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ミウ
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二ヶ月に一度、どっかの土曜日にあたしは家に帰る。
それは寄宿学校に入るときに両親と決めた条件だった。あたしが家を出たいと告げたとき、ママもパパも一瞬言葉を失った。まるで妊娠でも発表したみたいに。その様子はかなり不気味だった。
この家がいやなの?
ママはものすごく真面目にそう訊いて、パパはただ困ったように微笑んでた。怖かった。この人たちはなにに怯えてるんだろうと思った。なにに怯えてなにを隠してるんだろう。
いやじゃないよ。強くなりたいだけ。
とっさに考えた理由は嘘じゃなかった。嘘じゃなかったけど正確でもなかった。あたしはとにかく逃げたかった。あの暖かくて居心地の良い、花とテディベアで溢れた棺桶のなかから。
『ミスターフィッシュのぬいぐるみ、要る?』
帰宅途中の電車のなかで、唐突に端末から声がする。音声メッセージ優先の設定にしたのは自分だけど、聴いてた音楽がいきなりぶつ切りになってびっくりする。ボリュームを下げてパネルで返信する。
『いきなり何?』
『職場で大量に余ったみたいで。十代の子に人気だっていうから要るかなって』
パパだ。そしてそのミスターナントカが流行ってるのはたぶん十二歳くらいの子たちだ。
『気持ちだけで』
『要らない? そうか』
心底不思議そうに言うパパがなんだか可愛くて、だけど同時に不気味でもあってあたしはちょっと黙ってしまう。
『いま帰る途中?』
『そうだよ』
『迎えにいく?』
いまは午後の二時だ。最寄り駅に着くころには三時。この人は仕事中のはずなのに。
『大丈夫だよ。ていうか仕事して』
『早く帰れるから。駅のイルミネーションが新しくなったから見ようか』
イルミネーション? あたしは急にイライラする。なんで? パパと? 見てどうするの?
『そういうのはさ、彼氏と見るから』
あたしはなんて意地悪なんだろう。パパはたぶん久しぶりにあたしと会えて嬉しくて、何かあたしを喜ばせようとしてるだけなのに。
『彼氏』
パパは単語をくり返す。驚いてるわけでも怒ってるわけでも心配してるわけでもなさそうだ。はじめて聞いた外国語みたいに、パパはもう一度それをくり返す。
『彼氏か』
『そう。ボーイフレンド』
『今度連れておいで。一緒に食事でもしよう』
那津彦を? あの清潔なリビングに? テディベアがあるあたしの部屋に?
思わず声に出して笑ってしまって、近くの乗客にチラ見された。
『なにが可笑しいの?』
『パパが気に入るような彼氏じゃないからさ』
『気に入るも入らないもないよ。ミウが選んだ人なんだから』
怖い。うまく言えないけど怖い。理解がありすぎて、清潔すぎて、怖い。だからあたしは那津彦が好きなのかもしれない。那津彦は分かりやすいから。那津彦はちゃんと生きていて、あたしを怖がらないし怖がらせないから。
『パパはそういうのなかったんだよね。ママの親に紹介されるみたいなやつ』
さり気なく禁断の領域に入ってみる。パパとママの過去。絶対に語られない謎の物語。
『そうだね』
『ママって孤児なんでしょ?』
『そうだね』
返事がボットみたいになってる。やっぱりこの話はタブーらしい。
『かけ落ちしたんだっけ?』
『どうしたの急に』
『ロマンチックだなと思って。ある意味』
『うん』
パパが困ってるのが分かる。御曹司と孤児のかけ落ちとかいうストーリーを教えたのはそっちなのに。
『秘密がいっぱいだね』
あたしは最高潮に意地悪になってる。自分でもドン引きするくらいいやな奴だ。
『あたしには話せないロマンスがあるんだろうね、きっと』
『ロマンスではないかな』
パパが真面目に答えてびっくりした。いつもの曖昧な笑いで誤魔化されると思ったのに。
『どういうこと?』
『いや』
『ロマンスじゃないかけ落ちって興味あるな』
クローゼットのなかの秘密。あたしと同じ顔の誰か。一度も会ったことのないパパの家族。最初からいなかったらしいママの家族。
『必死だっただけだよ』
パパはなんだか悲しそうに言う。父親じゃなくて男の声だった。よく知ってる、なのにまったく知らない男の人の声。
『助けあうしかなかった』
『聞こえないよ』
通信のせいにして端末の電源を切った。パパはなにも話してないのに、とんでもない秘密を聞いたみたいに心臓がバクバクして、手が震えた。
それは寄宿学校に入るときに両親と決めた条件だった。あたしが家を出たいと告げたとき、ママもパパも一瞬言葉を失った。まるで妊娠でも発表したみたいに。その様子はかなり不気味だった。
この家がいやなの?
