鏡鑑の夏と、曼珠沙華

水無月彩椰

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八月二十九日

幽世、空蝉

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あやめと一緒にいつもの坂道を下りる頃には、太陽も既に南南東のあたりへと昇っていた。頭上の枝葉から洩れる陽だまりも、昨日ほど煩わしくはない。そんな夏の陽気に当てられてしまったのか、彼女の足取りはおぼつかなかった。まだ夢現にいるようだ。


「……彩織ちゃん、眠い」
「うん、頑張って。このままだと危ないよ」
「……んー、なんとか」


手で目元を擦っているあやめに苦笑しいしい、僕はのんびりとした足取りで神社に向かっていく。片手には日記帳を、もう片手には力なく握られている彼女の手をそっと包みながら、坂道を下りきって道なりに進んだ。昨日は通り過ぎた最初の曲がり角を左に折れる。目の前と少し向こうに民家が一件、他は田畑ばかりだ。


「ところで、カラーの夢は見れた?」
「えへへ……見れたよ。それも全部、色があってね」
「良かったじゃない。どんな夢?」


話をすれば、あやめの眠気も紛らわせられるだろう。そんな期待と純粋な好奇心とを綯い交ぜにしながら、炎陽に照るアスファルトを進んでいく。生ぬるい熱気を足元に感じながら、二人ぶんの靴音が響いていた。これ以上ないほどに暢気のんきな靴音だった。

彼女は欠伸あくびを噛み殺すと、「あのね」と前置きして続ける。僕を見上げたその拍子に、黒髪に映える曼珠沙華の髪飾りが、生き生きとして日差しを浴びていた。心做しかあやめの面持ちも、いつも通りの無邪気な子供みたような、あの笑みに近付いている。

彼女の夢の話は、いつも交わしている談笑のように他愛のないものばかりだった。それでも無邪気な、あの屈託のない笑みで楽しそうに話してくれるから、僕は退屈せずに聞いていられるのだろう。なにより、その笑顔があやめにはお似合いだった。彼女の、昔から変わっていないところ。そういうところが、僕は好きだ。 


「夢に色が付くと、こんなに楽しいんだね。ずっと寝てられる」
「寝てばかりで、僕のこと忘れちゃ困るよ」
「それは大丈夫だよっ。たくさん遊んで疲れたら寝るもんね」


えへへ、と破顔するあやめにつられて笑う。やはり、昔から彼女といるだけで、楽しい。それに、楽しいだけではなかった。あやめの奔放で磊落らいらくな性格が、僕自身も明るい気持ちにしてくれる。──だから、彼女のことが、好きになったのかもしれない。


「じゃあ、今日もゆっくり遊んで回ろうか」
「うん。神社と小川、楽しみだね。涼めるかなぁ」
「人がいなければ、のんびりできると思うよ」


そう言って、視線を奥にすべらせていく。焼けたアスファルトには、見慣れた夏陽炎が立ち込めていた。舗装が崩れかかっているのか、ところどころ雑草と砂利が混じっている。その感触を履物の裏に感じながら、左右に広がる稲田を見渡した。ただ、路傍に点々と立っている電柱が、頭上に線を張り巡らせている。それが少し邪魔に思えてしまって、何がなしにどこか物悲しくなった。

一直線に続くアスファルトの向こうには、紺青の夏空の下を、鬱蒼うっそうとした森のようなものが一面に広がっている。あれが神社の境内なのだろう。改めて見ると、かなり大きい。道の終わり際には、大きくも小さくもない石造りの鳥居が立っていた。段々と近付くにつれて、ところどころ苔を張り付かせているのが分かる。

鳥居の入口からは、アスファルトが古びた石畳に変わっていた。境内へ向かう前に、あやめと揃ってお辞儀をする。辺りが心做しか張り詰めたような空気に変わったのを感じながら、森閑にほど近い森閑の音色を聞きつつ、耳の痛くなりそうな静けさの中を、二人で歩いていく。ここの蝉時雨は、やけに涼やかだった。


「……あっ」
「どうしたの。誰かいた?」
「いや……」


苔むした石畳が奥へと伸びる境内の、その石畳の傍に、曼珠沙華が幾つか咲いている。ときおり風を受けながら、紅い花弁を妖艶に、そうして悠然となびかせていた。鬱蒼とした木々に覆われて、辺りはいくらか薄暗い。炎陽から照る日差しも、ここまでは降りてこなかった。それなのに、何処かから吹いてくる軽風だけは涼やかで、なんとなく、境内の外とは雰囲気がまるで違っている。


「あやめちゃんの好きな、曼珠沙華。咲いてるよ」
「そうなんだ。ふふっ、なんか嬉しいな」


二人でその場にしゃがみこんで、彼女はゆるりと手を伸べた。青々とした茎も、これ以上ないほどに紅い花弁も、細やかなしべも、まるでその全てが洗練された芸術作品のように感じられてきて、思わず見蕩みとれてしまう。神社の境内に、曼珠沙華。不吉に感じる人は、そう感じるのだろう。それが大半なのかもしれない。

