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あれから三年の月日がたった。
僕は王太子にはならなかった。
父上をはじめ、重臣や側近たちからも説得を受けたが、愛する女性一人幸せにすることのできない人間が国民の父親であって良い筈がない。謹んで辞退した。
ミランダはその後、僕の心が自分に向くことは無いと悟ったのだろう。或いは、王位に就かない僕には興味がなくなったのかもしれない。僕達の婚約は正式には結ばれず、今では他の男性との結婚に向かって動いている。
(だが、それで良い)
残念ながら僕はエーファ以外の女性を愛せる気がしない。ミランダや周囲の人間が結婚を諦めてくれたことは、ありがたいことだった。
留学が終わって以降も、エーファは隣国に留まっている。彼女の母親が隣国出身だったのがその理由だ。
王子である僕が簡単に国を出られる筈もなく、あれ以降エーファに会うことは一度もできていなかった。
エーファの家には、今でも定期的に手紙を送っている。けれど、読んでもらえているのかは分からない。彼女からの返信は、一度だってなかった。
(エーファは今、どうしているのだろうか?)
毎朝目が覚める度、エーファに会いたいと心から願う。何処へ行ってもエーファを探してしまうし、彼女の声が聞こえた気がする。笑顔が見たいと思うのに、寧ろ忘れてしまいたいとさえ思う。エーファを手放したあの日に――――もう一度一からやり直せたら――――そんなことを願ってしまう。
けれど、エーファを忘れられることは無かったし、時間が巻き戻ることも無かった。
***
(――――こんな夜会、出るだけ無駄だ)
王太子の位は辞退したものの、最低限、割り振られた公務は熟さなければならない。隣国の皇太子を迎えた歓迎の宴。そんなもの、僕にはどうだって良かった。心の中で深々とため息を吐きつつ、僕は偽りの笑顔を浮かべる。
その時だった。
ドクンと大きな音を立てて心臓が跳ねる。
(まさか、まさか……!)
チラリと視界の端に映った輝く金の髪。たったそれだけの情報だというのに、僕の足は自然と動き出した。
一歩進む度に甘やかな香りが近づき、目頭がグッと熱くなる。
凛とした佇まい、優雅な所作。後姿だが、僕が見間違うはずがない。
「エーファ!」
呼べば、彼女はゆっくりとこちらを振り向く。それから穏やかに目を細めて僕を見つめた。
「殿下……お久しぶりです」
涙がポロリと零れ落ちる。公の場だというのに、止められない。
「エーファ、戻って来たんだな!」
この三年間ずっと空っぽだった心の中が、温かな何かで満たされていく。
エーファはあの頃よりも、ずっとずっと綺麗になっていた。まるで大切に磨き上げられた宝石のように光り輝き、あどけなさの代わりに大人の女性の色香が漂う。けれど、上品さは損なわず、まるで女神のような美しさだった。手を伸ばしたい。抱き締めたくて堪らなかった。
「ご挨拶が遅くなって申し訳ございません。色々とすることがあったものですから」
「そんなことは構わない! 本当にエーファなんだな!」
僕は言いながら涙を拭う。エーファは柔らかく微笑んだ。
エーファが今、ここに居る。彼女にまた会うことが出来た。それ以上に大事なことなんて存在はしない。
「ずっとずっと、会いたかった」
心からの想いを口にすれば、エーファはそっと目を細める。それから、ゆっくりと視線を横に動かした。
「実は、殿下にご紹介したい人が居るのです」
「紹介? 僕に?」
「ええ。この度、婚約をすることになったものですから」
そう言ってエーファは、彼女の隣に並び立つ男性を見上げる。