ママはものすごく真面目にそう訊いて、パパはただ困ったように微笑んでた。怖かった。この人たちはなにに怯えてるんだろうと思った。なにに怯えてなにを隠してるんだろう。
いやじゃないよ。強くなりたいだけ。
とっさに考えた理由は嘘じゃなかった。嘘じゃなかったけど正確でもなかった。あたしはとにかく逃げたかった。あの暖かくて居心地の良い、花とテディベアで溢れた棺桶のなかから。
『ミスターフィッシュのぬいぐるみ、要る?』
帰宅途中の電車のなかで、唐突に端末から声がする。音声メッセージ優先の設定にしたのは自分だけど、聴いてた音楽がいきなりぶつ切りになってびっくりする。ボリュームを下げてパネルで返信する。
『いきなり何?』
『職場で大量に余ったみたいで。十代の子に人気だっていうから要るかなって』
パパだ。そしてそのミスターナントカが流行ってるのはたぶん十二歳くらいの子たちだ。
『気持ちだけで』
『要らない? そうか』
心底不思議そうに言うパパがなんだか可愛くて、だけど同時に不気味でもあってあたしはちょっと黙ってしまう。
『いま帰る途中?』
『そうだよ』
『迎えにいく?』
いまは午後の二時だ。最寄り駅に着くころには三時。この人は仕事中のはずなのに。
『大丈夫だよ。ていうか仕事して』
『早く帰れるから。駅のイルミネーションが新しくなったから見ようか』
イルミネーション? あたしは急にイライラする。なんで? パパと? 見てどうするの?
『そういうのはさ、彼氏と見るから』
あたしはなんて意地悪なんだろう。パパはたぶん久しぶりにあたしと会えて嬉しくて、何かあたしを喜ばせようとしてるだけなのに。
『彼氏』
パパは単語をくり返す。驚いてるわけでも怒ってるわけでも心配してるわけでもなさそうだ。はじめて聞いた外国語みたいに、パパはもう一度それをくり返す。
『彼氏か』
『そう。ボーイフレンド』
『今度連れておいで。一緒に食事でもしよう』
那津彦を? あの清潔なリビングに? テディベアがあるあたしの部屋に?
思わず声に出して笑ってしまって、近くの乗客にチラ見された。
『なにが可笑しいの?』
『パパが気に入るような彼氏じゃないからさ』
『気に入るも入らないもないよ。ミウが選んだ人なんだから』
怖い。うまく言えないけど怖い。理解がありすぎて、清潔すぎて、怖い。だからあたしは那津彦が好きなのかもしれない。那津彦は分かりやすいから。那津彦はちゃんと生きていて、あたしを怖がらないし怖がらせないから。
『パパはそういうのなかったんだよね。ママの親に紹介されるみたいなやつ』
さり気なく禁断の領域に入ってみる。パパとママの過去。絶対に語られない謎の物語。
『そうだね』
『ママって孤児なんでしょ?』
『そうだね』
返事がボットみたいになってる。やっぱりこの話はタブーらしい。
『かけ落ちしたんだっけ?』
『どうしたの急に』
『ロマンチックだなと思って。ある意味』
『うん』
パパが困ってるのが分かる。御曹司と孤児のかけ落ちとかいうストーリーを教えたのはそっちなのに。
『秘密がいっぱいだね』
あたしは最高潮に意地悪になってる。自分でもドン引きするくらいいやな奴だ。
『あたしには話せないロマンスがあるんだろうね、きっと』
『ロマンスではないかな』
パパが真面目に答えてびっくりした。いつもの曖昧な笑いで誤魔化されると思ったのに。
『どういうこと?』
『いや』
『ロマンスじゃないかけ落ちって興味あるな』
クローゼットのなかの秘密。あたしと同じ顔の誰か。一度も会ったことのないパパの家族。最初からいなかったらしいママの家族。
『必死だっただけだよ』
パパはなんだか悲しそうに言う。父親じゃなくて男の声だった。よく知ってる、なのにまったく知らない男の人の声。
『助けあうしかなかった』
『聞こえないよ』
通信のせいにして端末の電源を切った。パパはなにも話してないのに、とんでもない秘密を聞いたみたいに心臓がバクバクして、手が震えた。
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