上 下
2 / 28
八月二十五日

引き波

しおりを挟む
 ──四年ぶりの帰省は、夏を探すために来た。こんなこと、誰に説明しても笑われる。だけど唯一、あやめになら、言ってもいいような気がしていた。同年代でただ一人、気心の知れた相手だから。同じ同年代でも、いとこのような身内に説明するのは、流石にはばかられる。きっと、身内か否か。そこなのだろう。

 祖父母の家に帰省する時は、いつもこの部屋があてがわれていた。二階の最奥、和室の八畳。座卓と座椅子があるきりの簡素なものだけれど、寝泊まりするぶんには何の問題もない。

 ついさっき開けた窓からは、部屋いっぱいに籠もっていた熱気が逃げていく。その変わりに涼風が吹き込んで、僕の髪をそっと揺らしていった。

 座椅子の背もたれに寄りかかりながら、窓枠の向こうを、何がなしに凝視する。卓に開いている日記帳代わりのノートブックが、風をはらんで一枚めくれる音がした。そこにふと、目が留まった。

『──だから、存在しないあの夏に、焦がれているのだ。縁なしの紺青の空、ただ立ち昇るだけの入道雲、アスファルトに揺らぐ夏陽炎、降り注ぐような蝉時雨──その悠然さに、僕は、きっと。』

 それは昨日、この村にやって来た時、すぐ書き留めた手記の一部だった。喧騒な都会の生活に辟易へきえきして、少しでもあの頃の悠然さを取り戻そうとした、僕自身のエゴに他ならない。

 だから、ここに来た。手を伸ばして、背伸びをした。自分の夢想する夏というものの断片に、ほんの少しだけでも触れたいから。虚像の夏を、ほんの少しだけでも鮮明に映し出したいから。

 そしてなにより、スランプを脱却したかった。今まで普通に書けていたはずの小説が、まったく書けなくなった。地元の環境が邪魔だった。だから、ここに来た。


「……これで良かった、のかな」


 消え入りそうな声で自問自答するけれど、誰も答えてはくれない。それはさながら、この八畳間の森閑に、音もなく融けていくようだった。

 ときおり肌を洗っていく晩夏の風は、どこかに哀愁の匂いがする。まだ、間に合う──そう言ったあやめの言葉が、ふいに、頭のどこかで鳴り響いたような気がした。


彩織いおりちゃん、おる?」


 思案にふける僕を現実へ引き戻すかのように、誰かが部屋の扉を叩く。顔を上げてそちらを見ると、一人の少女が、少しだけ開いた扉の合間から、頭を覗かせていた。毛先が巻かれている茶髪のショートヘアは、この家には同年代のいとこ、小夜さよしかいない。

 ゆったりとしたワイドパンツとトップス姿で、彼女は部屋に入ってくる。柑橘類のような爽やかな匂いが、風に乗ってこちらにも漂流してくるようだった。


「そろそろ夕飯やってさ」

「うん。いま行く」

「おっけ。……なに読んどるん?」


 小夜は腰に手を当てながら、卓の上にあるノートブックを覗き込もうとする。僕は咄嗟にそれを閉じると、表紙を見せるふりをして中身をごまかした。幸いにも『日記帳』とタイトルを書いてあるし、『雨宮彩織』と名前も記している。

 ……流石にこれを人に読まれるのは、恥ずかしい。我ながら人に言えない行動理念を持っているのはどうかと思うけれど、仕方のないことだ。この日記帳を後世まで残すかは別の話として。


「日記帳。久々にここに来たし、記念になにか書いてみようかなって」

「へぇ……よくそんなん書けるんね。小学校の夏休みを思い出すなぁ。あったやろ? 毎日の日記帳」

「うん、あった。文章とか小説とか書くのは好きだから、ちょこっとやるくらいなら苦になんないよ。学校でも文芸部に入ってるし」


 「んーん、関心関心……。ウチは三日坊主や……」と苦笑しいしい、小夜は畳の上であぐらをかく。それからふと、「あっ」と思い出したように手を叩いて、少し前のめりになりながら言った。

 緩やかな茶髪のショートヘアが、その動きに追随して軽やかになびく。僕を見るその瞳は、蛍光灯の白が反射していた。


「そういや彩織ちゃん、さっきどこまで行ってきたん? 村に何があったか覚えとるんー?」


 悪戯心のあるような笑みで、小夜は僕の顔を見つめてくる。最後に来たのが四年前とはいえ、流石にすべてを忘れているわけじゃない。……いやまぁ、記憶が曖昧になっているところも、ないわけではないけど。

 踏切は、この家から少し離れたほとんど向かいで、その線路を沿って向こう側に歩けば、駅がある。駅前には商店がいくつか並んでいて、その通りを外れると、駄菓子屋があったはず。学校も確か、その近く。


「何がどこにあるかくらいは、まだ覚えてるよ。ギリギリね」

「ギリギリかい……」


 呆れたような顔の小夜を見ながら、「そういえば」と僕は切り出す。


「さっき、あの子に会ったよ。昔、たまに遊んでた──」

「あの子って誰や……男か女かはっきりせんと。同年代の子?」

「うん。──そうだ。あやめちゃん。椎奈あやめちゃん」

「えっ……」


 途端に小夜が小さく悲鳴したように聞こえた。それはただ、そう聞こえただけで、本当はどこかで似たような音がしたのだろうと、そう思った。虫の声とか、野良猫の声とか、そういう類だろうと。

 だから僕は、一瞬だけ窓の向こうを見る。何もないから、視線を戻す。けれど彼女は明らかに、息を呑んでいた。張り詰めたような森閑に八畳間は包まれて、それはさながら、触れたら割れてしまいそうな、玻璃はりのようだった。

 視線が右往左往と彷徨ほうこうしている。きっとお互いに、酷く狼狽ろうばいしたような態度でいるのだろう。だからこそ、僕の発言に一切の非があるのだということを、否が応でも感じさせられた。

 一二〇ほどまで急増した脈拍を直に感じながら、彼女の説明を、固唾を呑んで待たずにはいられなかった──これ以上ないほどに遣り切れないような、怖気立ったような、とにかく何とも言い様のない表情を、彼女はしていた。


「……彩織ちゃん、知らないん?」


 何が、とも軽率に切り出せない口調をしている。僕は無言のまま、先を促した。


「……あやめちゃんはもう、死んでるんよ」


 階下で僕たちを呼ぶ祖母の声が、どこか遠くに聞こえた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

処理中です...