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【5章】王太子ヴァーリックの婚約者
55.心からの
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「お父様……」
オティリエはつぶやきつつ、少しだけ後ろずさってしまう。
最後に父親に会ったのはもう一年近く前のことだ。あのとき父親はオティリエに対して形だけの謝罪をしてくれた。すまなかったと。
けれど、彼が悪いと思っていなかったことは明白だったし、謝られたからといってすべてが帳消しになるわけではない。オティリエにとって父親は恐怖と悲しみ、苦しみの象徴だった。
(怖い……)
父親を見ることが。声を聞くことが。……オティリエに対する心の声を聞くことが。
彼がそこにいると思うだけで胃のあたりがキュッと痛むし、息が浅くなってしまう。逃げ出したい――そう思ってしまうのも無理はない。
「オティリエ」
と、ヴァーリックがそっとオティリエの肩を抱く。大丈夫だよとほほえまれ、オティリエはおそるおそる父親のことを見た。
「あの……」
なにを話せばいいのだろう? 会話らしい会話をしたこともないし、どうすればいいのかわからない。父親はずっと押し黙ったまま、オティリエのことを見つめ続けている。
「お父様……あの」
「すまなかった、オティリエ!」
「……え?」
目の前で父親がうずくまる。彼の身体はひどく震えていて、オティリエは思わず目を丸くしてしまった。
「お父様?」
慌てて駆け寄ったオティリエの耳に、父親のすすり泣きが聞こえてくる。
「すまなかった……! 本当に、すまなかった! 私はなんてことを……なんてことをっ…………!」
これが形ばかりの謝罪でないことは見ればわかる。父親の悔恨の念が痛いほど伝わってくるし、オティリエまでつられて泣きそうになってしまうほど。
「お父様……あの、頭を上げてください」
父親はうずくまったまま激しく首を横に振る。嗚咽が執務室に響き渡り、オティリエはギュッと胸を押さえた。
「謝って済む問題でないことはわかっているんだ。謝罪をすることで自分が楽になりたいだけだろうと罵られたって仕方がない。けれど私は、オティリエにあまりにも申し訳なくて……! オティリエがどれほど辛い思いをしてきたか、気づいてやれなかった。守ってやれなかった。それどころか、私自身がオティリエを苦しめてしまうなんて……! すまなかった、オティリエ! 本当に、すまなかった!」
ガンガンと地面に頭を打ち付けながら、父親がオティリエに謝罪をする。
「お父様、やめて! 頭を上げてください! これでは落ち着いて話しができません」
「しかし……」
「私はお父様の口からきちんと話を聞かせてほしいんです」
オティリエはそう言ってまっすぐに父親を見る。涙でぐちゃぐちゃに歪んだ表情、オティリエと同じ紫色の瞳。生まれてはじめて父親から憎悪や嫌悪以外の感情を向けられて、正直なところ戸惑わずにはいられない。けれど、この機会を逃したら一生彼とはわかりあえないかもしれない。
「侯爵、オティリエもこう言っているんです。落ち着いて話しをしましょう」
「で、殿下……はい。承知しました」
父親はアルドリッヒに背中をたたかれ、ゆっくりと身体を起こした。
「それで、どうしていきなりお父様が……? 最後にお会いしたときには……その、全面的にお姉様の味方をしていらっしゃいましたし、私のことをうとんでいたと記憶をしているのに」
落ち着いた頃合いを見計らい、オティリエが話を切り出す。父親はウッと気まずそうな表情を浮かべたあと【なにから切り出せばいいか……】と考えあぐねている。
「うっ……」
そうこうしている間に再び感情が昂ぶってしまったらしい。父親は声をあげて泣きはじめてしまった。
(どうしましょう? また泣き始めてしまったわ)
オティリエは戸惑いながらヴァーリックを見る。と、アルドリッヒがそっと身を乗り出した。
「オティリエ、ごめん。お父様はこんな状態だし、自分からは話しづらい点もあるだろうから、俺から説明してもいい?」
「お兄様……はい、よろしくお願いいたします」
「まずはじめに伝えたいのは、お父様は俺や使用人たちと同じで、ずっとイアマの魅了にかかっていたってこと。それこそ君が生まれたときからイアマに毒されていたんだ」
「……はい」
