく彼女の明るいところが好きで、一緒にいると自分も楽しくなれるから、いつも二人で遊んでいた。恋情は自覚していたけれど、きっと、二人でいることの方が大切だったのかもしれない。
──それなのに僕は、四年前の夏から、ここに来ることがなくなった。きっかけなんて、些細なことだった気がする。それが尾を引いて、学業が忙しいとか何とか理由を付けていくうちには、ここまで来てしまったのだ。
だからこの初恋も、知らず知らずのうちに、記憶の奥底へと仕舞われてしまったのだろう。それを今更になって思い出すのが、とても馬鹿馬鹿しく思えてくる。今年ではなくて、去年の夏でも、一昨年の夏でも、思い出しようはあったはずなのに──もしそうだとしたら、彼女は、死んでいなかったろうか。
いや、そんなものは結局、結果論から湧き起こった推量でしかない。結果は結果として、その結果なりに、事を動かすしか仕様はないのだ。だから僕は、今日もあやめのところに行く。真相を知った今、そうして恋情を思い出してしまった今、どうすれば良いのかは、まだ分かっていないけれど──それでも、僕にはそれしか、思い付く術がなかった。
◇
雨催いの空が一面に広がっている。いつもの漠々たる入道は見る影もなくて、ただ仄暗い曇天に融和したか、妙に物寂しい、紗をかけたような様の薄鈍色が目に優しかった。それを仰ぐ稲田も心做しか悄然として、いつしかぺトリコールがアスファルトに匂っている。
湿っぽいのは、果たして僕の心持ちなのか、はたまたこのぺトリコールのせいなのかは判然としない。或いは、この二つが綯い交ぜになっているかもしれなかった。昔から歩き慣れた道でさえ、今日は一段と足が重い。一歩を踏み出すごとに、何故だか胸が締め付けられる。日記帳を持つ手も、少し力んでいた。
胸臆を、靄のようなものが立ち込めていく。言いようのない何かが、胸の内を巣食っていく。怖い──そうだ、僕は、怖いのかもしれない。あやめの過去を知ってしまったことで、彼女に面と向かえる自信がなかった。あの屈託のない笑みの裡面を、推し量ってしまいそうだった。そうして何より──彼女がいなくなってしまうような、そんな気がした。
歩調を早めたいのに、それができない。もしかしたら──という強迫観念にも似た類推が、僕の首元に手をかけ続けている。それでいて、歩調を遅めたいような気もしていた。けれど、逸る気持ちがそれを許してはくれない。そんなことをしているうちには、もう、いつもの坂道に差し掛かってしまっていた。
雑草の青臭さと土埃の煙臭さが、湿っぽい空気のせいで一段と立ち込めている。辺りの雑木林から聞こえるはずの蝉時雨も、今日はまばらに、遠く近くを泡沫のような曖昧さで浮かんでいた。後は朧気な陽だまりだけが、地面にようやく色を灯しているくらいだった。
舗装の褪せたアスファルトだけが、緩やかに続いていく。脈搏がそのたびに激しくなっていって、胸がやはり、締め付けられるように息苦しい。それでも彼女に会いたいと思うのは、これはもはや、僕があやめと一緒にいたいだけなのだろう──いや、いたいのだ。
そう断言した直後に、辺りの視界が晴れて、見慣れた景色が飛び込んでくる。民家の軒先には居間と繋がる縁台があって、そこに彼女は、いつもと変わらずに座っていた。ただ今日は、麦わら帽子を冠ってはいない。だから曼珠沙華の髪飾りが、遠目によく見えた。
ここが飽きるほど訪れた場所だからか、或いはあやめが普段通りだったことへの安堵からか、少しだけ気分が落ち着いてきたように感じる。それなら、後はいつも通りに声をかけるだけで十分だろう。そう思い思い、先程とは違って軽やかな一歩を踏み出す。砂利が靴の裏に擦れて、小さな音を立てた。その直前ほんの僅かに、あやめが僕を見た気がする。
──そうして立ち上がると、彼女は刹那に消えた。
家の門を出て、まだ覚えきれていない道を、冒険のようにひたすらに進む。青々とした稲田が、日差しを受けて一面に眩しかった。水路を忙しなく泳いでいく水の音が、どこか遠くを静かに木霊している。その匂いが薫風に混じって、少し生ぬるいような気がした。
踏切の前を通り過ぎて、道なりに行き止まる。木々が小さな壁のようになっていて、アスファルトの道路を堰き止めていた──と思いきや、どうやら、まだ右手に続いているらしい。視線が上に伸びていくのは、その先が坂ばいになっているからだろう。向こうには、何があるのだろうか。そう思った。
