アイムヒア

鳥井ネオン

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ジャスミン

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 ママがいなくなって何日かして、さすがにおかしいなって思ってたときに、家を訪ねてきた人がいた。

 インターホンが鳴って、すぐにあたしは電気を消した。消したあとで、そんなことしたら余計にいるって分かるって気づいた。

 インターホンのパネルには男の人が映ってた。背が高くて若い人に見えた。

 どうしたらいいのか分からなくてまた電気をつけた。つくづくあたしはバカだと思う。その人は、家にだれかいることに完全に気づいた。もう一回インターホンを鳴らして、カメラの位置に顔を向けた。怪しいものじゃない、って言ってるみたいに。

 うちのカメラはいいやつじゃないからはっきり顔は見えなかった。だけど若い男の人だってことは分かった。あたしには友達も知り合いもいないから、ママの知り合いなのかもしれないと思った。

 もしかしたらママに何かあって知らせに来たとか。そう考えた途端に怖くなって、インターホンを無視していきなりドアを開けてしまった。

 その人はカメラ越しに見るよりもっと若かった。あたしよりは歳上なんだろうけど、たぶん三つ以上は変わらない。背が高くて、思い切り見上げないと顔が見えなかった。

 シンプルなTシャツとジーンズ姿で、バックパックを背負ってる。髪の毛も瞳も真っ黒でキラキラしてて、あたしと同じような格好をしてるくせに高級感がぜんぜん違った。

 ゲイテッド。ゲイテッドピーポー。

 その人が誰なのか見当もつかなかった。どうしていいか分からなくてあたしは固まった。その人も同じようにびっくりしてて、どっちも何も言えないままで玄関先に突っ立ってた。たぶん何十秒か無言で見つめあって、先にあたしが我に返った。

「ママはいません」

 訊かれてもないのにそう言った。その人はそれでも動かなかった。フリーズした画面みたいに固まって、じっとあたしのことを見てた。

「あの」

 ドアを閉めたかったけど、さすがにそれは失礼だと思ったから困った。しばらくしてドアの警報が鳴り始めて、やっとその人も我に返った。長い間開けっ放しだと鳴るやつだ。

 あたしはいったんドアを閉めて、警報を止めて、また開けた。その人はもちろんまだそこにいたけど、今度はもう固まってなかった。

「すみません」

 柔らかい声だった。ぜったいに大声で怒鳴ったりしないような声。だれかに言うことを聞かせるのに慣れてるみたいな。

「忘れ物を届けにきたんです」

 バックパックのジッパーを開けて、中から小さな包みを取り出す。柔らかそうな黒い布で、手のひらに載るくらいの大きさだ。

 差し出されて、よく分からないまま受け取った。その人は軽く頭を下げて背中を向けた。逃げるみたいに。

 包みを開けてみる。指輪だった。水色の石がついた指輪。ママがひとつだけ持ってたやつだ。

「待って!」

 庭を出て道路を渡ろうとしてたその人を追いかけた。バックパックを背負った背中が振り返る。逃げるかどうか迷うみたいに。

「ママはどこに行ったの?」

 その人はまた、何も言わないであたしを見た。すごく怖いものでも見たみたいに立ち尽くして、追いかけてきたあたしに片手をあげる。近づくなって言うみたいに。

「なんでママの指輪を持ってるの?」

 そのときその人が見せた顔をあたしは一生忘れない。その人は目を見開いて、泣きだしそうな顔をして、それから微笑んだ。切り傷みたいな笑い方だった。

 ナイフで肌を切っちゃって、そこから血が出るみたいな。怖かった。その人が何かしそうで怖かったんじゃなくて、その人にそんな笑わせ方した何かが怖かった。それがあたしの身近にあるんだってことが。

 その人は首を横に振った。それがぜんぶだった。何がなんなのか分からなかった。だけどそれと同じくらい、あたしは理解した。

 完全に分かった。ママはもう戻らないってことを。

 その人はまたあたしに背を向けて道路を渡った。配送のトラックがやってきてあたしの視界を遮った。トラックが通り過ぎたあとにはもうその人はどこにもいなかった。

 あたしには見えない秘密のドアを開けて、その人はどこかに消えてしまった。
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