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秘密
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あの悲劇からもう十八年が経つ。
十八年という時間の経過をわたしは上手に処理できない。それは長いのか、短いのか。わたしたちは遠くまで来たのか。それともまだ同じ場所でさまよっているだけなのか。わたしたちは成功したのか。はたしてこれは成功と呼べるのか。
覚えているのは血まみれのドレス。それは高価でシックで本当は彼女の趣味ではなかった。悲鳴。泣き声。サイレンと赤色灯。
彼女について、いくつもの質問をうけた。誰も彼女が誰なのかを知らなかった。精度の低い偽IDに記載された名前で彼女は呼ばれた。そして刻まれた。その名前は世界中のニュースで配信されて、彼女が憧れたセレブリティもその名前を呼んだ。
彼女について知っていることは、誰かに話すべきことではなかった。だからわたしは口をつぐんだ。彼女の所持品でわたしが手元に残したものはひとつだけ。アクアマリンの石がついた指輪だ。彼女はそれを大切にしまっていた。遺骨のように。
彼女の残骸は特別に配慮された。記録になかった存在は記録に残された。彼女が望んだ名前のままで。彼女は地中に埋められ、花で飾られた。わたしは、わたしたちはそこに行かなかった。彼女はそこではなく、わたしたちと共にいたから。
「ねぇ」
目の前の少年は眠りにおちる。警戒することを諦め、戦場を放棄し、自ら捕虜になる。不安定だった呼吸が落ち着きを取り戻し、ひとつのリズムを形成してゆくのをわたしは見守った。
「秘密を教えてあげる。あなただけに。だれにも言ったことがないやつを」
完全に意識を失った少年に触れる。ブランケットからのぞく彼の手首。袖をまくりあげて薄汚れたブレスレットを見た。レーザーで印字された文字。アリー。はじめて知る、少年が愛する恋人の名前。
「娘とは血が繋がってないの。わたしの胎内に入れたとき、彼女はもう完成してた」
かすかに開いた唇から見える歯。変色して不揃いな、彼のヒストリー。
「娘はね、二回目の人生なの。わたしと夫が作り直した。わたしたちはやり直そうとしたんだよ」
ブレスレットの裏側。そこに印字された願い事を見る。少年が愛する少女の願い。ブレスレットが切れるとき、その願いは叶うのだという。
大丈夫になりますように。
印字されていた言葉はそれだけだった。わたしはそれを、聖書の一説のように繰り返す。
「大丈夫になりますように」
少年の恋人。おそらくは娘と同じ年ごろの少女。彼女の願いはそれだけだった。リッチになることでも美しくなることでもない。少年との永遠の愛ですらない。彼女はただ大丈夫になりたいのだ。素晴らしくなくてもいい。何もかもがオーケーな状態になりたいのだ。
わたしはしばらく少年の手首に触れていた。その若く不安定な血潮を感じ、そこにかつての自分自身の亡霊をみた。
「あなたはまだ生まれてなかったのかな」
あの事件が起きた日。きらびやかな会場が血で染まったあの日。すべてが終わり、そして始まったあの日。
「恐ろしいね、何も変わってないのよ。わたしがあなたくらいの年だった頃から」
眠りにおちた少年は水死体のようだった。かなしみに沈み、恐怖と不安に侵されて浮腫んだ、白く無垢な亡骸。
「世界は絶望にあふれてるの」
娘を胎内に宿したとき、わたしはたったひとつのことを心に誓った。
わたしはもう、これ以上誰にも、何にも自分自身を開け渡さない。わたしが自分の肉体を提供するのはこれが最後だ。わたしはすべてを夫と娘に捧げる。わたしが持っているもののすべて。魂も心臓も皮膚も骨も。わたしに起こり得るすべての未来も、埋葬した過去も。
もう一度。
わたしは生き延びる。現実世界という名のこの戦場で。牙をかくし、記憶を封じ、丁寧にハンドメイドした仮面をつけて。