額に滲む汗を人差し指の腹で拭いながら、雑草の青臭さが残る長い坂道を歩いていく。悠然と靡く影法師が、ときおり涼やかな風を送ってきた。その影法師を踏みながら、僕は頭上を見上げる。枝葉の合間からは青天井が覗いていて、その青も、やけに青い気がした。
途端に、炎陽の白い眩しさが僕を包み込んでいく。日差しが爛燦と瞳に射し込んで、思わず目蓋を固く閉じようとした──ところに、その白い眩しさの向こう側に、僕は何かを見付けた気がした。眩むように白い白を見詰めながら、あれは何だろうと思案に耽る。
「……あっ」
柔らかな、それでいて涼やかな、玲瓏な硝子玉のように澄んだ声が、辺りに染みていく。
──そこには、少女がいた。縁側に腰掛けながら、燦燦と降り注ぐ日差しから逃げるように、麦わら帽子を冠っている。真っ白いワンピースを風に靡かせて、僕を見ていた。まるで物語の一頁のような、そんな気がした。
たったそれだけのことなのに、どうして、ここまで懐かしいのだろう。胸の奥が郷愁めいたものに締め付けられて、涙が出てしまいそうなほどに、この少女を愛しく思っていた。僕は──そうだ、僕は、彼女のことを知っている。この景色も、遥か昔に見たことがある。朧気な頭でさえも、そう直覚した。
「……飲む?」
一度は口付けて、それから少女が差し出したものが、カランコロンと涼やかに鳴る。真夏の陽光に爛々と煌めいて、その眩しさに僕は──いつの間にか、目を覚ましていた。見慣れた部屋の天井が、或いは障子越しの曙光が、こちらを凝然と見詰めている。曖昧な意識の中で、目尻に生ぬるいものを感じた。
──これは、僕の初恋の原石だ。胸の内の、その底の底に埋もれていたはずの記憶を、こうして見せつけられていたのだ。それは懐かしくて、気恥ずかしくて、それでもやはり愛おしい、捨てることのできない記憶そのものだった。きっと僕は今でも、否、昔からずっと、あやめのことが、好きなのだろう。
何がなしに、手を布団の中で揉んでみる。それから、つい今しがた見た夢を、あの原石と見比べてみた。やはり、ほとんど──というより全てが、記憶そのままのものだった。だからこそ、否が応にも思い出させられる。僕が彼女に向けていた恋情の、その細部まで。
けれども幼少期の初恋ほど当てにならないものもない。自分自身、あれは本当に初恋だったのか──と、僅かながら思ったこともある。敢えて言うならば、きっと、一目惚れだったのかもしれない。冒険をした先に、物語にでも出てきそうな少女がいたという、たったそれだけの、少し不思議な出来事。そうして夏を経るたびに、仲を深めていっただけ。
その内に僕は、椎奈あやめという少女の魅力を、子供ながらに感じていたのだろう。無邪気で可憐なところだとか、ときおり見せる屈託のない笑みだとか──とにかく彼女の明るいところが好きで、一緒にいると自分も楽しくなれるから、いつも二人で遊んでいた。恋情は自覚していたけれど、きっと、二人でいることの方が大切だったのかもしれない。
──それなのに僕は、四年前の夏から、ここに来ることがなくなった。きっかけなんて、些細なことだった気がする。それが尾を引いて、学業が忙しいとか何とか理由を付けていくうちには、ここまで来てしまったのだ。
だからこの初恋も、知らず知らずのうちに、記憶の奥底へと仕舞われてしまったのだろう。それを今更になって思い出すのが、とても馬鹿馬鹿しく思えてくる。今年ではなくて、去年の夏でも、一昨年の夏でも、思い出しようはあったはずなのに──もしそうだとしたら、彼女は、死んでいなかったろうか。
いや、そんなものは結局、結果論から湧き起こった推量でしかない。結果は結果として、その結果なりに、事を動かすしか仕様はないのだ。だから僕は、今日もあやめのところに行く。真相を知った今、そうして恋情を思い出してしまった今、どうすれば良いのかは、まだ分かっていないけれど──それでも、僕にはそれしか、思い付く術がなかった。
◇
雨催いの空が一面に広がっている。いつもの漠々たる入道は見る影もなくて、ただ仄暗い曇天に融和したか、妙に物寂しい、紗をかけたような様の薄鈍色が目に優しかった。それを仰ぐ稲田も心做しか悄然として、いつしかぺトリコールがアスファルトに匂っている。