アインホルン邸から連れ出されたとき、オティリエは父親の心を読んだ。ヴァーリックの能力により魅了を一時的に解かれた彼が、己の過去を思い出しているのを。
あのとき見た映像……生まれたばかりのオティリエから父親の愛情を奪ったイアマの姿は忘れたくても忘れられない。父親がイアマに魅了をされ、言うことを聞かされているのは明白だった。
だからといって、彼からされたひどい仕打ちは消えないし、決していい感情は抱けないけれど。
「そんなお父様がどうしていきなり正気を取り戻したのか……本当はね、いきなりなんかじゃないんだよ。ヴァーリック殿下が定期的にお父様と面会をしてくださっていたんだ」
「え?」
その瞬間、オティリエは大きく目を見開く。急いでヴァーリックのことを見ると、彼はとても穏やかに瞳を細めた。
「殿下は少しずつ、何度も何度も時間をかけてお父様の魅了の影響を薄れさせいったんだ。それで、最近になってようやく完全に無効化することに成功したそうなんだけど……」
「ヴァーリック様が……? そんな! だけどそんなこと、ひとことだって……!」
「侯爵の名前を出したり会っていることを伝えたりしたら、オティリエが怯えてしまうと思ったんだ。さっきも侯爵を見るなりとても辛そうな表情をしていたし、できる限り嫌な思いはさせたくなかったから」
「ヴァーリック様……」
オティリエの瞳に涙がたまる。ヴァーリックの優しさ、深い愛情を感じて、心がたまらなく温かかった。
「婚約披露までの間になんとか侯爵の魅了を解きたいと思っていたんだ。間にあってよかったよ。もしかしたらオティリエはそんなことを望んでいなかったかもしれないけど」
ヴァーリックの言葉にオティリエは首を横に振る。それから、両手に顔を埋めて泣きじゃくった。
「私……別に謝ってほしかったわけじゃなかったんです。なにをしたって過去が消えるわけじゃないし、お父様はいわば被害者ですもの。だけど……」
ダメだ、涙が止まらない。胸の中のわだかまりが溶けてなくなっていくかのよう。絶対、なにがあっても消えないと思っていたのに……。
「お父様、本当に? 私のことを心から憎んでいるわけではないのですか? ……お姉様と同じように、娘だと思ってくださいますか?」
「……! もちろんだ」
それまで押し黙っていた父親がようやく口を開く。彼はオティリエの側までやってくると、そっと彼女の手を握った。
「これから妃になるオティリエに向かって、今さら父親ヅラできるだなんて思っていない。しかし私はおまえのことを……オティリエの幸せを心から願っているし、できる限りのことをしてやりたいと思っている。本当だ。信じてほしい」
優しく慈しむような眼差し。家族のぬくもり。それらはオティリエがずっとずっとほしくてたまらないものだった。彼女は「お父様」とつぶやきつつ、瞳を細める。
(もう十分だわ)
辛かった記憶が完全に消えるわけではないが、オティリエの心はこれ以上ないほどに救われた。オティリエさえ望めば、これから先父親と新しい関係を築いていくことも可能だろう。ぜんぶぜんぶ、ヴァーリックのおかげだ。
「ありがとうございます、ヴァーリック様」
「……オティリエが笑ってくれてなによりだよ」
ヴァーリックのほほえみにオティリエの胸がドキッと高鳴る。すでにこれ以上ないほど好きなのに……どれだけ夢中にさせれば気が済むのだろう。平常心を装ったものの、オティリエはドキドキが止まらなかった。
「ところで、今日はオティリエにプレゼントを持ってきたんだよ」
アルドリッヒはそう言うと、テーブルの上に小さなビロードの小箱を乗せる。
「これは?」
「妻の――おまえの母親の形見のブローチだ」
うながされて小箱を開けてみる。なかには海のように深い青色の大きなサファイアが。周りには小さなダイアモンドが散りばめられており、王室顔負けの一品だ。
「これを私に? けれど、よろしいのですか? お母様との大事な思い出の品なのでしょう?」
「思い出の品だからこそオティリエに持っていてほしいんだ。この石はきっとおまえのことを守ってくれるよ」
父親の返事を聞きながら、オティリエはブローチをそっと撫でる。
(お父様が私にお母様との思い出の品をくれるなんて……)
夢でも見ているのだろうか? ……そう尋ねたくなってしまう。けれど、これは紛れもない現実だ。
「ありがとうございます、お父様」
うまれてはじめて父親に向ける満面の笑み。オティリエの父親はハッと目を丸くしたあと、再び大声で泣きじゃくるのだった。