あなたとともに。
わたしはここにいる。
〈第一章 完〉
十八年という時間の経過をわたしは上手に処理できない。それは長いのか、短いのか。わたしたちは遠くまで来たのか。それともまだ同じ場所でさまよっているだけなのか。わたしたちは成功したのか。はたしてこれは成功と呼べるのか。
覚えているのは血まみれのドレス。それは高価でシックで本当は彼女の趣味ではなかった。悲鳴。泣き声。サイレンと赤色灯。
彼女について、いくつもの質問をうけた。誰も彼女が誰なのかを知らなかった。精度の低い偽IDに記載された名前で彼女は呼ばれた。そして刻まれた。その名前は世界中のニュースで配信されて、彼女が憧れたセレブリティもその名前を呼んだ。
彼女について知っていることは、誰かに話すべきことではなかった。だからわたしは口をつぐんだ。彼女の所持品でわたしが手元に残したものはひとつだけ。アクアマリンの石がついた指輪だ。彼女はそれを大切にしまっていた。遺骨のように。
彼女の残骸は特別に配慮された。記録になかった存在は記録に残された。彼女が望んだ名前のままで。彼女は地中に埋められ、花で飾られた。わたしは、わたしたちはそこに行かなかった。彼女はそこではなく、わたしたちと共にいたから。
「ねぇ」
目の前の少年は眠りにおちる。警戒することを諦め、戦場を放棄し、自ら捕虜になる。不安定だった呼吸が落ち着きを取り戻し、ひとつのリズムを形成してゆくのをわたしは見守った。
「秘密を教えてあげる。あなただけに。だれにも言ったことがないやつを」
完全に意識を失った少年に触れる。ブランケットからのぞく彼の手首。袖をまくりあげて薄汚れたブレスレットを見た。レーザーで印字された文字。アリー。はじめて知る、少年が愛する恋人の名前。
「娘とは血が繋がってないの。わたしの胎内に入れたとき、彼女はもう完成してた」
かすかに開いた唇から見える歯。変色して不揃いな、彼のヒストリー。
「娘はね、二回目の人生なの。わたしと夫が作り直した。わたしたちはやり直そうとしたんだよ」
ブレスレットの裏側。そこに印字された願い事を見る。少年が愛する少女の願い。ブレスレットが切れるとき、その願いは叶うのだという。
大丈夫になりますように。
印字されていた言葉はそれだけだった。わたしはそれを、聖書の一説のように繰り返す。
「大丈夫になりますように」
少年の恋人。おそらくは娘と同じ年ごろの少女。彼女の願いはそれだけだった。リッチになることでも美しくなることでもない。少年との永遠の愛ですらない。彼女はただ大丈夫になりたいのだ。素晴らしくなくてもいい。何もかもがオーケーな状態になりたいのだ。
わたしはしばらく少年の手首に触れていた。その若く不安定な血潮を感じ、そこにかつての自分自身の亡霊をみた。
「あなたはまだ生まれてなかったのかな」
あの事件が起きた日。きらびやかな会場が血で染まったあの日。すべてが終わり、そして始まったあの日。
「恐ろしいね、何も変わってないのよ。わたしがあなたくらいの年だった頃から」
眠りにおちた少年は水死体のようだった。かなしみに沈み、恐怖と不安に侵されて浮腫んだ、白く無垢な亡骸。
「世界は絶望にあふれてるの」
娘を胎内に宿したとき、わたしはたったひとつのことを心に誓った。
わたしはもう、これ以上誰にも、何にも自分自身を開け渡さない。わたしが自分の肉体を提供するのはこれが最後だ。わたしはすべてを夫と娘に捧げる。わたしが持っているもののすべて。魂も心臓も皮膚も骨も。わたしに起こり得るすべての未来も、埋葬した過去も。
もう一度。
わたしは生き延びる。現実世界という名のこの戦場で。牙をかくし、記憶を封じ、丁寧にハンドメイドした仮面をつけて。
あなたとともに。
わたしはここにいる。
〈第一章 完〉
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