僕は大きく目を見開いた。
「初めまして、シェイマス殿下」
そう口にするのは、神秘的な紫色の瞳をした美しい男だった。エーファはウットリと彼を見上げつつ、ほんのりと頬を染める。胸が痛くて堪らなかった。
「隣国の皇太子、イアン様ですわ。留学先で知り合いましたの。わたくしのような至らぬ女に、本当に良くしてくださって……」
「至らない所なんて何一つないよ。エーファはこの世の誰よりも素敵だ。君と婚約が出来て、俺は本当に幸せだと思っている」
エーファの薬指には、大きな宝石のあしらわれた指輪が光っていた。笑い合う二人の手は、傍から見ても固く結ばれている。
(僕はあんな風にエーファを笑わせてあげることが出来なかった)
後悔が胸に込み上げる。
何もかもが間違っていた。遅かったのだと思い知る。
(それでも僕は……)
「婚約おめでとう、エーファ」
涙を堪え、僕はエーファに微笑みかける。エーファは大きく頷きつつ、僕のことを見つめた。
「ありがとうございます、殿下」
僕は二人に小さく会釈をすると、ゆっくりと歩を進める。やがて、エーファの隣へ差し掛かった時、そっと身を屈めた。
「……これからもずっと、君のことを想うよ」
そう口にすれば、エーファは目を丸くして、今にも泣き出しそうな顔で笑う。
それは彼女を手放したあの日、心に焼き付いた表情にそっくりで。
これからの彼女が幸せであってほしいと心から願う。
だけど時々で良い。僕のことを思い出してほしい。僕の心は未来永劫、エーファだけのものだから。
「さようなら、殿下」
けれどその時、エーファがそう小さく呟くのが聞こえてきて。
(本当に、僕は馬鹿だなぁ)
流れる涙をそのままに、僕は声を上げて笑うのだった。
僕は王太子にはならなかった。
父上をはじめ、重臣や側近たちからも説得を受けたが、愛する女性一人幸せにすることのできない人間が国民の父親であって良い筈がない。謹んで辞退した。
ミランダはその後、僕の心が自分に向くことは無いと悟ったのだろう。或いは、王位に就かない僕には興味がなくなったのかもしれない。僕達の婚約は正式には結ばれず、今では他の男性との結婚に向かって動いている。
(だが、それで良い)
残念ながら僕はエーファ以外の女性を愛せる気がしない。ミランダや周囲の人間が結婚を諦めてくれたことは、ありがたいことだった。
留学が終わって以降も、エーファは隣国に留まっている。彼女の母親が隣国出身だったのがその理由だ。
王子である僕が簡単に国を出られる筈もなく、あれ以降エーファに会うことは一度もできていなかった。
エーファの家には、今でも定期的に手紙を送っている。けれど、読んでもらえているのかは分からない。彼女からの返信は、一度だってなかった。
(エーファは今、どうしているのだろうか?)
毎朝目が覚める度、エーファに会いたいと心から願う。何処へ行ってもエーファを探してしまうし、彼女の声が聞こえた気がする。笑顔が見たいと思うのに、寧ろ忘れてしまいたいとさえ思う。エーファを手放したあの日に――――もう一度一からやり直せたら――――そんなことを願ってしまう。
けれど、エーファを忘れられることは無かったし、時間が巻き戻ることも無かった。
***
(――――こんな夜会、出るだけ無駄だ)
王太子の位は辞退したものの、最低限、割り振られた公務は熟さなければならない。隣国の皇太子を迎えた歓迎の宴。そんなもの、僕にはどうだって良かった。心の中で深々とため息を吐きつつ、僕は偽りの笑顔を浮かべる。
その時だった。
ドクンと大きな音を立てて心臓が跳ねる。
(まさか、まさか……!)