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最後に父親に会ったのはもう一年近く前のことだ。あのとき父親はオティリエに対して形だけの謝罪をしてくれた。すまなかったと。
けれど、彼が悪いと思っていなかったことは明白だったし、謝られたからといってすべてが帳消しになるわけではない。オティリエにとって父親は恐怖と悲しみ、苦しみの象徴だった。
(怖い……)
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彼がそこにいると思うだけで胃のあたりがキュッと痛むし、息が浅くなってしまう。逃げ出したい――そう思ってしまうのも無理はない。
「オティリエ」
と、ヴァーリックがそっとオティリエの肩を抱く。大丈夫だよとほほえまれ、オティリエはおそるおそる父親のことを見た。
「あの……」
なにを話せばいいのだろう? 会話らしい会話をしたこともないし、どうすればいいのかわからない。父親はずっと押し黙ったまま、オティリエのことを見つめ続けている。
「お父様……あの」
「すまなかった、オティリエ!」
「……え?」
目の前で父親がうずくまる。彼の身体はひどく震えていて、オティリエは思わず目を丸くしてしまった。
「お父様?」
慌てて駆け寄ったオティリエの耳に、父親のすすり泣きが聞こえてくる。
「すまなかった……! 本当に、すまなかった! 私はなんてことを……なんてことをっ…………!」
これが形ばかりの謝罪でないことは見ればわかる。父親の悔恨の念が痛いほど伝わってくるし、オティリエまでつられて泣きそうになってしまうほど。
「お父様……あの、頭を上げてください」
父親はうずくまったまま激しく首を横に振る。嗚咽が執務室に響き渡り、オティリエはギュッと胸を押さえた。
「謝って済む問題でないことはわかっているんだ。謝罪をすることで自分が楽になりたいだけだろうと罵られたって仕方がない。けれど私は、オティリエにあまりにも申し訳なくて……! オティリエがどれほど辛い思いをしてきたか、気づいてやれなかった。守ってやれなかった。それどころか、私自身がオティリエを苦しめてしまうなんて……! すまなかった、オティリエ! 本当に、すまなかった!」
ガンガンと地面に頭を打ち付けながら、父親がオティリエに謝罪をする。
「お父様、やめて! 頭を上げてください! これでは落ち着いて話しができません」
「しかし……」
「私はお父様の口からきちんと話を聞かせてほしいんです」
オティリエはそう言ってまっすぐに父親を見る。涙でぐちゃぐちゃに歪んだ表情、オティリエと同じ紫色の瞳。生まれてはじめて父親から憎悪や嫌悪以外の感情を向けられて、正直なところ戸惑わずにはいられない。けれど、この機会を逃したら一生彼とはわかりあえないかもしれない。
「侯爵、オティリエもこう言っているんです。落ち着いて話しをしましょう」
「で、殿下……はい。承知しました」
父親はアルドリッヒに背中をたたかれ、ゆっくりと身体を起こした。
「それで、どうしていきなりお父様が……? 最後にお会いしたときには……その、全面的にお姉様の味方をしていらっしゃいましたし、私のことをうとんでいたと記憶をしているのに」
落ち着いた頃合いを見計らい、オティリエが話を切り出す。父親はウッと気まずそうな表情を浮かべたあと【なにから切り出せばいいか……】と考えあぐねている。
「うっ……」
そうこうしている間に再び感情が昂ぶってしまったらしい。父親は声をあげて泣きはじめてしまった。
(どうしましょう? また泣き始めてしまったわ)
オティリエは戸惑いながらヴァーリックを見る。と、アルドリッヒがそっと身を乗り出した。
「オティリエ、ごめん。お父様はこんな状態だし、自分からは話しづらい点もあるだろうから、俺から説明してもいい?」
「お兄様……はい、よろしくお願いいたします」
「まずはじめに伝えたいのは、お父様は俺や使用人たちと同じで、ずっとイアマの魅了にかかっていたってこと。それこそ君が生まれたときからイアマに毒されていたんだ」
「……はい」
アインホルン邸から連れ出されたとき、オティリエは父親の心を読んだ。ヴァーリックの能力により魅了を一時的に解かれた彼が、己の過去を思い出しているのを。