湿っぽいのは、果たして僕の心持ちなのか、はたまたこのぺトリコールのせいなのかは判然としない。或いは、この二つが綯い交ぜになっているかもしれなかった。昔から歩き慣れた道でさえ、今日は一段と足が重い。一歩を踏み出すごとに、何故だか胸が締め付けられる。日記帳を持つ手も、少し力んでいた。
胸臆を、靄のようなものが立ち込めていく。言いようのない何かが、胸の内を巣食っていく。怖い──そうだ、僕は、怖いのかもしれない。あやめの過去を知ってしまったことで、彼女に面と向かえる自信がなかった。あの屈託のない笑みの裡面を、推し量ってしまいそうだった。そうして何より──彼女がいなくなってしまうような、そんな気がした。
歩調を早めたいのに、それができない。もしかしたら──という強迫観念にも似た類推が、僕の首元に手をかけ続けている。それでいて、歩調を遅めたいような気もしていた。けれど、逸る気持ちがそれを許してはくれない。そんなことをしているうちには、もう、いつもの坂道に差し掛かってしまっていた。
雑草の青臭さと土埃の煙臭さが、湿っぽい空気のせいで一段と立ち込めている。辺りの雑木林から聞こえるはずの蝉時雨も、今日はまばらに、遠く近くを泡沫のような曖昧さで浮かんでいた。後は朧気な陽だまりだけが、地面にようやく色を灯しているくらいだった。
舗装の褪せたアスファルトだけが、緩やかに続いていく。脈搏がそのたびに激しくなっていって、胸がやはり、締め付けられるように息苦しい。それでも彼女に会いたいと思うのは、これはもはや、僕があやめと一緒にいたいだけなのだろう──いや、いたいのだ。
そう断言した直後に、辺りの視界が晴れて、見慣れた景色が飛び込んでくる。民家の軒先には居間と繋がる縁台があって、そこに彼女は、いつもと変わらずに座っていた。ただ今日は、麦わら帽子を冠ってはいない。だから曼珠沙華の髪飾りが、遠目によく見えた。
ここが飽きるほど訪れた場所だからか、或いはあやめが普段通りだったことへの安堵からか、少しだけ気分が落ち着いてきたように感じる。それなら、後はいつも通りに声をかけるだけで十分だろう。そう思い思い、先程とは違って軽やかな一歩を踏み出す。砂利が靴の裏に擦れて、小さな音を立てた。その直前ほんの僅かに、あやめが僕を見た気がする。
──そうして立ち上がると、彼女は刹那に消えた。
5
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
真夏の温泉物語
矢木羽研
青春
山奥の温泉にのんびり浸かっていた俺の前に現れた謎の少女は何者……?ちょっとエッチ(R15)で切ない、真夏の白昼夢。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
結城優希の短編集
結城 優希@毎日投稿
ライト文芸
ボクが気ままに書いた数千文字の短編小説をここに随時置いていく予定です!
ボクの私生活の忙しさによっては変わるかもしれないですけど週に2~3回投稿します。
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
龍皇伝説 壱の章 龍の目覚め
KASSATSU
現代文学
多くの空手家から尊敬を込めて「龍皇」と呼ばれる久米颯玄。幼いころから祖父の下で空手修行に入り、成人するまでの修行の様子を描く。
その中で過日の沖縄で行なわれていた「掛け試し」と呼ばれる実戦試合にも参加。若くしてそこで頭角を表し、生涯の相手、サキと出会う。強豪との戦い、出稽古で技の幅を広げ、やがて本土に武者修行を決意する。本章はそこで終わる。第2章では本土での修行の様子、第3章は進駐軍への空手指導をきっかけに世界普及する様子を独特の筆致で紹介する。(※第2章以降の公開は読者の方の興味の動向によって決めたいと思います)
この話は実在するある拳聖がモデルで、日本本土への空手普及に貢献した稀有なエピソードを参考にしており、戦いのシーンの描写も丁寧に描いている。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる