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八月二十七日

彼岸花

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今日は朝から快晴だった。葉の合間から燦々と降り注ぐ日差しの中を、僕はあの坂道を上って彼女を迎えに行く。稲田を見下ろすように聳えているのは、まだ出来かけの入道雲だった。頭上からアスファルトに洩れる陽だまりを避けながら、心持ち歩調を速めて、あやめの家まで歩いていく。いつもの場所に、彼女はいた。


「あやめちゃん」


麦わら帽子を目深に冠った彼女は、つばを少し持ち上げてから僕の方に振り向いた。その動きに追随して、黒髪が軽やかに靡いている。視線はやはり、いくらか逸れていた。それを自分から合わせにいくのも、昨日今日ですっかり慣れてしまったのが残念だ──そんなことを思い思い、あやめの隣にそっと腰掛ける。もはや必需品になりかけている日記帳も、傍らに置いておいた。


「ねぇ。いつも縁側に座ってるけど、まさかずっとここにいるわけじゃないよね……? きちんと寝たりしてるのかな」

「うん。幽霊だから夜行性ってわけでもないよ。そもそも今が何時とかまったく分かんないから、取り敢えず眠くなったら寝るの。適当に手探りで居間に戻って、畳の上で寝てるんだ」


その言葉に、僕は思わず硝子窓の向こうを覗いてしまった。何の変哲もない居間がある。座卓と座布団と、押し入れと、後は廊下か台所に繋がる襖が見えるきりだ。もちろん布団など敷かれていない。そもそも敷けるのだろうか──と心配になってきた。それ以前に、まだこの家には家具が残っている。あやめの家族はどうしているのだろう。彼女は『いつの間にか誰もいないお家に一人ぼっちで』と言っていたけれど、そういうことならば──。


「ねぇ、彩織ちゃん」

「うん?」


脳内を渦巻いていた雑多な思考が、彼女の一言で霧散していく。そのまま覗いていた硝子窓からあやめに視線を戻した。


「今日は踏切と駅の方に行くんだよね。私、駅はあんまり行ったことないから、楽しみなんだ。そろそろ行ってみよう」

「うん、行こう。僕も駅はあんまり知らなくて」

「あれっ、そうなんだ。じゃあお互いにあんまり知らない同士だね。彩織ちゃんがどう伝えてくれるのか、気になるなぁー」


悪戯っぽいような笑みで、あやめは縁側から立ち上がる。純白のワンピースが虚空に翻って、その鮮やかな白が眩しく見えた。そうして矢庭に差し出された彼女の手を前に、僕はやや面食らう。


「……えっと、どうしたの」

「彩織ちゃんが手を繋いでくれなきゃ、私、何処にいるか分からないでしょ。転んだりするのも嫌だし。昨日は殆ど歩かなかったけど、今日はたくさん歩く予定だもんね。ほらほら、早くぅ」


目の前でひらひらと振られるあやめの手を見て、僕は自分の気の回らなさを恥じる余裕すらなく、羞恥と緊張の色を多分に横溢させていると思う。加速しかけている脈搏の様子を自覚しいしい、何がなしに掌を拭ってから、いきおいそのまま立ち上がった。後は出来るだけ平静を装いながら、小さな手をとって軽く握る。


「えへへっ。彩織ちゃんと手、握っちゃったねぇ」


あやめは僕の心境などいざ知らず、余裕の笑みを洩らしていた。


「それじゃあ、レッツゴーだよっ」


握った彼女の手は、その見た目通りに小さくて、柔らかで、温かかった。それこそ幽霊なんかではない、生身の人間そのものだった。四年前の夏も、こうして手を繋いでいた気がする。目蓋の裏に、あの日の残影が浮かび現れてくるような、そんな気がした。





『黄金色の稲田と紺青の昊天が、天地を二分している。その合間を埋めるように立ち昇っていく入道雲は、炎陽に照らされて白光りしていた。地を辷っていく線路には陽炎が立っていて、眩く散りばめられた敷石を追うように目を遣ると、あそこが終着駅なのだろう──稲田に囲まれるように、ひっそり閑と佇んでいる。けれど真っ先に目に止まるのは、やはり、あの踏切だった。』