チラリと視界の端に映った輝く金の髪。たったそれだけの情報だというのに、僕の足は自然と動き出した。
一歩進む度に甘やかな香りが近づき、目頭がグッと熱くなる。
凛とした佇まい、優雅な所作。後姿だが、僕が見間違うはずがない。
「エーファ!」
呼べば、彼女はゆっくりとこちらを振り向く。それから穏やかに目を細めて僕を見つめた。
「殿下……お久しぶりです」
涙がポロリと零れ落ちる。公の場だというのに、止められない。
「エーファ、戻って来たんだな!」
この三年間ずっと空っぽだった心の中が、温かな何かで満たされていく。
エーファはあの頃よりも、ずっとずっと綺麗になっていた。まるで大切に磨き上げられた宝石のように光り輝き、あどけなさの代わりに大人の女性の色香が漂う。けれど、上品さは損なわず、まるで女神のような美しさだった。手を伸ばしたい。抱き締めたくて堪らなかった。
「ご挨拶が遅くなって申し訳ございません。色々とすることがあったものですから」
「そんなことは構わない! 本当にエーファなんだな!」
僕は言いながら涙を拭う。エーファは柔らかく微笑んだ。
エーファが今、ここに居る。彼女にまた会うことが出来た。それ以上に大事なことなんて存在はしない。
「ずっとずっと、会いたかった」
心からの想いを口にすれば、エーファはそっと目を細める。それから、ゆっくりと視線を横に動かした。
「実は、殿下にご紹介したい人が居るのです」
「紹介? 僕に?」
「ええ。この度、婚約をすることになったものですから」
そう言ってエーファは、彼女の隣に並び立つ男性を見上げる。
僕は大きく目を見開いた。
「初めまして、シェイマス殿下」
そう口にするのは、神秘的な紫色の瞳をした美しい男だった。エーファはウットリと彼を見上げつつ、ほんのりと頬を染める。胸が痛くて堪らなかった。
「隣国の皇太子、イアン様ですわ。留学先で知り合いましたの。わたくしのような至らぬ女に、本当に良くしてくださって……」
「至らない所なんて何一つないよ。エーファはこの世の誰よりも素敵だ。君と婚約が出来て、俺は本当に幸せだと思っている」
エーファの薬指には、大きな宝石のあしらわれた指輪が光っていた。笑い合う二人の手は、傍から見ても固く結ばれている。
(僕はあんな風にエーファを笑わせてあげることが出来なかった)
後悔が胸に込み上げる。
何もかもが間違っていた。遅かったのだと思い知る。
(それでも僕は……)
「婚約おめでとう、エーファ」
涙を堪え、僕はエーファに微笑みかける。エーファは大きく頷きつつ、僕のことを見つめた。
「ありがとうございます、殿下」
僕は二人に小さく会釈をすると、ゆっくりと歩を進める。やがて、エーファの隣へ差し掛かった時、そっと身を屈めた。
「……これからもずっと、君のことを想うよ」
そう口にすれば、エーファは目を丸くして、今にも泣き出しそうな顔で笑う。
それは彼女を手放したあの日、心に焼き付いた表情にそっくりで。
これからの彼女が幸せであってほしいと心から願う。
だけど時々で良い。僕のことを思い出してほしい。僕の心は未来永劫、エーファだけのものだから。
「さようなら、殿下」
けれどその時、エーファがそう小さく呟くのが聞こえてきて。
(本当に、僕は馬鹿だなぁ)
流れる涙をそのままに、僕は声を上げて笑うのだった。
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ちょっぴり切なくて…
自業自得な部分もあるけれど
悲しい😭
感想をありがとうございます。
あとから気づいてももう遅いことってありますよね...。シェイマスに感情移入していただけて嬉しいです。
改めまして、ありがとうございました。
若さゆえの過ちってあるよね。
もっともっと成長して、いつかエーファに眩しいと思えるぐらいの男性になって
シェイマスの人生を歩んで行ってほしい。幸せになって!
感想をありがとうございます。
シェイマスは青かったですね...後悔したところでもう遅い!なのですが、この経験が彼を男にしてくれるといいなぁと思います。
改めまして、ありがとうございました。
切なくて哀しい想いの残るお話でした。
ありがとうございました。
感想をありがとうございます。
シェイマスに共感いただけたようで、嬉しいです。
読んでいただき、ありがとうございました!