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【1章】男爵令嬢メリンダの場合
1.叶わぬ恋と、王太子のキス
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わたしは呆然と目を瞬いた。
視界の端に映るのは滑らかな美しい肌と、エメラルドみたいに綺麗な緑色の瞳、風に揺れる美しい金色の髪だけ。あまりにも綺麗で、幻想的で、まるで夢の中にいるみたいだ。
だけど、腰を抱き寄せるたくましい腕、頬を撫でる手のひらの感触、それから唇を覆う温もりが、これは現実だって教えてくれた。
好きな人の婚約が決まった。
それなのに今、わたしは好きな人にキスをされている――――。
***
メリンダ・ウォルバートはしがない男爵家の娘として生まれた。実家は特別裕福でも、けれど貧しいわけでもない、普通の貴族令嬢だった。
彼女は、16歳のときに王宮で侍女として働くことになった。幼い王女殿下の侍女が募集されていたためだ。
王宮で働いた経験は箔がつく。身分がつり合いそうな騎士や文官との出会いも多い。己の将来のため、彼女は意気揚々と王宮に向かった。
けれどそこで、メリンダは叶わぬ恋に落ちてしまった。
お相手はステファン・リリアンジェラ――――ここリリアンジェラ王国の王太子だ。
ステファンは見目麗しく、朗らかで明るいうえ、気高く公正な人だ。
丸みを帯びた優しい瞳、形良く高い鼻梁に常に弧を描いている綺麗な唇、そこから紡ぎ出される甘い声。彼を知れば誰もが夢中になってしまう――――それほどまでに彼は魅力的な人だった。
おまけにステファンは王女殿下をよく気にかけており、顔を見かける機会がとても多い。
メリンダのほのかな憧れが本気の恋に変わるまで、時間は全くかからなかった。
とはいえ、侍女と王太子が言葉をかわす機会など殆どない。
「おはよう。今日も妹のことをよろしく頼むよ」
ステファンはそう言って、いつも優しく微笑んでくれる。その場には他の侍女や近衛騎士たちもいて、全員に向けられた言葉だと分かっている――――けれど、まるで自分だけが声をかけてもらえたような心地がし、メリンダはとても嬉しく感じた。
叶わぬ恋だということは分かっている。
それでも、彼の顔を見られるだけで、声を聞けるだけで、その日一日頑張れる。
いつか彼が結婚するその日まで――――この恋心を大事に守り育てようと、メリンダは心に決めていた。
「ねえ、聞いた? ステファン殿下がついにご婚約なさるんですって」
けれど、働きはじめて二年が経ったある日のこと、ついにメリンダの恋が終わる日がやってきた。
(ステファン殿下が婚約を……?)
なにも知らなかったメリンダは、驚きに目を見開き、激しい胸の痛みに襲われる。
「本当に? ショック~~」
「だよねぇ。短い恋だったなぁ。まあ、望みなんて最初からなかったんだけど!」
同僚たちがそんなことを言いながら笑っている。けれど、彼に本気で恋をしていたメリンダは言葉が出ず、上手に笑うことも出来なかった。
「お相手は公爵令嬢のリズベット様だそうよ。才色兼備で有名な」
「ああ、あの! そっか……リズベット様ならまあ納得できるかなぁ。殿下のお相手が中途半端なご令嬢じゃ嫌だものね」
「そうそう。以前夜会でお見かけしたことがあるけど、本当に素敵な方だったもの。嫌でもお祝いしなきゃって感じ」
望んでもいないのにもたらされる情報たち。メリンダはそれらを聞きながら、必死に心の整理をした。
(バカね……いつかはこんな日が来るって分かっていたでしょう?)
王太子であるステファンは世継ぎを残さなければならない。そのためには、誰もが認める令嬢と、程よい時期に結婚をする必要がある。
お相手は身分が高ければそれで良いというわけではなく、見た目や教養に優れている必要があるし、政治的な要素も大きく絡んでいる。
物語のように、身分の低い令嬢が知らない間に王子様に見初められ、声をかけられ、やがて結婚をするなんて都合のいい話は、現実では起こりようがないのだ。
(忘れよう)
さっさと誰かと結婚をして、ステファンへの恋心は過去の思い出にしてしまうべきだ。そうしなければメリンダはずっと、失恋の苦しみを引きずることになってしまう。うじうじしながら生きることが良いとは、彼女にはとても思えなかった。
と、そのとき、メリンダの瞳にとある人物の姿が映った。
サラサラと美しい金の髪に、スラリとした立ち姿。高貴かつ上品な出で立ちに、見ているこちらの背筋が伸びる。それが誰なのか――――遠目からでもすぐに分かった。
(ステファン様だわ!)