あのとき見た映像……生まれたばかりのオティリエから父親の愛情を奪ったイアマの姿は忘れたくても忘れられない。父親がイアマに魅了をされ、言うことを聞かされているのは明白だった。
だからといって、彼からされたひどい仕打ちは消えないし、決していい感情は抱けないけれど。
「そんなお父様がどうしていきなり正気を取り戻したのか……本当はね、いきなりなんかじゃないんだよ。ヴァーリック殿下が定期的にお父様と面会をしてくださっていたんだ」
「え?」
その瞬間、オティリエは大きく目を見開く。急いでヴァーリックのことを見ると、彼はとても穏やかに瞳を細めた。
「殿下は少しずつ、何度も何度も時間をかけてお父様の魅了の影響を薄れさせいったんだ。それで、最近になってようやく完全に無効化することに成功したそうなんだけど……」
「ヴァーリック様が……? そんな! だけどそんなこと、ひとことだって……!」
「侯爵の名前を出したり会っていることを伝えたりしたら、オティリエが怯えてしまうと思ったんだ。さっきも侯爵を見るなりとても辛そうな表情をしていたし、できる限り嫌な思いはさせたくなかったから」
「ヴァーリック様……」
オティリエの瞳に涙がたまる。ヴァーリックの優しさ、深い愛情を感じて、心がたまらなく温かかった。
「婚約披露までの間になんとか侯爵の魅了を解きたいと思っていたんだ。間にあってよかったよ。もしかしたらオティリエはそんなことを望んでいなかったかもしれないけど」
ヴァーリックの言葉にオティリエは首を横に振る。それから、両手に顔を埋めて泣きじゃくった。
「私……別に謝ってほしかったわけじゃなかったんです。なにをしたって過去が消えるわけじゃないし、お父様はいわば被害者ですもの。だけど……」
ダメだ、涙が止まらない。胸の中のわだかまりが溶けてなくなっていくかのよう。絶対、なにがあっても消えないと思っていたのに……。
「お父様、本当に? 私のことを心から憎んでいるわけではないのですか? ……お姉様と同じように、娘だと思ってくださいますか?」
「……! もちろんだ」
それまで押し黙っていた父親がようやく口を開く。彼はオティリエの側までやってくると、そっと彼女の手を握った。
「これから妃になるオティリエに向かって、今さら父親ヅラできるだなんて思っていない。しかし私はおまえのことを……オティリエの幸せを心から願っているし、できる限りのことをしてやりたいと思っている。本当だ。信じてほしい」
優しく慈しむような眼差し。家族のぬくもり。それらはオティリエがずっとずっとほしくてたまらないものだった。彼女は「お父様」とつぶやきつつ、瞳を細める。
(もう十分だわ)
辛かった記憶が完全に消えるわけではないが、オティリエの心はこれ以上ないほどに救われた。オティリエさえ望めば、これから先父親と新しい関係を築いていくことも可能だろう。ぜんぶぜんぶ、ヴァーリックのおかげだ。
「ありがとうございます、ヴァーリック様」
「……オティリエが笑ってくれてなによりだよ」
ヴァーリックのほほえみにオティリエの胸がドキッと高鳴る。すでにこれ以上ないほど好きなのに……どれだけ夢中にさせれば気が済むのだろう。平常心を装ったものの、オティリエはドキドキが止まらなかった。
「ところで、今日はオティリエにプレゼントを持ってきたんだよ」
アルドリッヒはそう言うと、テーブルの上に小さなビロードの小箱を乗せる。
「これは?」
「妻の――おまえの母親の形見のブローチだ」
うながされて小箱を開けてみる。なかには海のように深い青色の大きなサファイアが。周りには小さなダイアモンドが散りばめられており、王室顔負けの一品だ。
「これを私に? けれど、よろしいのですか? お母様との大事な思い出の品なのでしょう?」
「思い出の品だからこそオティリエに持っていてほしいんだ。この石はきっとおまえのことを守ってくれるよ」
父親の返事を聞きながら、オティリエはブローチをそっと撫でる。
(お父様が私にお母様との思い出の品をくれるなんて……)
夢でも見ているのだろうか? ……そう尋ねたくなってしまう。けれど、これは紛れもない現実だ。
「ありがとうございます、お父様」
うまれてはじめて父親に向ける満面の笑み。オティリエの父親はハッと目を丸くしたあと、再び大声で泣きじゃくるのだった。
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