ふと、あやめの横顔を見詰める。麦わら帽子をかむっていても分かるほどに、彼女は目元を綻ばせていた。肩のあたりまで伸びた黒髪も、ところどころ皺になった純白のワンピースも、それが全て、この真っ赤な曼珠沙華と対になっているような気がした。


「私の、この髪飾りもね、曼珠沙華でしょ」


あやめはおもむろに立ち上がると、得意げに麦わら帽子から髪飾りを覗かせた。いつも隠れてよく見えないものだけれど、彼女はそれをたいそう気に入っているのだろう──肌身離さず身に着けている。昔に見た覚えはないから、この四年の間にあつらえたらしい。


「本物の花で髪飾りは難しいって言われたんだけど、おばあちゃんが布を折ったりつまんだりして作ってくれたの。私の宝物なんだ。凄いよねっ。作ってもらった日から、ずっと着けてる」


えへへ、と柔らかな笑みを洩らしながら、僕とあやめは再び境内の中を歩き始めた。石畳の上を二人ぶんの靴音が鳴る。自分たちの他には誰もいなくて、まるでここが、常世ではない何処か──それこそ幽世かくりよに近いような静謐せいひつな風情を、ほんの少しだけ感じた。すぐそこに立つ樹木の幹に、空蝉うつせみが一つ、のこっている。

しばらく歩くと、神社の拝殿が見えてきた。やや苔ばかりの、雨風にり減った燈籠が、一面の玉砂利の上に立ち並んでいる。ところどころ剥げている瓦葺きの屋根と、意匠の施された木組みの四壁、そうして真正面には注連縄しめなわを垂らして、これが村外れの神社にしては立派なものだね──などと、ふと思った。背後には青天井を衝くかのように、木々が蓊鬱おううつとした枝葉を茂らせている。


「ここの神社はね、よく初詣に来たんだ。村の人たちがいっぱい集まるから、私の家は、その少し後にお参りするんだけどね。誰もいないし広いから、よく遊んだりもしたじゃない。彩織ちゃんも覚えてるでしょ? 小さい頃は、ここで虫取りとかやったもんね。普段は小夜ちゃんとか叶兄ともよく遊んだりしたんだよ」


小夜と一緒にはしゃぎながら、蝉を追いかけていたあやめの姿を思い返す。小さい頃から自由奔放で、無邪気で──そういうところは今も、殆ど変わっていない。この村には珍しい余所者の僕と、その親戚である小夜たちは特にあやめと仲が良かった。村での彼女がどういう子なのかは把握していなかったけれど、おおよそ自分たちが見て、或いは接してきた通りなのだと思っている。


「せっかくだし、神様にお願い事していこうっ」
「うん。そう言うと思って、お賽銭、準備しといたよ」
「おー、さすが彩織ちゃんだね。お仕事が早い」


昔もときおり、神社にお祈りをすることがあった。いつも五円玉を手のひらに握りしめて、『ご縁がありますように』と神様にお願い事をした記憶がある。そんなことを思い返しながら、五円玉を取り出してあやめに手渡した。手の中が滲むように暑くなるほど握りしめながら、注連縄の垂れる拝殿の間近に二人で立つ。

賽銭箱に小銭をそっと投げ入れると、金属の澄んだような、或いは木板にぶつかって鈍いような、そんな音がした。それから揃って鈴を鳴らしながら、何故だか笑ってしまいそうになるのを堪えて合掌する。ようよう心を静めて黙唱しいしい、隣で目を瞑りながら手を合わせている彼女の姿を、さりげなく横目で一瞥した。

その横顔がどこか綺麗で、そういえば昔も同じようなことをしていたなと、人知れず気恥ずかしくなる。もしかしたら、あやめも僕の横顔を盗み見ていたかもしれない。それはそれで気になるような、そうでもないような、変な感じだ。ところで彼女はいったい何をお願いしたのだろう。ふと気になって、訊ねてみる。


「えっと、彩織ちゃんとこの夏を楽しく過ごせますようにって」
「……あはっ、僕と一緒だ。考えてること、全く同じだね」
「本当? えへへ、なんか嬉しいね。ちょっと恥ずかしいけど」


拝殿の前で向かい合いながら、二人揃って笑みを零した。そのままひさしの下から出ると、炎陽の眩しさが瞳に焼き付いてくる。この感覚も、そういえば、いつかの夏に味わったような気がした。一度ではなくて何度も、あやめと一緒に、夏が来るたびに──。


「彩織ちゃん。ちょっと暑くなってきたから、小川に行こう」


──この台詞も、思い返せば、いつものことだった。

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