メリンダは思わず喜び――――それからすぐに肩をシュンと落とした。
これまでは、ステファンを一目見られるだけでも嬉しかった。
たとえ顔を見られずとも、ステファンの存在を感じられるだけで嬉しくて、幸せで。たとえ気のせいでも、目があったと感じたときには、天にも昇る心地がした。
けれど今は、とてもそんなふうには思えない。
彼はメリンダではない別の誰かとの結婚が決まっている。この恋心が叶うことは一生ない。そうと分かっているから、顔を見ても辛いだけだ。苦しいだけだ。
メリンダがくるりと踵を返す。けれどそのとき、思わぬことが起こった。
「待ってくれ」
遠くから聞こえるステファンの声。
誰に向かって言っているのだろう――――一瞬だけそんなふうに思ったが、この場にはメリンダの他に誰も居なかったはずだ。
足音が段々こちらに向かって近づいてくる。緊張と期待でメリンダの胸が高鳴る。思わず後を振り返ったら、ステファンが真っ直ぐにメリンダのことを見つめていた。
視界の端に映るのは滑らかな美しい肌と、エメラルドみたいに綺麗な緑色の瞳、風に揺れる美しい金色の髪だけ。あまりにも綺麗で、幻想的で、まるで夢の中にいるみたいだ。
だけど、腰を抱き寄せるたくましい腕、頬を撫でる手のひらの感触、それから唇を覆う温もりが、これは現実だって教えてくれた。
好きな人の婚約が決まった。
それなのに今、わたしは好きな人にキスをされている――――。
***
メリンダ・ウォルバートはしがない男爵家の娘として生まれた。実家は特別裕福でも、けれど貧しいわけでもない、普通の貴族令嬢だった。
彼女は、16歳のときに王宮で侍女として働くことになった。幼い王女殿下の侍女が募集されていたためだ。
王宮で働いた経験は箔がつく。身分がつり合いそうな騎士や文官との出会いも多い。己の将来のため、彼女は意気揚々と王宮に向かった。
けれどそこで、メリンダは叶わぬ恋に落ちてしまった。
お相手はステファン・リリアンジェラ――――ここリリアンジェラ王国の王太子だ。
ステファンは見目麗しく、朗らかで明るいうえ、気高く公正な人だ。
丸みを帯びた優しい瞳、形良く高い鼻梁に常に弧を描いている綺麗な唇、そこから紡ぎ出される甘い声。彼を知れば誰もが夢中になってしまう――――それほどまでに彼は魅力的な人だった。
おまけにステファンは王女殿下をよく気にかけており、顔を見かける機会がとても多い。
メリンダのほのかな憧れが本気の恋に変わるまで、時間は全くかからなかった。
とはいえ、侍女と王太子が言葉をかわす機会など殆どない。
「おはよう。今日も妹のことをよろしく頼むよ」
ステファンはそう言って、いつも優しく微笑んでくれる。その場には他の侍女や近衛騎士たちもいて、全員に向けられた言葉だと分かっている――――けれど、まるで自分だけが声をかけてもらえたような心地がし、メリンダはとても嬉しく感じた。
叶わぬ恋だということは分かっている。
それでも、彼の顔を見られるだけで、声を聞けるだけで、その日一日頑張れる。
いつか彼が結婚するその日まで――――この恋心を大事に守り育てようと、メリンダは心に決めていた。
「ねえ、聞いた? ステファン殿下がついにご婚約なさるんですって」
けれど、働きはじめて二年が経ったある日のこと、ついにメリンダの恋が終わる日がやってきた。
(ステファン殿下が婚約を……?)
なにも知らなかったメリンダは、驚きに目を見開き、激しい胸の痛みに襲われる。
「本当に? ショック~~」
「だよねぇ。短い恋だったなぁ。まあ、望みなんて最初からなかったんだけど!」
同僚たちがそんなことを言いながら笑っている。けれど、彼に本気で恋をしていたメリンダは言葉が出ず、上手に笑うことも出来なかった。
「お相手は公爵令嬢のリズベット様だそうよ。才色兼備で有名な」
「ああ、あの! そっか……リズベット様ならまあ納得できるかなぁ。殿下のお相手が中途半端なご令嬢じゃ嫌だものね」
「そうそう。以前夜会でお見かけしたことがあるけど、本当に素敵な方だったもの。嫌でもお祝いしなきゃって感じ」
望んでもいないのにもたらされる情報たち。メリンダはそれらを聞きながら、必死に心の整理をした。
(バカね……いつかはこんな日が来るって分かっていたでしょう?)
王太子であるステファンは世継ぎを残さなければならない。そのためには、誰もが認める令嬢と、程よい時期に結婚をする必要がある。
お相手は身分が高ければそれで良いというわけではなく、見た目や教養に優れている必要があるし、政治的な要素も大きく絡んでいる。
物語のように、身分の低い令嬢が知らない間に王子様に見初められ、声をかけられ、やがて結婚をするなんて都合のいい話は、現実では起こりようがないのだ。
(忘れよう)
さっさと誰かと結婚をして、ステファンへの恋心は過去の思い出にしてしまうべきだ。そうしなければメリンダはずっと、失恋の苦しみを引きずることになってしまう。うじうじしながら生きることが良いとは、彼女にはとても思えなかった。
と、そのとき、メリンダの瞳にとある人物の姿が映った。
サラサラと美しい金の髪に、スラリとした立ち姿。高貴かつ上品な出で立ちに、見ているこちらの背筋が伸びる。それが誰なのか――――遠目からでもすぐに分かった。
(ステファン様だわ!)
メリンダは思わず喜び――――それからすぐに肩をシュンと落とした。
これまでは、ステファンを一目見られるだけでも嬉しかった。
たとえ顔を見られずとも、ステファンの存在を感じられるだけで嬉しくて、幸せで。たとえ気のせいでも、目があったと感じたときには、天にも昇る心地がした。
けれど今は、とてもそんなふうには思えない。
彼はメリンダではない別の誰かとの結婚が決まっている。この恋心が叶うことは一生ない。そうと分かっているから、顔を見ても辛いだけだ。苦しいだけだ。
メリンダがくるりと踵を返す。けれどそのとき、思わぬことが起こった。
「待ってくれ」
遠くから聞こえるステファンの声。
誰に向かって言っているのだろう――――一瞬だけそんなふうに思ったが、この場にはメリンダの他に誰も居なかったはずだ。
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