街路灯に寄りかかりながら、僕は手記を綴っていく。あやめは隣でその音を静かに聞いていた。今は離している手を遊ばせながらも、紙に擦れるシャープペンの芯の音、裾が奏でる衣擦れの音──夏に融けていきそうなそれらを全て、彼女は手にしているように思えた。そうして、僕の言葉も、きっと。胸臆にある古びた記憶に色を付けていくみたいに、あやめは辺りを見回していた。


「この踏切、結構ボロボロだよね」


まるでそれが見えているように、彼女は自然に言う。


「夕暮れになると、ちょっと怖いんだ。太陽が山の方に沈んでいくから、薄暗くなっちゃって。だから夜とかは近付きたくないんだけど、お家に帰れるのはこの道だけだし、我慢してたんだよ。それになんだか、この世とあの世の狭間みたいな気がするの。特に夏の終わりから秋は、曼珠沙華が咲いてるから、余計に」


「ねぇ。今は、咲いてる?」あやめは僕の方を向かずに、路傍を見詰めながら洩らす。雑草の生える砂利道には、線路の敷石が幾つか飛び散っていた。街路灯のすぐ傍らを、あの曼珠沙華は粛然として咲いている。夏風に悠々と散形花序の花弁を靡かせる様が、綺麗というよりもやはり、どこか物悲しいような気がした。


「一つだけ」

「そっか」


そういえば僕に曼珠沙華という呼び名を教えてくれたのは、他でもない彼女だったことを、いま不意に思い出す。それが何度目の夏だったかはもう、とっくに忘れてしまった。けれども幼少の目と耳に、あの黄昏と少女の声は焼き付いているような気がした。


「──私ね、彼岸花って嫌いじゃないよ」


その時もあやめは、今と変わらない口調で、そう言っていた。


「縁起の悪い名前だし、毒とかあるし、よくお墓で見るし、なんか怖いから、あんまり好かれてない花だけど……それでも道端でひっそりと健気に咲いてて、そういうの、なんかいいなって。だから、好き。毒があるから、あんなに綺麗なんだろうね。薔薇の花が綺麗なのも、きっと、棘があるからだよ。それなら人間でも、綺麗な人は、どこかにきっと毒とか棘があったりするのかな」


物悲しそうな面持ちで、彼女は軽風に揺れる曼珠沙華を見詰めている。暑熱にあてられて淡みを帯びた頬が、ときおり黒髪に隠されていった。その名残が薄膜を帯びた汗に張り付いて、一筋、二筋と線を描いている。気持ち程度の涼やかな風に吹かれながら、あやめはやがて目を瞑って、左手の中指で横髪を掻き上げた。

その横顔が綺麗だと感じているのに、僕は素直にそう捉えることが出来ない。天真爛漫なはずの彼女にも黒い部分があるのだろうかと思うと、どこか胸が痛むような気がした。たとえそれが僕の一方的な願望でエゴだとしても、何故だか彼女には、純真無垢であって欲しいのだ。その理由というのは、分からないけれど。


「──結局、人間なんて、そんなものだよね」


耳元で風が鳴る。洩らすあやめの声が、やや掻き消されがちだった。だから、と言おうか、けど、と言おうか──僕には、そう聞こえた。人間なんて。人間。人間はみんな、黒いのだろうか。僕も、彼女も、小夜も、誰も彼もに、毒と棘があるのだろうか。それなら人間とはいったい、何なのだろう。そう思った。


「ねぇ、彩織ちゃん」


弾むような彼女の声が、喜色をたたえて僕の耳に届く。つい先程の陰鬱や諦観にも似たそれとはあまりにも異なる声に、自分は在り来りな態度であやめに返事をすることしか出来なかった。


「次は駅、行ってみよう」
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